離宮八幡宮
りきゅうはちまんぐう 所在地 社名















   【延喜式神名帳】 自玉手祭来酒解神社(名神大 月次/新嘗 元名山埼杜) 山城国 乙訓郡鎮座
          (現在社)自玉手祭来酒解神社

   【現社名】離宮八幡宮
   【住所】京都府乙訓郡大山崎町大山崎西谷21-1
       北緯34度53分31秒,東経135度40分46秒
   【祭神】応神天皇 (配祀)市杵島姫命 湍津姫命 田心姫命 大山祇神
   【例祭】5月4日 酒解神社例祭 9月15日 秋期例祭
   【社格】
   【由緒】貞観元年(859)神託により宇佐神宮から分霊この地に至る
       文明年間(1469−87)社殿建立
       明正12年(1635)永井直清の造営
       霊元10年(1670)風水害で崩壊
       元禄8年(1695)造営
       元治元年(1864)兵火焼失
       貞観8年8月14日正六位上から從五位下
       貞観18年閏4月7日從五位上に進階

   【関係氏族】
   【鎮座地】この地が自玉手祭来酒解神社当初鎮座の地
        その後山上の現在の地に

   【祭祀対象】
   【祭祀】
   【公式HP】 離宮八幡宮
   【社殿】本殿
       拝殿・社務所

   【境内社】

自玉手祭来酒解神社はもとは離宮八幡宮の地に鎮座していた。宇佐八幡宮が九州から来て、男山・石清水神社創建までの間、一旦、当地にあった酒解神社に仮遷座していたとも考えられ、八幡神の男山への分祀後、八幡信仰の隆盛化に伴ってその勢力が強くなり、元々の酒解神社が山上へ遷座せざるを得なくなったとも解される。


由緒

第56代清和天皇貞観元年(今から1110年前)8月23日勅命を以て、豊前国宇佐八幡宮から嵯峨天皇の離宮であった河陽宮の故趾に遷され、元治元年兵火に罹る迄は西の日光と称えられた宏壮優美にして壮厳華麗なるお社であった。
清和天皇の貞観年中、山城国大山崎荘の長者等始めて、油をしぼる「しめ木の具」を工みて荏胡麻を絞りたるを始めとする。都名所に山崎離宮とあるは、当神社の事にて、彼の職人歌合に、「宵ことに都へ出づる油売、ふけてのみ見る山崎の月」と歌ひし如く其の当時は全国の人々が山崎の油を用ゐない人はなかつたのである。即ち「上はすめらぎの御所より、下はあまさかの鄙に及び、民くさあまねく荏胡麻もて、しぼりし山崎の油を用ゐずといふことなしと」これによりて帝より忝くも綸旨院宣を給ひつゝ、即ち山崎の長をば天が下の油座の長とし給ひて、禁中の御灯油料及び八幡宮祭典の為に、諸国の油の税租をもて、山崎の油座へ賜ひ長く諸関、津料並に公事課役等を免除せられ、鎌倉の右大将家より足利、徳川将軍家に至るまで其議をたがはせ給はず天が下の油業者は山崎八幡宮の許なくして油を売買することは出来ないのみならず、各関所を通ることすら出来なかったのである。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年




離宮八幡宮

平安時代(794〜)の始め、清和天皇が太陽が我が身に宿る夢を見、神のお告げをお聞きになりました
そのお告げとは国家鎮護のため、九州は宇佐八幡宮より八幡神を京へ御遷座せよというものでした
そこで清和天皇は僧の行教にそれを命じます
天皇の命を受け、八幡神を奉じて帰京した行教が山崎の津(当時淀川の航海のために設けられていた港)で夜の山(神降山)に霊光をみました
不思議に思いその地を少し掘ってみると岩間に清水が湧き出したのでここにご神体を鎮座し、社を創建することにしました
貞観元年(859)国家安康、国民平安を目的とする「石清水八幡宮」が建立されました
ここは嵯峨天皇の離宮である「河陽宮」の跡地であったため、後に社号が「離宮八幡宮」と改称されました
平安時代〜室町時代
貞観年間、時の神官が神示を受けて「長木」(右図)という搾油器を発明し荏胡麻(えごま)油の製油を始めました
当初は神社仏閣の燈明用油として奉納されていましたが次第に全国にこの業が広まり、離宮八幡宮は朝廷より「油祖」の名を賜りました
また、油座として離宮八幡宮は油の専売特許を持ち栄えてゆきます
諸国の油商人は離宮八幡宮の許状無しには油を扱うことはできませんでした
安土桃山〜江戸時代
平安、鎌倉、室町時代の我が国経済界で貢献し、一時は「西の日光」と呼ばれるほどの壮大な社殿を構え栄華を極めた離宮八幡宮ですが、織田信長の楽市楽座の政策で打撃を受け、さらに菜種油が大量生産されるようになるとこれに市場を奪われ徐々に衰退してゆきます
江戸時代〜現在
幕末の元治元年(1864)「禁門の変」(蛤御門の変)では尊皇攘夷派である長州藩駐屯所となり、幕府・薩摩連合軍側の砲撃にあい、被災しました
そのため、水瀬川から円明寺に及んだ広大な神領は兵火で焼け野原となってしまいました   消失前の神領絵図
明治9年(1876)東海道本線(現JR)の京都神戸間開通により社地の大半がその用地と化したため、神領の規模が大幅に縮小されました
明治12年(1879)になって崇敬者の寄進により社殿が再興せられ、昭和4年(1929)に改築されて今日に至ります
兵火を免れ現存する建築物は「惣門」「東門」(共に大山崎町指定文化財)のみとなっています

