飛鳥坐神社
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   【延喜式神名帳】飛鳥坐神社 四座(並名神大 月次/相嘗/新嘗)大和国 高市郡鎮座
          (末社)飛鳥山口坐神
          (旧地)飛鳥坐神社【旧地】

   【現社名】飛鳥坐神社
   【住所】奈良県高市郡明日香村飛鳥708
       北緯34度28分46秒,東経135度49分21秒
   【祭神】天事代主命 高皇産霊命 飛鳥神奈備三日女命 大物主命
       『大神分身類社鈔』鴨都味歯八重事代主命 高照光照命 木俣命 建御名方命
       『五郡神社記』杵築大己貴命 神南火飛鳥三日女神 上鴨味耜高彦神 下鴨八重事代主命
       『社家縁起』事代主命 高照比売命 建御名方命 下照姫命

   【例祭】2月第1日曜日 お田植祭
   【社格】旧村社
   【由緒】朱鳥元年(686)7月に奉幣
       天長6年(829)3月遷同郡同郷鳥形山依神託宣也
       貞観元年(859)9月奉幣して風雨を祈る
       貞観16年(874)6月28日太政官符に記載『類聚三代格』
       明応年中(1492〜1501)には神主一戸・社家五戸等
       寛永17年(1640)に植村家政が高市郡高取城主として封ぜられると
        當社が城地の鬼門に當るため、特に尊崇された
       元禄頃には境内末社五十余社が存した
       享保10年(1725)に本社・末社ともに火災で社殿の大部分が焼失
       安永10年(1781)城主植村出羽守家利が再建

   【関係氏族】飛鳥直
   【鎮座地】元来は賀美郷甘南備山に鎭座していた
        天長6年(829)3月に現在地へ遷

   【祭祀対象】
   【祭祀】近世では飛鳥大神宮、あるいは元伊勢とも称した
   【公式HP】 飛鳥坐神社
   【社殿】本殿四間社流造 屋根銅板葺
       祝詞屋・拝殿・神樂所

   【境内社】飛鳥山口坐神社、八幡神社、中之社、奥之社
       祓戸社、八神殿、琴平社、稻荷社、宇賀御魂社
       その他末社四十一社、合計五十社あり


飛鳥川東方の多武峯山塊より西北に派生した尾根の先端に位置する。
天長6年(829)3月賀美郷甘奈備山より遷という。
「神奈備山」の比定地ははっきりしておらず、「甘橿丘(飛鳥坐神社のすぐ西方)」「雷岡(飛鳥坐神社の北西)」「ミハ山(飛鳥坐神社の南方・石舞台古墳の南方)」の3ケ所が主な比定地とされている。
 とりわけ、最後者の「ミハ山」は、近くに賀夜奈留美神を祀る神社があったり、ミハ山を有する祝戸地区国営歴史公園には、男根石として知られる「マラ石」や、それと対になってそびえたつ標高約200mのフグリ山(山頂には奇岩怪石がたくさん)があったりなど、その岩石祭祀学的な見地からも、神社学的な見地からも内容豊富で有力かと思われる。
『式内社調査報告』では、「西南約200mの天神山と称する丘陵、またその南方の酒船石を『大和志』では飛鳥神社の旧酒殿所在地と伝へており、これ等を含めた広大な地域が飛鳥坐神社の旧境内地であつたと考へられる。」としている。
境内そこかしこに棒状の立石(陽石)が安置されており、境内末社も多く合計五十社とされている。
社藏の神像三体は何れも木彫坐像で、そのうち男体・女体の二体は平安朝前期の彫刻になるという。
奇祭おんだ祭で高名である。
当社地が天照大神を初めて宮中の外で祀った地「倭笠縫邑」であるとする伝承もある。


