緑濃い小牟漏岳の山麓に位置し、御手洗川を距てて丹生峰に対する広い段丘上に鎮座する。 北から三尾川、南から木津[コツ]川、東から日裏川の合流点でもある。 境内には大樹、見渡せば四方八方緑につつまれる景勝の地である。小牟漏岳境内地にツルマンリョウ、テンダイウヤク、ツクバネなど多種の植物が自生している。 もとは対岸の本宮山(旧地に摂社丹生神社が鎮座)に祈雨神として祀られていたと言う。 神武天皇が天神の教示で天神地祇をまつり、厳甓を川に沈めて戦勝を占った聖地という。顕彰碑が摂社丹生神社の前に建立されている。 吉野の氏族と深い由縁のあった天武天皇が、壬申の乱後、浄見原政権樹立に当たり、先の神武天皇伝承の地に当社を創祀したとされる。 大正4年森口奈良吉は『丹生川上神社考』で中社が式社丹生川上神社であることを証明。大正11年10月12日内務省告示で丹生川上神社中社と定められた。 |
丹生川上神社共通 天武天皇3年(674)「人境を隔てたる深山に我を祭らば、天下の為に甘雨を降らしめ、霖雨を止めん」との神勅ありて奉幣されたに始まる。世に丹生川上雨師の神と称し、祈雨には黒馬、止雨には白馬(後世赤馬)を献じた。 式内二十二社の第二十一位として朝廷の尊崇が篤かつた。 延喜の制で名神大社として四時祭の官幣に預かる。 淳仁天皇から応仁の乱に至るまで歴世神祇官差遣の上、奉幣祈願された事は実に九十六回に及ぶ。 これほどの名社も、応仁の乱以後、たとえば『親長卿記』明応5年(1496)には既に祈雨奉幣のための資力がないというような記事があり、丹生川上神社そのものの所在すら消息を失ってしまった。明治4年(1871)に至り、丹生大明神社(現下社)を官幣大社丹生川上神社としたが、これに対して寛平7年の太政官符にのる四至に適合しない、としてむしろ現上社をあてるべきとする『大日本史』に従い、同7年、高神社を官幣大社丹生川上神社奥宮とした。が、これにも異義の生ずるところとなり、同29年、丹生川上神社を下社、奥宮を上社とした。さらに東吉野村の蟻通神社が、その社辺をとおる高見川を古代の丹生川であるとして請願したことからこれを中社と認定するに至り、大正11に現在の中社を加え3社を一括して官幣大社丹生川上神社とする事になった。 このとき中社の祭神を罔象女神、上社を罔象女神から高お神へ、下社は高お神から闇お神へ改められた。 昭和27年、3社はそれぞれ独立した。 |
丹生川上神社 祭神 罔象女神(水神) 例祭 十月十六日 主なる年中行事 水神祭 六月四日 献燈祭 八月十六日・十七日・十八日 由緒及歴世の崇敬 当社は今を去ること一千三百余年前、天武天皇白鳳四年「人声ノ聞エザル深山吉野丹生川上ニ我ガ宮柱ヲ建テテ敬祀セバ、天下ノタメニ甘雨ヲ降ラシ霖雨ヲ止メン」との御神教によって斎祀せられた。そしてこの年から五穀の豊穣を祈願する祈年祭が行われたことを併せ考えると、五穀の生命を司る雨水の神を祀る当神社の御鎮座は、愈々その意義が深い。従って歴代朝廷の御崇敬は驚く、国家に大事のある時は必ず祈願を籠められ、天皇、皇后の行幸啓五十余度、淳仁天皇の天平宝字七年五月の奉幣雨乞、光仁宝亀六年九月の奉幣祈晴を始めとして、応仁乱世に至る迄、歴世神祇官御差遺の上、奉幣祈願されたことは実に九十六回に及び、奉幣に際しては特に祈雨の黒毛馬を止雨には白馬を奉られるのが常例で、誠に鄭重を極めた。 後醍醐天皇御製 この里は丹生の川上ほど近し 祈らば晴れよ五月雨の空 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