社頭掲示板



郷社 離宮八幡宮

本社は大山崎の西谷に在り、即阿陽宮の跡となす、其の創建は、清和天皇の貞観元年8月、僧行教が豊前國宇佐八幡神を此地に奉祀したるに基す、而て地を丈夫山に相し之を遷す、石清水廟是なり、倭漢三才圖曾に「清和天皇貞観元年8月23日行教和尚豊前宇佐八幡宮勤請于此而後任神託遷男山鳩峰」と見ゆ、然れども尚此地に神踏を留め離宮の鎮守と爲す、此地旧と嵯峨天皇離宮の在りし地たり、故に離宮八幡宮の称あり、都名所図会に「離宮八幡宮とは山崎往還の中にあり、鳥居の額は行成卿の筆なり、神殿には八幡宮を崇奉りて、社壇の下には石清水湧出す、若宮の社武内社は本社の傍に有り、後の山を神降山をいふ(中略)又橘樹の木陰より清水湧き出で異香薫す、行教之を天聴に達し、勅を奉て清水を神体とし、神殿を造営し給ふ、離宮の名は、当社鎮座のまへよりありて、弘仁帝の御狩の時夜泊し玉ふ山崎の離宮これなり、此宮室に勧請し玉ふ故に離宮八幡と称す」と、然るに雍州府志に「離宮之称號元対宇佐本宮而言之者也」と云へるはいかが、又山城志に「在山崎村離宮故址、因曰離宮、八幡遷座記曰、貞観元年大安寺行数和尚、自宇佐遷座于此(中略)若宮武内高良等小祠、及拝殿宝塔護摩堂等、祝氏神人二百余家、社中六家毎歳輪直、専掌神事云々、明徳3年12月將軍義満宮施捨文云、八幡宮大山崎東限圓明寺西限水無川一從往古定例云々」と見え、其社領高八百石に及びし由雍州府志及國花萬葉記等にあり、産業事蹟、「昔貞観年中石清水八幡宮鎮座の初め、大山崎の社司長木と云者搾具を以て荏胡麻の油を製し、石清水大山崎両宮の燈明料に奉る、是山崎油の濫觴なり、朝廷より之を賞し。油司の口宣を賜り、公事課役を免除あり、從ひて諸國の油売も皆大山崎の許状を受け、印券を帯びて往来したり、天正年中豊臣氏先規を変ぜられ油座各所に起る、但後年まで大山崎八幡宮に毎年正月曾合初と云ふ事絶えず、是古の油売免許状の受授式なり云々、
宵毎に都に出る油売更けてのみ見る山崎の月(職人尽歌合)(大日本地名辞書)
神州奇苑に、「山崎離宮八幡宮、左右の掾側妻戸に細男と云者あり、其形裸形の男子、冠を著け妻戸の上より外の方へ両手をさし伸べて合掌す、妻戸の後に至りて之を看れぱ体を具へず、細き板二枚合せて両足を造れるなり云々」(大日本地名辞書)蓋細男は俗に「ほそをとこ」と称し武内明神高良明神とそ、細男の名は榮花物語本朝文弊等にも見ゆと云ふ、而して酒解神は、神武天皇御代より鎮座ありけりと云ひ傳ふ、明治6年8月村社に列し、尋いで明治14年6月郷社に列す、社殿は本殿、拝所、社務所、土蔵、高麗門、棟門などを具へ、境内1503坪(官有地第一種)あり。

明治神社誌料



離宮八幡宮

離宮八幡宮 りぎゆうはちまんぐう
京都府乙訓郡大山崎町。旧府社。大山崎八幡宮ともいう。
嵯峨天皇の離宮河陽宮の跡に祀られたのでこの名がある。淀川を挾んで南の男山(石清水八幡宮鎮座の山)と相対している。天王山を背にした社地は大阪より京都に入る要路である。貞観元年(859)、行教が宇佐神宮を勧請する際ここにとどまり、後男山に移したことが、「朝野群載」の「石清水八幡宮護国寺縁起」に見えている。中世以来この地で灯油を製し、石清水・大山崎の両宮に献じた由縁から、朝廷は当社に油司の免許を与え、諸国の油売の総元締となった社である。豊臣秀吉はこの制を改め、油座は諸国に興ったが、毎年正月には諸国より関係者が集まって、油売免許式を行い、古来の習慣を永く伝えた。祭神は応神天皇・神功皇后・宗像三女神で、酒解神を合わせ祀る。この神はこの地の地主神で、『延喜式神名帳』に自玉手祭来酒解神社とある名神大社であった。

神社辞典



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