飛鳥坐神社縁起

御祭神
事代主神 高皇産霊神 飛鳥神奈備三日女神 大物主神
鎮座地
奈良県高市郡明日香村大字飛鳥字神奈備708
御由緒
国のまほろば大和の国に古代より皇室の守護神として鎮まります当神社の主神、事代主神は恵美須神の御名で世に広く知られております。大国主神の第一子で父神とともに力を合わせ、この国土を拓き民の衣、食、住は勿論、その他万物の生きるための基礎作りをされた大神であります。
古典によりますと、神代の昔皇祖天照大神が皇国の基を定めようとされ、大国主神のもとに国土を天の神に奉るよう御使を遣わされました。大国主神はその事を事代主神に相談され、そのすすめによって国土を捧げられました。そうして大国主神は、わが子事代主神を数多くの神々の先頭に立たせ皇祖に仕えさせたならば、皇祖の国づくりに逆らう神は無いであろうと、皇室の近き守護神として事代主神とその妹神、飛鳥神奈備三日女神(賀夜奈留美神)の神霊を奉齊なされたのが当神社の創建であって、実に神代から続いている大社であります。
前述のごとく、この飛鳥の地に永く都のあったことと神代に当社がこの地に創建されたとする伝承とは決して偶然ではなく、すでに神代の昔から大和の国は将来都と定めるべき美地なることを父神の大国主神は予知されていたのであります。以来事代主神、飛鳥神奈備三日女神を始め四柱の神々は協力して皇室の守護をはじめ、日本人に生活のあるべき道を教え、農業、工業、商業など、産業振興の神として、その由緒の顕著なことは多くの古書に記述されているところであります。特に子宝、縁結び、厄除、治病、製薬、交通安全、商売繁昌、家内安全、夫婦和合等、専ら国利民福を図られ、その御神徳は著しいものであります。
当社は天武天皇朱鳥元年七月に天皇の御病気の平癒を祈る奉幣があったことにも示されるように、皇室の近き守り神として奉祀され、天長六年に神託により神奈備山より現今の鳥形山へ遷祀されました。延喜式によれば名神大社に列し、祈年、月次、相嘗、新嘗、祈雨等の奉幣に預かり、祈年祭には特に馬一匹を加えられました。正平元年8月後村上天皇より金五十枚を賜わり中ノ社が再建されております。このように朝廷でも一般でも広く尊崇せられたことが察せられます。
降って寛永17年(1640)に植村家政が高取城主として封ぜられると、当社がその城の鬼門にあたるため、特に深く信仰されました。元禄頃には境内に末社五十余社が存したが、享保10年(1725)に本社、末社ともに火災に会い、社殿の大部分が焼失したので安永10年(1781)城主植村出羽守家利が再建し、天明元年(1781)正遷宮が行なわれました。これが現存の社殿であります。このように古代から数々の変遷を経て今に至っています。
主な祭典・神事
元旦祭〈1月1日〉
当日早旦敬白文を奏す。天地四方を拝し、神前へ雑煮を奉る。
筆供養祭〈1月15日〉
文化の発祥地としての飛鳥の地で筆にかかわりのある崇敬者が古筆を持ち寄り供養祭を執り行なう。
おんだ祭〈2月第一日曜〉
春の始めにあたって五穀豊穣、子孫繁栄を祈る。参拝者は苗松、福の紙の授与を受けるため日本各地からどっと押し寄せる。夫婦をはじめ、人と人との和合のための祭ともされ、また、西日本三大奇祭の一つでもある。
祈年祭〈2月17日〉
年祈の祭といい、年の始めに当たり、その年の豊作を祈願する大切な祭であります。日本は瑞穂の国とも云われ、我が国の最も重要な祭典であります。
交通安全祈願祭〈4月6日〉
春の交通安全週間の初日に一年間の無事故、無違反を祈願する。新入園児に村内高齢者達が丹念に育てた「ひょうたん」を御守として授与する。
祖神祭〈4月15日〉
御祭神の御神徳を仰ぎ感謝と益々の御守護を祈願する祭であります。特に大神様より口伝により社家に伝えられている「火傷の薬」が当日授与される。
大祓式〈6月、12月晦日〉
無病息災と家運隆昌を祈念し、身体を清めることは勿論精神をも清め、清浄な心身に立ちかえり、新しい生活に踏み出すことを願う神事であります。
七夕祭り〈8月7日〉
乞功ともいわれ昔から上達祈願を行なうが、短冊に縁結びをはじめいろいろの願いを祈願する。
七五三詣〈11月15日〉
万民愛育の御神徳から三歳、五歳、七歳の子供達の成育の健かならんことを祈願する。
新嘗祭〈11月23日〉
人間生活の道を守り導かれた大神様へ今年の新穀をお供えし、感謝をあらわすと共に、ひとしく国民の勤労をたたえる重要な祭典である。 宝物・文書・記録
大神鏡 径122p 厚6p 量260s 一面
神鏡  径45p           四面
刀剣                  六口
古銅印                 一個
麒麟欄間 左甚五郎彫刻なりと伝う    一面
社家縁起 世系図 元禄以来の口宣案、神職裁許状等
その他
飛鳥井
当神社の前にあり、催馬樂詞に
  飛鳥井に宿りはすべし をけかけもよし 御水もよし 御秣もよし
釈超空歌碑
国文学者である折口信夫先生は当飛鳥坐神社の神主、飛鳥助信の子、造酒ノ介の孫に当たる。若き日の旅の道すがら秋深い飛鳥の里の風趣に思い沁みて詠まれ、古里に寄せる感愛が深くこめられてします。
  ほすすきに 夕ぐもひくき 明日香のや わがふるさとは 灯をともしけり  超空他に花田比呂志、宮下歌悌、林光雄先生方の歌碑、句碑がある。
神職・氏子
氏子はなく、飛鳥家が代々神職として奉祀されている。飛鳥氏は事代主命七世の孫たる直比古命が崇神天皇の時、飛鳥直の姓を賜はって神主になったと伝え、降って元禄12年(1699)第75代大神助継の時、神祇管領卜部家より正六位下土佐守に任ぜられ、累世付近諸社の神職をも勤めて現在に至っている。現在の宮司は87代目である。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年




