丹生川上神社(中社)
にゅうかわかみじんじゃ


戻るボタン





【所在】

類聚三代格寛平7年(895)の太政官符に「応禁制大和國丹生川上雨師神世界地事」の四至に「東限塩匂南限大山峰西限板波瀧北限猪鼻瀧」とある。
大正4年森口奈良吉は『丹生川上神社考』を書いて、小川村蟻通神社(現丹生川上神社(中社)こそ丹生川上神社であると公表した。すなわち、四至の東限塩匂は大豆生の塩和田、西限の板波瀧が国栖との境付近の「イトサミ」が訛つた地点、南限大山峰は川上村との境にある南方の峯、北限は当村萩原下の地点で太政官符の四至と完全に合致すると考証した。
更に当社祭神木像が優秀な藤原初期彫刻であること、弘長3年(1263)丹生社銘の石燈籠を遺すこと、春日神社文書の『宇陀郡田地帳』に「雨師庄、田五町、吉野郡小河雨師明神領」とあることや類聚三代格太政官符にいう「国栖戸百姓並浪人」の住地に近接していることを挙げ、内務省考証官の実地調査を求めた。その結果、森口説が肯定され、大正11年10月12日内務省告示で丹生川上神社中社と定められ、従来の上下二社に対し、祭神増加の形式で三社を合一、中社が中心となつて社務所も中社におかれた。


【奉幣】

延喜の制で名神大社として四時祭の官幣に預かる外、臨時祭の項には祈雨神祭八十五座の一として絹五尺、五色薄■各一尺、糸一絢、綿一屯、木綿二両、麻五両、曇薦半枚、調布二端の外、当社は貴布禰神社と共に黒毛馬一疋を加え、止雨祭料は祈雨時と同じく白毛馬を加えられ、大和社神主が勅使に随つて当社に参向とある。


丹生川上神社

にうかわかみじんじゃ 上社は奈良県吉野郡川上村。中社は吉野郡東吉野村。下社ば吉野郡下市町。通称に、上社は川上神社、中社は雨師の明神、または蟻通さん、下社を丹生社という(いずれも旧官弊大社。現、別表神社)。神武天皇の東征に際し、天皇の夢の中に天神が出規し、天香山の土を取って天平瓶八〇枚、厳瓶を作り天神地祇を祀れば賊は平らぐという。天皇は丹生の川上にて誓をしたところ神意にかなっていたので、「丹生川上之五百箇直坂樹」で天神地祇を祀ったところ、賊の平定が容易に行われたという(『神武天皇即位前紀)』。
天平宝字7年(763)「奉幣于四畿内群神其丹生川上神者加黒毛馬旱也」とみえ、以後、祈雨のために黒馬を奉ることとなる。
宝亀8年(777)白馬を奉られる。弘仁10年(819)以後は貴布禰社とともに祈雨、止雨の祭を行われるようになり、延喜式臨時祭にも、貴布禰社と同じく黒毛馬を与えられる特別の規定がある。名神大社に列し、祈年・月次・新嘗等の官幣に預かる。同9年従五位下、寛平9年(897)従二位に叙せられた。また二二社の一に数えられている。これほどの名社も、応仁の乱以後、たとえば『親長卿記』明応5年(1496)には既に祈雨奉幣のための資力がないというような記事があり、丹生川上神社そのものの所在すら消息を失ってしまった。明治4年(1871)に至り、丹生大明神社(現下社)を官幣大社丹生川上神社としたが、これに対して寛平7年の太政官符にのる四至に適合しない、としてむしろ現、上社をあてるべきとする『大日本史』に従い、同7年、高寵神社を官幣大社丹生川上神社奥宮とした。
が、これにも異義の生ずるところとなり、同29年、丹生川上神社を下社、奥宮を上社とした。さらに東吉野村の蟻通神社が、その社辺をとおる高見川を古代の丹生川であるとして請願したことからこれを中社と認定するに至り、このとき中社の祭神を罔象女神、上社を罔象女神から高おかみ神へ、下社は高おかみ神から闇おかみ神へ改められた。例祭=上社10月8日。中社10月16日。下社6月1日。上社には末社の水神祭(1月2日)、山の神祭(6月7日)、愛宕祭(10月5日)、恵比須祭(11月23日)は当屋の職掌する祭である。中社の石灯籠(銘弘長3年丹生社)は重文指定。また近くのツルマソリョウ自生地は天然記念物。中社には例祭に八台の太鼓台を奉昇し、下社には祈雨止雨のための大古踊がある。

