畝火山口坐神社
うねびやまぐちじんじゃ


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【埴取(はにとり)の祭】

何時の頃から始まつたものであらうか明らかではないが、現今でも毎年祈年、新嘗の両度に、摂津の住吉神社から宮司・禰宜・主典が交替して、埴取使となり、随員二名、社僕一名と共に來参し、途中雲梯町の高市御縣坐鴨事代主神社(今、川俣神社と称する。)にて装束を調へてから登山した。埴取の場所は、山嶺に二間四方の域地に石垣をめぐらし、中に白梼樹をうゑてある。この前に石燈籠があり、高六尺、「堺住吉御峯山 御みねやま 文化三丙寅九月吉日」と彫まれてゐる。『摂津名所図會』にはこの神事を住吉神社側より見て同様の事を記してゐるが、この記事によると、この行事の濫觴としては日本書紀に神武天皇が天香久山の埴土をとつて八十平瓮を自ら造られ、諸神を祭り、天下の静謐を祈られた故事に慣ふとし、住吉神社でも古くは天香具山の土を求めたと言ふが、後に畝傍山に代へられたと説かれてゐる。また、その行程は十里であつたので、神社の神館を旅舎とした事、社内の清井にて手を清めて土を採ること、山中の榊枝を埴土にそへて持ち帰ること、土を入れる唐櫃は二合の総黒塗で、それをさらに一荷の大唐櫃に入れて担ひ、その土で四十八枚の平瓮を作つた等の事を知る事が出來る。


【鎮座地】

室町初期の文安3年(1446)に著された『五郡神社記』には「畝傍山口神社、在久米郷畝火山西山尾」とせられて、この當時には正しく山麓西ノ山の尾にあつたものである。ところが大谷神主所藏天正時代の畝傍山古図によれば、社殿は既に山嶺に描かれてをり、文安から天正の間に山上に遷坐した事が明らかである。口碑によると越智郷を本貫とする戦國期の豪族越智氏が、ここから南方3Km地点の貝吹山に城を築いた時、眞北の下方に神社が見えるのを恐れて、山頂に移したと言ふ。しかして祭神も本來あるベき大山祇命は末社にうつり、何時の頃か本社祭神に氣長足姫命、豊受比売命、表筒男命の三神を奉齋して現在に至つたものである。
江戸時代には池尻村に旗本陣屋を有した神保氏によつて、二十年毎に本殿の改造、又は屋根替が行なはれ、祭典の度毎に神供料五匁を奉納され、郷中も氏子四十二箇村三千余戸に及んだと傳へられてゐるが、明治似後これらの事も次第に絶え、近年は郷中も十二箇村となつた。昭和15年、皇紀2600年をむかへて國民的奉祝氣運の中にあつた時、畝傍山東南にあつた橿原神宮に大拡張工事が行なはれ、境内地を約15萬坪とせられたのを機會として、國家創始の霊地・霊社たる神武天皇畝傍山東北陵や神宮を脚下に瞰下するものとして、當社を山下に下るやう當局より命ぜられた。


山口(坐)神社

やまぐち(にます)じんじゃ 『延喜式神名帳』に大和国には夜支布・伊古麻・巨勢・鴨・当麻・大坂・吉野・石村・耳成・都祁の山口神社と長谷・忍坂・飛鳥・畝火の山口坐神社が見え、いずれも大社で祈年・月次・新嘗の官幣に預かり、また山城国には賀茂山口神社がみえる。四社のみ坐神社となっているのを、乾健治は地名を示すためか皇居に近いことを意味しているかであろうという。『延喜式四時祭』には、甘樫・飛鳥・石村・忍坂・長谷・吉野・巨勢・賀茂・当麻・大坂・膽駒・都祁・養生などの山口には各馬一匹を加えよとあり『延喜式神名帳』にない甘樫の名がみえる。『延書式祝詞』の祈年祭・月次祭に「山口に坐す皇神等の前に白さく、飛鳥・石村・忍坂・長谷・畝火・耳無と御名をば白して……皇御孫の命の瑞の御舎を仕え奉りて……四方の国を安国と平らけく知ろし食すが故に、皇御孫の命のうづの幣帛を称へ辞竟へ奉らくと宣ふ」とあり、広瀬大忌祭に「倭国の六御県の山口に坐す皇神等の前にも、皇御孫の命のうづの幣帛を……奉る。かく奉らば、皇神等の敷き坐す山々の口より、さくなだりに下し賜う水を……」とある。『延喜式臨時祭』の祈雨神祭に巨勢・賀茂・当麻・大坂・膽駒・石村・耳成。養生・都祁・長谷・忍坂・飛鳥・献火・古野の山口神社が預かっている。これらのことより、宮殿造営のため御料林伐採の際、山口に坐す神を祀ったこと、山口の水を司る神として、また祈雨神として奉祀されたことがわかる。神階は『三代実録』貞観元年(859)に『神名帳』にみえる14社の山口神社中、夜支布山口神に正五位上、その他13社の山口神に正五位下の昇叙がみえる。
▼畝火山口神社 奈良県橿原市大谷。旧郷社。気長足姫命・豊受比当ス・表筒男命を祀る。もと山麓にあったのを中古に山頂に遷祀し、昭和14年現在の地に奉遷した。大阪の住古大社より毎年2月朔日、11月初子日に当社の旧鎮座地へ埴土を取りにくる埴使の神事がある。例祭4月16日。