丹生川上神社 丹生川上神社(中社)(旧官幣大社) 祭神 罔象女神(水神) 例祭 10月16日(小川祭り) 主なる年中行事 水神祭 6月4日 献灯祭 8月16−18日 神徳 罔象女神は、伊邪奈伎、伊邪奈美の神の御子神で、伊勢神宮の天照大神とは御姉妹であらせられる。伊邪奈伎、伊邪奈美の神は、国を造り成された神であり、あらゆる御神徳を具えられているが、この御神徳の中、特に水に関する一切の神徳を受けられたのが、岡象女大神であって、古来から皇室を始め、全国を挙げて御尊崇申し上げている。水は五穀をはじめ万物の生成化育の根源で太陽と共に我々の日常生活に一瞬も欠くことの出来ないもので、その御神徳の広大無辺なること云うを俟たない。 由緒及歴世の崇敬 当社は今を去ること1300余年前、天武天皇白鳳4年「人声ノ聞ヱザル深山吉野丹生川上二我ガ宮柱ヲ建テテ敬祀セバ、天下ノタメニ甘雨ヲ降ラシ霖雨ヲ止メン」との御神教によって斎祀せられた。そしてこの年から五穀の豊穣を祈願する祈年祭が行われたことを併せ考えると、五穀の生命を司る雨水の神を祀る当神社の御鎮座は、愈々その意義が深い。従って歴代朝廷の御崇敬は篤く、国家に大事のある時は必ず祈願を籠められ、天皇、皇后の行幸啓五十余度、淳仁天皇の天平宝字7年5月の奉幣雨乞、光仁天皇宝亀6年9月の奉幣祈晴を始めとして、応仁乱世に至る迄、歴世神祓官御差遣の上、奉幣祈願されたことは実に96回に及び、奉幣に際しては特に祈雨の黒毛馬を止雨には白毛馬を奉られるのが常例で、誠に鄭重を極めた。 後醍醐天皇御製 この里は丹生の川上ほど近し祈らば晴れよ五月雨の空 民間に於ける信仰 歴代の御崇敬はかくの如くであるから、民間に於ける信仰も今更云う迄もなく、古くより雨師の明神として全国中の名神大社と仰がれた。大神に対する信仰は、炎天打続き霖雨降りしきる際には、雨乞或は止雨の祈願となり、水の恵みを感謝するにつけてその御神徳を称え奉った。殊に毎日水恩に浴する農家、林業家、水利業者を始め、水の縁から商業関係者、一家の主婦の如き最も崇敬の念篤く、参拝者は年毎に多きを加えている。 今日は水道設備、水源地、貯水地、潅概ダム、水力発電ダム等の守護神として、又水の良否と深く関わる酒造りの守護神としても崇敬せられ全国の各地より大神の御分霊を戴いて奉斎しておられる。又神武天皇が戦勝を祈願された事に依り勝利の神、勝運の神、開運の神として篤く崇敬され、更に水は火を消す所から、火難消除の神としても信仰されている。 神階及び社格 御神階は、嵯峨天皇の弘仁9年4月従五位下を授けられ、宇多天皇の寛平9年12月には従二位迄進ませられ、御社格は延喜の制に於て国中の名神大社として四度の官幣及特に祈雨、止雨の祭に預り、式内二十二社の一であらせられた。大正11年10月官幣大社に列せられ、蟻通神社を丹生川上神社と御治定あらせられた。 本社の環境 本社は吉野郡東北部、北から三尾川、南から木津川、東からは日裏川が東の滝となって流れ落ちる三川合流の地に在り、見渡す連山は清新な深緑に覆われ、社頭を流れる御手洗川(丹生川)、千古に聳える大樹の中に仰ぐ御社殿は自から我々を大地に額かしめる。春は新緑、夏は鮎、秋は紅葉によく実に俗界を離れた風景絶佳の地である。 本殿及東西殿は文政年問の極彩色建築で絢爛、御神威の程が偲ばれ、朱の鳥居と神橋蟻通橋は深緑の中に隠顕して、社頭の紅葉が丹生川に映ずる美しさは誠に一幅の絵である。 10月16日の御例祭近い日曜日に(小川祭り)氏子八ヶ大字から太鼓台を繰出して奉舁し、近郷稀なる賑いを呈する。境内には摂社丹生神社、未社東照神社、重要文化財弘長3年の銘ある石燈籠、神武天県御聖蹟、古野離宮趾碑、森口奈良吉大人を頌へまつる歌碑及び俳人原石鼎の句碑がある。 丹生津姫命御巡幸 古祝詞「天野吉門」の伝えによれば、神代、紀伊国伊都郡奄田村石口に天降られた丹生津姫命は吉野川(紀ノ川)沿いにこの丹生川上の地に上られ「国かかし給ひ」(国内の水脈、水流、池、田地等を眺める謂)米作りと云う生産の安定を図りつゝ十市、高市、宇智郡、紀州の幾箇所かを経て、現在の和歌山県伊都郡かつらぎ町上天野丹生都比売神社に御鎮座された。丹生津姫のニフはニハ、ニヒ、ニへ、ニホと共に新穀(稲)の意と考えられ、米作り〔新嘗)の神が当地を巡幸の出発点とされたことは、水の信仰との関わりに於いて意義が深く、丹生川上の丹生も蓋しこの神名に由来するものであろう。