飛鳥坐神社

創建の詳細・場所に関しては不明なるも、『旧事本記』に「大己貴神(中略)次娶坐辺津宮高津姫命、生一男一女、児都味歯八重事代主神、坐倭国高市郡高市社、亦云甘奈備飛鳥社」(大己貴神(大物主神)が高津宮命を娶り一男一女を儲け、その子事代主神を飛鳥社の神奈備に坐せて)とあり、また「出雲国造神賀詞」(奈良・平安期の出雲国造がその代替わりごとに朝廷に参向して奏上したもの)には、「賀夜奈流美命能御魂乎、飛鳥乃神奈備爾坐天」(賀夜奈流美命(飛鳥神奈備三日女神)の御魂を飛鳥の神奈備に坐せて)とある。
すなわち大国主神が国土を天孫にお譲りになる際、わが子である事代主神を始めとする神々を天孫の守護神としてその神霊を祭らせた。その際に皇室守護の神として、事代主神とその妹神とされる賀夜奈流美命(飛鳥神奈備三日女神)の神霊を奉斎されたのが当社の起源とされる。
文献による当社の初見は、朱鳥元(686)年7月の『日本書紀』で「奉幣 於居紀伊国国懸社 飛鳥四社 住吉大社」とある。これは天武天皇の病気平癒の祈願のため、国懸神社と住吉大社とともに幣帛が奉られたものである。平安期の書物『日本紀略』には天長6(829)年3月に「賀美郷甘奈備山飛鳥社同郡同郷鳥形山遷依神託也」とありこの時に現在地に遷座した。
また当社が近世に元伊勢と称していたのは、現在地に遷座する以前に同地が天照大神を一時お祀りしていたとの伝承に由来するが、この場所に関しては諸説あって判然としない。
室町初期の正平3(1348)年8月、後村上天皇より金五十枚を賜り、中ノ社を再建したが、その後は足利氏にかなりの領地を没収され、明応期(1492−1501)には嗣子が幼年のため越知氏に併呑されて現在の社地となった。
江戸初期の寛永17(1640)年10月に初代高取藩主となった植村家政は、高取城の鬼門にあたる当社を深く信仰された。元禄11(1698)年には社殿を改築し大規模な遷座祭を行ったが、享保10(1725)年に里からの火災により、この時の社殿の大半を焼失し、安永10(1781)年に高取藩8代藩主・植村家利によって再建された。
近代に入り、明治21(1888)年保存資金として内務省より金百円、宮内省より金五十円が下賜されている。植村家利による再建から200年以上経過し本殿・拝殿が老朽化 してきたことから、平成13(2001)年4月吉野の丹生川上神社上社が大滝ダムの建設に伴い遷座するに際し、同上社を当地に移築し再建した。
なお当社には氏子がなく、崇神天皇に初代太宗直比古命が「飛鳥直(あすかあたい)」姓を賜って以来、飛鳥家が87代に亘りお護りしている

