自玉手祭来酒解神社
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   【延喜式神名帳】 自玉手祭来酒解神社(名神大 月次/新嘗 元名山埼杜) 山城国 乙訓郡鎮座
          (旧地)離宮八幡宮

   【現社名】自玉手祭来酒解神社
   【住所】京都府乙訓郡大山崎町大山崎天王46
       北緯34度54分6秒,東経135度40分43秒
   【祭神】大山祇神
   【例祭】5月4日
   【社格】旧郷社
   【由緒】元正天皇養老元年(717)再建
       文化年中(1804〜1817)天災のため社殿焼失
       文政3年(1820)造営
       明治6年(1873)8月1日村社
       明治10年(1877)6月延喜式内自玉手祭來酒解神社に決定

   【関係氏族】橘氏
   【鎮座地】もとは離宮八幡宮の地に祀られていた
        その後所在不明であった。この地は天神八王子社の地

   【祭祀対象】橘氏の先祖神
   【祭祀】中古 天神八王子宮、天王社と称す
   【社殿】本殿切妻造。檜皮葺但し銅板葺にて覆
       拝殿・釣殿・神輿庫・社務所

   【境内社】

山頂より道程約百メートル下つたところに位置する。一時期式社自玉手祭來酒解神社は失われていた、明治10年に式内社自玉手祭來酒解神社と決定された。
それ以前は天神八王子社と称していた。祭神もそのときに定めた。
酒解神の由来は良く分からないが、橘氏の先祖神と言われている。
神輿庫<重文>は鎌倉時代の校倉造り建築であるが、三角材を組んだ正倉院式ではない。幅も厚みも見事な桧板をびっしり置き重ねた板倉式倉庫としては日本最古のもので、現存するたった一つの非常に珍しい建築物である


酒解神社(自玉手祭来酒解神社)

祭神 酒解神・素盞鳴命 他9柱
祭礼 5月5日
文化財 (重文)板倉造神輿庫
その創建は奈良時代にまで遡るといわれ、平安時代の延喜式神名帳にも月次、新嘗の官祭を受ける名神大社であることか記されている。神名帳によると旧名を山崎社と称し、元正天皇の養老元年(717)建立の棟札があったという。
中世には山下の離宮八幡宮の勢力が強大となり、同社は山崎山(天王山)上に遷座し、山上の神はやかて天王社と呼ばれるようになり、山も天王山と呼ばれるようになっていった。さて、今日同社には非常に珍しい重文の神輿庫が残されている。一般によく用いられる△形の木を績み上げた校倉形式ではなく、厚さ約14cmの厚板を積み上げた板倉形式で建立されている。この板倉形式の遺構は非常に少なく、重文に指定されているものでは、奈良市内の春日大社にあるものが唯一であるが、それは江戸時代のもので新らしく、現存する板倉としては当庫が最も古く非常に貴重な建造物である。
昭和61年3月 大山崎町教育委員会

社頭掲示板



郷社 自玉手祭來酒解神社

本社は養老元年再建と古記にあり、神祇志料に「元ノ名を山崎ノ社と云ふ(延喜式)今山崎山の嶺離宮八幡の左殿にあり(神祇拾遺、雍州府志、山城志、和爾雅、三才図会、式社考証)蓋梅宮に坐酒解神の御子神を祭る、故之を酒解子神と云ふ(続日本後記三代実録)覈録に拠れば祭神大山祇神(社記)とし、延喜式神名帳に「元名山崎社とあるは後人の加筆なるべし、此例帳中にあり」と云へり、仁明天皇承和6年4月從五位下を授け奉り、10年4月名神に預らしめ、15年3月勅して御名代田二町を充奉る(続日本紀)醍醐天皇延喜の制名神大社に列り、月次新嘗祈年案上の幣に預る(延喜式)社名の自玉手祭来とある事につき、覈録に説をなして曰く「伊賀名所記云、玉手村は井壌山麓なり、又酒解里直指抄に、伊賀國酒解明神は大山祇神也云々とあるによりて考ふるに、玉手も酒解も元地名にて、伊賀國より出でつらんか、云々と見え、又山城志に、在山崎山嶺一名山崎社、今称天王中祠八前小祠七十余前皆在山下と云へり、八王子と称するは山祇神の八ツの御名あるから、其八ッの御名をもて、八王子とは云へるならん」とあり、文化年中天災にて社殿焼失し、其後文化3年の造営に係るもの、即ち今の社殿なり、中古天神八王子宮と称し来りしが、明治6年8月村社と定め、同10年6月式内自玉手祭来酒解神社と決定し、尋いで郷社に昇格す。社殿は、本殿、拝殿、釣殿、神輿庫、神供所、神祭献樂所等ありて、境内は13890坪(官有地第一種)を有す。

明治神社誌料



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