更に神武天皇東征の砌、丹生津姫命の巡幸路を進まれ、特にこの地に於いて御親祭の顕斎、宇気比がなされたこととも強く関連し、後の吉野離宮の濫觴となる。 神武天皇聖蹟丹生川上 本社の境域は、皇祖神武天皇建国の始め、大和国御平定の折、天祖の神訓に基いて、親しく天神地祇を杞り給うた御聖蹟の地として、昭和15年2月7日、神武天皇御聖蹟地として決定され、象山に神武天皇聖蹟丹生川上顕彰碑が建てられている。 夢渕(誓の渕・灌所の渕・三交の渕) 日本書記に「吾今フ当ニ厳瓮ヲ以テ丹生ノ川ニ沈メム、如シ魚大小トナク悉ク酔ヒテ流レムコト、讐ヘバ猶、披葉ノ浮流クガ如クナラバ、吾必ズ能ク此ノ国ヲ定メテム、如シ其レ爾ラズバ、終シテ成ル所無セント宣ヒテ、乃チ厳瓮ヲ川ニ沈メ給ウ」とあり。神武天皇御自ら天神地祇を御親祭遊ばされ、天津日嗣の大御業の成否を天祖に誓い給うて、やがて吉兆現れて大小数多の魚が秋の木の葉の如く酔うて流れ、尊い神助の瑞祥をこの丹生別上に得させられた。後世宝柞の無窮を寿ぎ奉る萬歳旛の厳瓮と魚の御紋様の起源は即ちこの皇祖御親祭の故事を写し給うたものである。 神橋蟻通橋 本社と摂社丹生神社とを連絡する丹生川に架けられた橋であってこの橋上からの眺望が素晴らしくよい。西村天囚博士が「蟻通橋の上より見渡せば山高く四面に聳えて、萬樹緑濃かに、蒼翠滴たらんとするまゝに、深山躑躅の色鮮かに、一水右より来り、一水左より合し、中なる峰より一水又落ちて、涼々■々自ら瀑布を成し、三水此に会して、碧潭となり、流れて吉野川(丹生川)となる。辺りの景色得も云はずよし」と歎称している。この辺りは又、象の小川とも云われる。 東の滝〔秋津野滝・丹生滝・み芳野滝) 日裏川が夢渕に流れ落ちる所にある。東の滝と云うのは吉野離宮の東にあるから名付けられた名で「東の滝の御門に侍へど昨日も今日も召すこともなし」(萬・一八四)の歌がある。 吉野離宮跡 神代、新嘗の女神丹生津姫命の巡幸の起点であり神武天皇が親祭を行わせられた丹生川上の地は、実に肇国発祥、千古幽邃の聖地であるから、歴代皇室の崇敬が極めて篤く国家に大事ある時は祈願の為に度々行幸あらせられた。その御宿所が吉野離宮で「神代より吉野の宮に蟻通ひ」と詠まれている所以である。 天武天皇はまだ皇子の時、妃の後の持統天皇と壬申の乱を前にして此の離宮の地に逃れ給い、只管神祇の御加護を祈られた甲斐あって、遂に勝利を得て、御即位され前記の神宣を得られたので、神恩を感謝し社殿を創建せられたのが、この丹生川上神社の起源と考えられる。又、神社の後の小牟漏岳につぐく小野榛原は、雄略天皇行幸御猟の時、虻が飛んで来て、天皇の習に止ったのを、蜻蛉が忽ち飛び来て虻を喰えて飛び去ったので、天皇は非常に喜こばれて、ここを秋津野と名付けられたと云う。 ツルマンリョウ(天然記念物) アジア固有の植物で「ヤブコウジ科」に属し、常緑の多少蔓状に、茎が伏枝状にはっている低木で、七月上旬から八月上旬迄、黄白色の花が継続的に咲き「マンリョウ」の様な赤色の実が熟するのは、翌年の九月中・下旬である。雌雄異株の植物で、台湾や鹿児島県の屋久島に自生しているが、本洲では、山口県に二ヶ所と、我が奈良県の当丹生川上神社、大和上市の大名持神社、吉野郡の高鉾神社、宇陀郡の御井神社の境内地、その他一、二の群落地があるばかりで、極めて珍らしい植物である。 つくばね(衝羽根、はごの木とも云う) 自檀科の落葉灌木で、深山に自生し、根の一部は杉、桧、縦の根に寄生し、茎は高さ二米余りで、葉は対生し、長惰円形で先が尖っている。初夏に四辮の淡緑色の花を開き、単性で雌雄異株で、雌花は単化し、雄花は叢生している。果実は頭上に四分した翅子状の翅ガあつて食用となる。 由緒書 |