公式HP



飛鳥坐神社

祭神は事代主神・高皇産霊神・飛鳥三日比売神・大物主神
四紳であるが、『日本書紀』朱鳥元年(686)秋7月5日に飛鳥の四社に幣を奉られたとあるが、当時概に四座の神を祀っていたことを示している。しかし神名については区々である。『出雲国造神賀詞』には、大穴持命が倭大物主櫛甕玉命を大御和の神奈備に、阿遅須伎高孫根命を葛木鴨の神奈備に、事代主命を宇奈提に賀夜奈留美命を飛鳥の神奈備に坐せて皇孫命の近き守り神にしたとあるのは、この四紳を当社に合祀した事を示すとの説もあるが、最初は賀夜奈留美命一座であったのでないか。それがいつのころか四紳となった。『高市郡神社誌』では飛鳥三日比売神 とは賀夜奈留美命だとあるが、当社の主神であったのを忘れられて事代主命を主神と見ることになったとも見られる。『日本紀略』の天長6年(829)3月10日の条に「大和国高市郡賀美郷甘南備山飛鳥社、遷同郡同郷鳥形山、依神託宣也」とあるように当社は甘南備から遷祀したものである。旧甘南備山については今の雷丘・甘樫丘・橘のミハ山など諸説あって定めがたい。
貞観元年(859)9月8日他の42社と共に遣使奉幣して風雨の祈りをされている(『三代実録』)し、『延喜式』神名帳には名神大社として月次相嘗新嘗に案上官幣に預かる旨記されている。特に四時祭上の祈年祭の項には水分19社の1として馬一匹を加うとある。
毎年2月の第一日曜日(従来は旧正月11日)に古式にしたがって御田植祭が営まれ、豊年を予祝する夫婦和合の神事として名高い。

奈良県史



飛鳥坐神社おんだ祭

日時:2月第1日曜日
所在地:奈良県高市郡明日香村飛鳥
交通:近鉄橿原神宮前駅より奈良交通岡寺前行きバス飛鳥大仏前下車
内容:この日は正午頃から天狗と翁の面をかぶった村の若者がササラを振り回して村中を暴れ回る。2時頃には天狗も翁も引き上げてしまい、一番太鼓を合図に祭事が始まる。これが済むと天狗と翁の農夫と、黒牛の縫いぐるみををかぶった牛男が農作業を演じる。二番太鼓で神官が「種まき」と「植つけ」をおこなう。三番太鼓を合図に、黒紋付に赤い蹴出しのお多福とチョンマゲのボテかつらに印袢天の天狗が寄り添って登場する。天狗がまず「汁かけ」の行事を行った後、お多福がコロリとあお向けに寝ると素早く天狗がその上に乗りかかり「種付け」をおこなう。「種付け」が終わると二人はやおら立ち上がって懐中から紙を取り出し、股間をふいてその紙を観衆に散布する。この「ふくの紙」を使用すると子宝に恵まれるという。