神社辞典



丹生川上神社 名神大月次新嘗

丹生は爾布、』川上は加波加美と訓べし、○祭神罔象女神、或云高おかみ、(頭注)○丹生荘丹生村に在す、雨師社と称す、○式三(臨時祭)名神祭二百八十五座、大和國丹生川上神社一座、』祈雨祭神八十五座(並大)云々、丹生川上社一座、○江家次第(祈年穀奉幣)丹生、(令神祇官進差文)廿二社注式云、(下八社)丹生、(使神祇六位官一人、幣一前)、〇日本紀神代巻上、一書曰、伊弊册尊且神退之時、則生水神罔象女云々、又一書曰、小便、化為神名曰罔象女、」同紀、神武天皇戊午年9月甲子朔戊辰、陟于丹生川上、用祭天神地祇、」旧事紀、(皇孫本祀)援取丹生川上之五百箇真坂樹、以祭諸神、
類社
当國宇陀郡丹生神社、(鍬靫)伊勢國飯高郡、若狭国遠敷郡、同國三方郡、越前國敦賀郡、但馬國美含郡丹生神社(各一座)近江國伊香郡丹生神社二座、
鎮坐社地
廿二社注式云、天武天皇白鳳4年御垂跡、当社為大和之別社、事見延喜格云々、○類聚三代格一、寛平7年6月26日、太政官符、応禁制大和國丹生川上雨師神社界地事、四至、東限塩堰A南限大山峯、西限板波瀧、北限猪鼻瀧云々、(下の文雑事に出す)
連胤云、当社を雨師神といふ事、弘仁以後はじめて見えたり、抑雨師神と称ふ事を、伴信友が考に云、晋干實が捜神記に、赤松子者神農時ノ雨師也、服泳玉散以教神農、能入火不焼、至崑崙山常入西王母石室中、随風雨上下、炎帝少女追之、亦得僊倶去、至高辛時復為雨師遊人間、今雨師本是、」又四に、風伯雨師是也、風伯者箕星也、雨師畢星也、鄭玄謂、司中ノ司命文星第四第五星也、雨師一曰屏扇、一曰號屏、一曰玄冥、」又抱朴子に、辰日雨師者龍也とあり、此川上神を雨師と称ふも、漢風の称なるべし、名神本紀の伝併せ考ぶべしと云り、然るべし、続日本後紀、承和7年6月癸丑、比來亢陽渉句、陰雨不下、不預祈祷、恐損國家、宜奉幣於貴布禰丹生川上雨師諸社、祈需澤於名山大川、庚午、公卿論奏曰、運鐘季俗、道謝潜通、内求諸己、政術多昧、去年炎旱鳴蝉之稔不昇、今夏審陽封蟻之微欲決、而上天反累、惟神降休、雨師俄於四冥、甘澤終遍於八極、三代実録、元慶2年6月3日丁卯、自去年至此、亢陽不雨、名山大川能興雲致雨、班幣祈雨、丹生川上云々、是也、仁和元年5月14日戊戌、祈止雨、告文曰、丹生河上仁坐雨師大神乃廣前爾云々、著聞集、(神祇部)に、保延5年5月朔日祈雨の奉幣ありけり、大宮の大夫師頼卿奉行せられけるに、大内記儒弁さはりありて参らざりければ、宣命をつくるべき人なかりければ、上卿志のびて宣命を作りて、少内記相永作りたりとぞ號せられける、此宣命かならず神感あるべきよし自賛せられけるに、はたして三日雨おびただしくふりたりけるとなん、裏書云、彼宣命嗣、天皇我詔