自玉手祭来酒解神社
たまでよりまつりきたるさかとけじんじゃ


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【社名】

享保本は社名を「たまでよりまつりきたるさかとけじんじゃ」とし、金剛寺本、九條家本、吉田家本は「たまてよりまつりきたるうねやまさきのかみ」としている。
当社は社名においても祭神に劣らず変遷の多い神社である。山崎ノ神社『山城名勝志』『山城名跡巡行志』山崎神社『扶桑京華志』天神八王子社『山州名跡志』天王八王子社『山城名勝志』酒解神社『大日本地名辞書』『京都名勝誌』牛頭天王『雍州府志』等々と呼ばれていた。


【祭神】

大山祇神を主祭神とし、素盞嗚尊を相殿に祀る。
元々の祭神は山崎神・酒解神で、出自は不明であるが橘氏の先祖神であると言われている。素盞嗚尊は、旧天神八王子社の祭神・牛頭天王を、神仏分離にともない改めたものである。
自玉手祭来酒解神社の祭神は諸説がある。


【鎮座地】

もとは離宮八幡宮の地に鎮座していた。宇佐八幡宮が九州から来て、男山・石清水神社創建までの間、一旦、当地にあった酒解神社に仮遷座していたとも考えられ、八幡神の男山への分祀後、八幡信仰の隆盛化に伴ってその勢力が強くなり、元々の酒解神社が山上へ遷座せざるを得なくなったとも解される。
中古天神八王子宮(天王社との史料もある)と称していたが、明治6年村社に定められ、同10年延喜式内・自玉手祭来酒解神社に決定の旨、府庁より公達され、当社を延喜式内の古社と決定した。


自玉手祭来酒解神社

自玉手祭来酒解神社 
たまてよりまつりきたるさかとけじんじや
京都府乙訓郡大山崎町大山崎。大山祇神(また酒解神とも)ほか10神を祀る。承和10年(843)正五位下、延喜式名神大社。
玉手には諸説があり、のち乙訓郡に遷した。酒解神は梅宮神社の祭神で両社の関係は深いが、この社は後世に所在を失した。明治10年(1877)に天王山上の天王社をもって本社となしたが、離宮八幡宮の一神がそれであるとの説もある。山上の神輿庫(板倉式・鎌倉期)は重文指定。

神社辞典



自玉手祭來酒解神社 名神大月次新嘗元名山崎社

自玉手祭來酒解は、多麻弖與利万都利岐多留佐伽止介と訓べし、○祭神大山祇神○仙崎離宮八幡宮、左殿に在す、(同上)○元各山崎社の五字は、後人加筆なるべし、此例帳中にあり、○式三、(臨時祭)名神祭二百八十五座、山城國酒解神社一座、○神祇拾遺云、山崎ノ神卜云ハ是也、大山祇ノ御神ニテ、今ノ離宮ノ左ノ殿ニ鎮奉ル也、
連胤按るに、伊賀名所記云、玉手村は井関山麓なり、(伊水温故云、井関山の麓に玉手村と云里あるよし、陽月齋■か残すといへども、今の世に里安定ならず、また酒解里直指抄に、伊賀國酒解明神は、大山祇神也、云々、冷泉院御宇授正二位よし、至宝抄に侍る、(温故に今の坂下村旧名酒解村)と云り、或人是に依て考るに、玉手も酒解も元地名にて、伊賀國より出つらんか、大和國にも考合さるゝ事ありて、(諸陵式云、玉手丘陵、孝安天皇、在大和國葛上郡)既に引置つる事も有しかど、伊賀國の方正しく覚ゆれば省きつ、さるは同國国分寺も酒解里にあるよし同書に見えたれば、古へ名高かりし処なるべしと云り、実にさる事ならん、大和國なるは玉手丘陵より外に酒解の縁も聞えねば、爰の玉手はかならず伊賀國の方にぞあるべき、また、或人伊賀國なるも大山祇神と見え、山崎社をも諸書に大山祇神とあれば、かたかた思ひ合さるゝなり、されば玉手も酒解も地名にて、酒にはあつからぬ事なるべしと云り、(名所記に、此酒解里の前に木代山、此処に酒君の陵あり、尋みるべしとあるは、此酒解と云名につきて、彼ノ秦酒公の故事を府会したるものならんか、)猶考ふべし、○山城志に、在山崎山嶺、一名山崎社、今称天王、(名勝志詳ならす)と云り、決定がたし、(山崎の社中にも、説には如此いへる由なれど、今從はず)また或人大山祇神を祭れるには、処からよしありておぼゆれば、必天王社なるべし、志か天王社ならんといふに付て、尚よく思ふに、天王八王子社、東称東天王八王子、西號天神八王子と、名勝志に見えたる此八王子は、彼ノ玉兎集に見ゆる、八王子の事にはあらで、山崎神の八ッの御名あるから、其八ツの御名をもて、八王子とはいへるならんと云り、天王山天王といふ社は採用るねど、八王子の事は然るべし、〇連胤再び按るに、天王山なる天王を、酒解神社也と主張せる説の起こりは、大山祇神なれば、山上にある方志たしく聞え、かつ八幡宮鎮座の年月も明かなるに、同宮の左殿に座すといへば、時代の前後いかがと思へるよりの事なるべし、こは山崎といふ地に、古くより玉手なる酒解神を遷して、或いは山崎社とも通称せしが、八幡宮鎮座の頃社を破り却て、八幡宮の社地となし、其故あるを以て左殿に於て祭れるにもやあらん、天王山なる説は、後世にありて、古書に見えねばいかにぞやいぶかし、
神位 名神
続日本後紀、承和6年4月甲子、奉授山城国無位自玉手祭来酒解神從五位下、同10年4月己未朔、從五位下自玉手祭來酒解神一前、奉授正五位下、預名神、同月丁丑、山崎神預之名神 連胤按るに、承和10年の叙位は、梅宮と当社のみなれば、此時酒解神を別に崇められし子細こそあらめ、一前とあるは、梅宮野方に云々、三所とあるに対へたる文章と聞えたり、また19日を経て、更に山崎神預名神とあれば、別神と聞ゆれど、こは恐らくは重出せるにて、己未朔の方傍書の混入なるべし、今伝る所の続後紀は、錯簡重複等ありて、疑はしき事数多あり、強いてうがつべきにあらず、

神社覈録






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