社頭掲示板



奥の大石

◇「奥の大石」考察−石神か磐座か?
 さて、この奥社のさらに一番奥には、「奥の大石」と呼ばれる聖石が残っています。高さおよそ2.5mはある立石で、境内の立石群の中でも最も巨大です。形状はもちろん男性生殖器を模した細長い棒状で、自然物なのか加工物なのかは分かりませんが、形状もかなりリアルです(下写真を一見すればお分かりの通り)。飛鳥坐神社の中でもおそらく一番神聖な位置にある陽石と思われ、周りは玉垣で囲われ、立石には注連縄が巻かれています。
 「奥の大石」は高皇産霊神が宿っているとされる聖石で、まさに「ムスビ(産ビ)」の象徴として見劣りありません。高皇産霊神は、飛鳥坐神社遷座より昔から、鳥形山の陽石信仰を担当する造化の神ですから、これらのことから「奥の大石」は、飛鳥坐神社鎮座以前から鳥形山に根付いていた陽石信仰の中心石だったと解されます。

参照 http://f1.aaacafe.ne.jp/~megalith/asukanimasu.html



飛鳥坐神社

御由緒
当神社の創建は定かではありませんが、古典によりますと当社御祭神の事代主神は「大国主神の第一子で 国譲りの際信頼を受け、父神のご相談にのられました。その後首渠神(ひとごのかみ)として八十万の神々を統率し高市に集め この天高市(飛鳥)に鎮まりました」とあります また 先代旧事本紀には「大已貴神(大国主神)は高津地神を娶って一男一女を生み その御子神である車代主神が 高市社である廿南備飛鳥社に鎮座されている」と記載されています なお高市とはTってなの斎場(いつにね)」と呼ばれ「小高い所にあるまつりの庭」を音嵯するといわれています  また 万葉集の中で「飛鳥の神奈備」は 連綿と仰いできた神の森に人々が守られてきた様子が数多く謳われています。
次に 廷喜式神名帳には「飛鳥社四座 並びに名神大 月次新嘗 相嘗」と記され当時の神社の格付けの中で上位に置かれていたことが伺えます この廷喜大神名帳とは平安時代にはじめて神社の格付けがされ 当時これに記載された神社は大内社と呼ばれました その数は二八六一社でそのうち 新嘗祭の前に朝廷よりお供えをされる重要なお祭りが相宵祭で、全国にわずか七一坐に限られ 当社はその内の四座をしめています。
また「類聚三代格」(政府令)に「封戸ある大社は小社を修理すること」の一例に「たとえば飛鳥社が関係のある天大玉・臼滝・櫛玉・賀屋鴫比売神の四社を修理しているがごとく」と記されています。
日本紀略によれば 天長6年(829)高市那賀美郷にある神奈備山から 同郡同郷である 現在の地(外形山)に神託によって遷座されたことが記載されています  古代より 国・民の重要な守護神として この飛鳥に鎮まる当社には民子はなく 創始以来代々お護りしてきた神主家は 神主大比古今が崇神天皇より「大神朝臣飛鳥直」の氏姓を賜わり「飛鳥」の姓で今に至っております  徴代印 天車代主神から数えて七世に当たることが「世系図」や「新撰姓氏録」に記され現在の宮司は八十七代目に当たります。
御神徳
車代主神には「都味歯ハ重車代主神」・「於天事代於虚事代玉籤入彦厳之車代主神」という尊称があり 天地・宇宙に広がる御神徳が八重に積み重なっている神様です。
家内安全 商売繁盛 開運厄除 夫婦和合 身体健康 生育安全 念願成就等の御神徳があります。
また「むすひの神」として広く世に知られ相ふさわしいものを結び・産み・育てるとされる御神徳は 子宝 安産 縁結びの信仰と篤く全国に広がっています。 なお「創造・創作の導き神」として芸術に携わる人々の信仰に乞つながっています
御祭神
八重事代主神 飛鳥神奈備三日女神 大物主神 高皇産霊神

社頭掲示板



飛鳥坐神社

あすかにいますじんじや 奈良県高市郡明日香村飛鳥。旧村社。甘奈備の飛鳥の社とも。
『延喜式』に「飛鳥坐神社四座(並名神大。月次。相嘗。新嘗。)」とある。祭神四座には諸説がある。出雲国造神賀詞に「賀夜奈流美乃御魂乃飛鳥乃神奈備爾坐天」とみえ、『日本紀略』に天長6年(829)、神託により、もとの雷丘から今の鳥形山へ遷祀したと。貞観元年(859)正四位下を授けられる。二月第一日曜日におんだ祭(お田植神事)があり、予祝儀礼と夫婦和合の所作がある。