旨、大神曰域爾垂迹(多末倍留)遂窟雨師傳名(多末倍留)霊祠奈利、然則名山大澤與利、興雲志致雨之天云々、史官記に、仁平3年7月20日、祈雨奉幣の時の宣命にも、就中大神者曰域爾垂跡禮、爾師爾通名須、遂窟乃霊祠與雲仁有便利、名山乃幽場降雨仁無煩之云々など見えたり、もとより彼漢神の雨師には座しまさねども、習合の説おこりてより以來、かくは申す事なりかし、
神位
日本紀略、弘仁9年4月丁丑、大和國吉野郡雨師神奉授從五位下、以祈雨也、続日本後紀、承和7年10月己酉、奉授正五位下丹生川上雨師神正五位上、同8年閏9月戊戌、奉授正五位上丹生川上雨師神從四位下、同10年9月戊戌、奉授從四位下丹生川上雨師神從四位上、文徳実録、嘉祥3年7月丙戌、進大和國丹生川上雨師神階授正四位下、三代実録、貞観元年正月27日甲申、奉授大和國征四位下丹生川上雨師從三位、元慶元年6月23日壬辰、詔授大和國從三位丹生川上雨師神正三位、
官幣
続旧本紀、天平宝字7年5月庚午、奉幣帛干四畿内群神、其丹生河上神者加黒毛馬、旱也、天平神護2年5月辛未、奉幣帛於大和國丹生川上神、及五畿内群神、以祈樹雨、宝亀2年6月乙丑、奉黒毛馬於丹生川上神、旱也、同3年2月乙亥、奉黒毛馬於丹生川上神、旱也、同5年4月庚寅、奉黒毛馬於丹生川上神、旱也、同年6月壬申、奉黒毛馬於丹生川上神、旱也、同年6月丁亥、奉黒毛馬於丹生川上神、旱也、其畿内諸國界、有神社能興雲雨者亦遺使奉幣、同年9月辛亥、遣使奉白馬及幣於丹生川上、畿内群神、霖雨也、同7年6月甲戌、奉黒馬於丹生川上神、旱也、伺8年8月丙戌、奉白馬於丹生川上神、霖雨也、続後紀以後所見頗多し、今比保古に譲りて略す、
○式三(臨時祭)祈雨祭幣物條に、丹生川上社加黒毛馬一匹、其霖雨不止祭料亦同、但馬用白毛、」
凡奉幣丹生川上神者、大和社神主随使向社奉之、
神戸
続日本紀、宝亀4年5月丙子、充丹生川上神戸四烟、以得嘉樹也、
雑事
類聚三代格一、寛平7年6月26日、太政官符、応禁制大和國丹生川上雨師神社界地事、右得神祇官解称、大和神社神主大和人成解状称、別社丹生川上雨師神祝禰宜等解状称、謹検名神本紀云、不聞人声之深山吉野丹生川上、立我宮柱以敬祀者、為天下降甘雨止霖雨者、依神宣造件社、自昔至今奉幣奉馬、仍四至之内放牧神馬禁制狩猟、而國栖戸百姓並浪人等寄事供御奪妨神地、屡触汚穢れ動致咎祟、爰祝禰宜等依称供御不敢相論、既犯神禁何謂如在、経言上嚴被禁制者、所陳有実仍送者、官依解状謹請官裁者、大納言正三位兼行左近衛大將皇太子伝陸奥出羽按察使源朝臣能有宣、宜下知彼國令加禁制、

神社覈録






戻るボタン


大和国INDEXへ        TOPページへ


学校一覧 学校一覧 高精度の学校住所録