丹生川上神社のご由緒について 当神社の御祭神「罔象女神(みづはのめのかみ)」は、水一切を司る神様で水利の神として、又は雨の神として信仰され、五穀の豊穣に特に旱続きには降雨を、長雨の時には止雨を祈るなど、事あるごとに心からなる朝野の信仰を捧げ、水神のご加護を祈ってきました。 今を去る事1300年余り前、第40代天武天皇白鳳4年(675年)「人聲の聞こえざる深山吉野の丹生川上に我が宮柱を立てて敬祀らば天下のために甘雨を降らし霖雨(長雨の事)を止めむ」との御神教により創祀せられ、雨師の明神、水神宗社として朝廷の崇敬は殊の外篤く「延喜式」(927年)には名神大社に列せられ、又平安時代中期以降は、祈雨の神として「二十二社」の一つに数えられました。祈雨には黒馬を、止雨には白馬又は赤馬を献じ朝廷の特に崇敬する重要な神社でありました。763年より応仁の乱の頃までは朝廷よりの雨乞い、雨止めの奉幣祈願が九六度されていることが記録にみられることからも当社がいかに重要な神社であったかが伺えます。しかし、都が京都に遷り戦国時代以降はそのような祈願も中断され、丹生川上雨師神社もいつしか蟻通神社と称され、ついには丹生川上神社の所在地さえ不明となってしまいました。明治維新となり、丹生川上神社は何処かという研究調査が行われ、明治四年丹生村(下市町)、続いて明治二十九年川上村の神社が、夫々有力視され官幣大社丹生川上神社下社、上社とされました。蟻通神社こそが丹生川上神社だと大正十一年、当村出身の森口奈良吉翁の精緻な研究調査により丹生川上神社中社として官幣大社に列格され、ここに従来の二社は三社になったが、官幣大社丹生川上神社としては一社であります。そこでこの神社の社務所を当社に移して、下社、上社を統括して祭務を行ってきましたが、戦後神社制度の変遷により今日では三社別々の神社となったが、当社は「丹生川上神社」と登記されています。 本殿は江戸時代文政12年(1829年)の建築で、東吉野村の文化財に、又瑞垣内にある灯篭は鎌倉時代の弘長4年(1264年)銘で、国の重要文化財に指定されています。 社頭掲示板 |
丹生川上神社 旧官幣大社 鎮座地 奈良県吉野郡東吉野村小 御祭神 罔象女神 御例祭 十月十六日 当神社は天武天皇白鳳四年「人声ノ聞エザル深山吉野丹生川上ニ我ガ宮柱ヲ立テ以テ敬祀セバ天下ノ為ニ甘雨ヲ降ラセ霖雨ヲ止メン」との御神教により創祀せられ、雨師の明神・水神崇社として上下の尊崇殊の外篤く、天皇の行幸五十数度、祈雨止雨の奉幣祈願九十数度に及ぶ。 又当地は神代新嘗の女神丹生都比賣命が聖水を求めて巡行せられ、神武天皇建国神話の最高潮を彩る場所として古くより信仰上の聖地であり、吉野離宮の故地として喧伝されている。 今日では水道電力等水に関はる人々は勿論、木との縁から商売繁昌、酒造安全、又受験等の必勝の神として廣く信仰され、御神水を戴かれる人々も多い。 社頭掲示板 |
吉野離宮 離宮の行幸のたびに珍らしと 蛙の声を聞しめけむ 宮中顧問官 井上通泰 万葉の歌に多く詠まれ、又しばしば蟻通ひ給ひし吉野離宮は、雄略天皇が御猟せられた小牟漏岳の麓秋津野の野辺に宮柱太敷きまして建てられていた。そこには丹生川上神社の神域地でこの辺りから奥に離宮があったと推定される。この対岸には大宮人の邸宅があって川を堰き止め船を浮べ離宮に出仕のため朝な夕な競うて渡った。今も邸址の名残である御殿軒先という地名が残っている。 昭和41年10月16日 東吉野村郷土史蹟顕彰会 社頭掲示板 |
小牟漏岳 (丹生川上神社の背後の山) 古事記によると、雄略天皇4年(460)、天皇が小牟漏岳で狩りをされ、御呉床に座られていると、虻が天皇の御腕を喰った。その瞬間、蜻蛉が飛んできて、その虻をくわえて飛び去った。天皇は蜻蛉をほめて御歌を詠み、この地を蜻蛉野(あきつの)と名づけられた。 み吉野の 蓑漏が嶽に 猪鹿伏すと 誰れそ大前に奏す やすみしし 我が大君の猪鹿待つと 呉床に坐し 白拷の衣手著そなふ 手腓に 虻かきつき その虻を 蜻蛉早咋ひ かくの如 名に負はむと そらみつ倭の國を 蜻蛉島とふ 日本書記にもこのことが記されています。 小牟漏岳に続く山上に、神武天皇が上小野の榛原、下小野の榛原と名づけて皇祖天神を祀られた「鳥見霊時跡」があります。 東吉野村 社頭掲示板 |