神社辞典



飛鳥坐神社四座 並名神大月次相嘗新嘗

飛鳥は阿須加と訓べし○祭神事代主命、(相殿三座詳ならず)○飛鳥村に在す、(大和志、同名所図会)〇式二、(四時祭下)相嘗祭神七十一座、飛鳥社四座、」同三、(臨時祭)名神祭二百八十五座、大和國飛鳥神社四座、」同祈雨祭神八十五座(並大)云々、飛鳥社四座、〇旧事紀(地神本紀)都味歯八重事代主神、坐倭国高市郡高市社、亦云甘南備飛烏社、(頭注に、高市社云甘南備飛鳥社とあるは、亦の字脱たるなるべし、また飛鳥社賀夜奈流美命といへるも、疎漏なる■■にて解しがたし、)〇式八(祝詞)出雲国造神賀詞に、己命乃御子、事代主命能御魂乎宇奈提爾坐、(祝詞考に宇奈提乃神南備に作る)賀夜奈流美命能御魂乎、飛鳥乃神南備爾坐天云々、〇類聚三代格一、貞観10年6月28日、太政官符、応以大社封戸修理小社事、(四箇条の初段)云々、其祖神則貴而有封、其裔神則微而無封、假令飛鳥神之裔天太玉、櫛玉、白瀧、賀屋鳴比女、此等類也、云々、〇姓氏録、(大和国神別)飛鳥直、天事代主命之後也、
考証に、社司云、四座事代主命、建御名方命、高照姫命、下照姫命也、此説與格文不合恐非也乎、と云へる却て非也、然るは此四座を除きて如何いはんや、己が考を以て、飛鳥神者高皇産霊尊、大己貴命也明矣といへど、さては二座たらず、且高皇産霊大己貴といふ事、古書に見えず、此社司は累世連綿の家なれば、古傳の遺れる事ありて、事代主及四神と云ならんには、是ぞ正しかるべき、
連胤、云、神賀詞に事代主命能御魂乎宇奈提爾坐といひ、和名鈔、(郷名部)高市郡雲梯(宇奈天)と、あるに、此帳宇奈提といふ社なきに惑ひて、考証は高市御縣社とす、古事記伝十一(六十六丁)に、万葉七に、真鳥住卯名手之神社之云々、十二に、不想乎想当云者、真鳥住卯名手乃杜之神思將御知、などよめる神社の御事と聞えたり、然るに式に此社の戴ざるは、いといと不審きわざならずや、此事は師も疑ひ志かれき、又かの神賀ノ文の連に、賀夜奈流美命能御魂乎、飛鳥乃神奈備爾坐天とあるも、式に高市ノ郡伽夜奈留美命神社は別に有て、飛鳥ノ神社とは異なれば、此又いぶかしきことなり、故つらつら思ふに、彼文は、事代主ノ命能御魂乎、飛鳥乃神奈備爾坐、賀夜奈流美命能御魂乎、宇奈提爾坐天、とあるべきがまがひで、誤れる物なるべし、其故は、飛烏ノ神社ぞ事代主ノ命にて、加夜奈流美ノ神社は、雲梯村にありと、今國人も云り、弘仁13年4月官符に、賀屋鳴比女社とあるは、決て此神社と聞えたるに、此を飛鳥ノ神の裔神の由あり、然るを彼ノ神賀ノ文の如くならば、賀夜奈留美ノ命即飛鳥神なれば、裔神たること違ヘり云々、此は彼村飛鳥に近く、又名の似たる故に、彼ノ神賀ノ文と合せて、推当に定めつるならむと云り、
鎮坐
日本紀略、天長6年3月己丑、大和國高市郡賀美郷甘南備山飛烏社、遷同郡同郷鳥形山、依神託宣也 
官幣
日本紀、天武天皇朱鳥元年7月癸卯、奉幣飛鳥四社、』三代実録、貞観元年9月8日庚申、大和國飛鳥社、遣便奉幣、為風雨祈焉、

神社覈録



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