神社辞典



郷社 畝火山口神社

祭神 息長足姫命 豊受比当ス 表筒男命
本社創立年代詳かなちす、畝火明神と云ひ、又神功社と称す(和州旧跡幽考神祇志料)畝火、山本、大谷三村の界にあり、昔は畝火の山腹にありしを、後山頂に移し祭れり(大和志)平城天皇大同元年神封一戸を充て奉り(新抄格勅符)清和天皇貞観元年正月甲申從五位下より正五位下を授けられ、同年9月庚申風雨の御祈に使を遣はし幣を奉らしめ(三代実録)醍醐天皇延喜の制大社に列り、祈年、月次、新嘗の案上官幣及祈雨の幣に預る、即ち祈年祭山口神六座の一なり(延喜式)神社覈録に「祭神山神大山紙命、畦樋村に在す云々」とあり、常國山口の神社の例によれば然あるべく思はるれど、社記と異なる所あるは尚考ふべし、尚祈年祭に馬一匹を幣として加ふる習なるに、耳無と当社とには洩れて、同祭の祝詞の六處の中には加はれること耳無山口神社の祭にいへるが如し、又古より毎年2月朔霜月初子日、摂津住吉社より神官此社に來りて祭儀を行ひ、此の山の土をとりて神供に調じたりといふ、(国華萬葉記、大和志)畦樋、大谷、吉田、慈明寺、山本、大窪、四條、小世堂の氏神たり(大和志)明治6年郷社に列せられ、毎年10月22日祭を行ふ(奈良県神社取調書)
社殿は本殿、拝殿、神樂殿、社務所等の建物を具備し、境内6990坪(官有地第一種)、地は大和平野の中央に位し、全山鬱蒼たる樹木を以て包まれ、平野よりの遠属に可なり、耳成、香具の二山を合せて大和の三山と称せらる、特に此山は女山として名高く、天智天皇の御製に「かぐやまは、畝火ををしと、耳成と、あひあらそひき、神代より、かくなるらし、古へも、しかなれこそ、うつせみも、妻をあらそふらしき」などの詠ありて甚だ著名なり。

明治神社誌料



畝火山口坐神社 大月次新嘗

畝火は宇禰比と訓べし、山口は前に同じ、○祭神山神大山祇命○畔樋村に在す、昔在畝火山腹、今遷山頂(大和志、同名所図会)〇式八(祝詞)祈年祭祝詞に、飛鳥云々、畝火耳無登御名者白氏云々、』同三、(臨時祭)祈雨祭神八十五座、(並大)云々、畝火山口社一座、○当國六処山口の一座也、事は飛鳥山口社の下見合すべし、
連胤去、当國に山口社都て十五社あり、其中に十三処は、祈年祭の幣に馬一匹を加ふとあれど、畝火・耳無の二処は洩れたり、然るにまた同祭の祝詞の六処の中には加はれり、如何なる故とも知がたし、
類社
当郡飛鳥山口坐神社の下見合すべし
神位
三代実録、貞観元年正月27日甲申、奉授大和国從五位下畝火山口神正五泣下、
官幣
三代実録、貞観元年9月8日庚申、大和国畝火山口神、遣使奉幣、為風雨祈焉、

神社覈録






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