参拝のしおり 当社は延喜式神明帳に記載された、いわゆる式内社であり、神明式においては山城国乙訓郡向神社と称され、後に同式の乙訓坐火雷神社(オトクニニマスホノイカヅチ)を併祭して今日に至っている。この両社は、同じ向日山に鎮座されたので、向神社は上ノ社、火雷神社は下ノ社と呼ばれていた。 向神社の創立は、大歳神の御子、御歳神がこの峰に登られた時、これを向日山と称され、この地に永く鎮座して、御田作りを奨励されたのに始まる。向日山に鎮座されたことにより御歳神を向日神と申し上げることとなったのである。 火雷神社は、神武天皇が大和国橿原より山城国に遷り住まれた時、神々の土地の故事により、向日山麓に社を建てて火雷大神を祭られたのが創立である。後、養老二年(718年)社殿を改築し、新殿遷座の際、火雷大神の御妃神、玉依姫命を、また創立の因縁により神武天皇を併祭された。 その後、建治元年(1275年)社殿荒廃により、上ノ社に併祭、以後下ノ社の再興がならず上ノ社に上記四柱を御祭し、向日神社として今日に至っている。 上ノ社は五穀豊饒の神として、下ノ社は祈雨、鎮火の神として朝廷の崇敬の特に篤い神社であったことは、古書に数多く見られるところである。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
乙訓坐火雷神社 名神大月次新嘗 乙訓は郡名に同じ、」火雷は伊加都知と訓べし、○祭神建角身命(頭注)○在所廃亡の後、向日神社相殿に在す、(社家説)○式三、(臨時祭)名神祭二百八十五座、山城国乙訓神社一座、」祈雨祭神八十五座、(並大)云々、乙訓社一座、○山城風土記云、(釈日本紀所引用)所謂丹塗矢者、乙訓社坐火雷命、在賀茂建角身也、云々(頭注同上)廣陸寺由来記云、(此記は明応8年に記したるよし、同寺縁起も全く同じおもむき也、)山城國乙訓郡有一宇社、號乙訓社、今向日明神是也、とみえたるは、古今の盛衰を志らずして書なせるもの也、 連胤按るに、由來記は世に流布すといへども、心をとめて見る人少し、さては所以ある此神社の廃亡せるを、かつは歎きかつは羨みて、近き頃に至り、好事の徒が同郡井内村に坐す角宮を、火雷神社と申しなしゝを、山城名跡志(元禄15年の著述也)を書し時、初めて其由を記し、(此後正徳元年に著したる名勝志には志からず)山城志(享保19年の著作也)に火雷神社在井内村称角宮、見廣隆寺記(此記に見えたる事なし)ど妄に書しを、宣長が主張し、第國の地の証として、古事記傳に挙たるより、皆然る事かと思ひまどひ來りたり、從ふべからず、 類社 営中大膳職火雷神社、大和國忍海郡葛木坐火電神社二座、(並名神大月次相嘗新嘗)同國宇智郡、和泉國大鳥郡、上野國那波郡火電神社、(各一座)大和国広瀬郡穂雷命紳社、 連胤按るに、火雷命と称し奉るに四神あり、一ヅには日本紀(神代上)一書曰、在胸日火雷、二ツには大膳職火雷神、(是はただ炊■の火を指ていふ)三ッには乙訓坐火雷神、(是は建角身命をいふ)四ッには御霊八所の一座火雷神(是は管贈大相國の霊、所謂北野天神をいふ、)等也、神名の同じきを以て、同神とは申しがたき事、櫛玉姫命に同じ、爰に頻社として挙しは、ただ同名の社を集め置のみ、同神の社といふにはあらず、以下此類多し、見わくべし、 神位 続日本紀、延暦3年11月丁巳、遣兵都大輔從五位上大中臣朝臣諸魚、叙乙訓神從五位下、以遷都也、(こは長岡宮に遷都の時也)日本紀略、弘仁13年8月庚申、奉綬乙訓神從五位下、(下は上の誤也)文徳実録、嘉祥3年7月丙戌、進山城國火雷神階授從五位上、(こは正五位下誤なるべし、古本を得て正すべし、)三代実録、貞観元年正月27日甲申、奉授山城國正五位下乙訓火雷神從四位下、 官幣 神宝 続日本紀、大宝2年7月癸酉、詔在山背國乙訓郡火雷神、毎旱祈雨、頻有徽験、宜入大幣及月次幣例、」宝亀5年6月壬申、奉幣於山背國乙訓社、以豺狼之怪也、」三代実録、貞観元年7月14日丁卯、遣使諸社、奉神宝幣帛、右兵衛佐從五位下源朝臣至、為乙訓社使、(此外祈雨止雨の奉幣年月今略す) 修理 続日本紀、延暦3年11月乙丑、遣使修理乙訓社、(こは長岡宮に遷都の時也) 社職 扶桑略祀、天暦7年2月12日、神祇官失火、登高倉消火者、山城国乙訓社祝部真茂、可令給禄、(中右記大治2年2月條にも見えたり) 怪異 続日本紀、延暦5年正月乙丑、山背国言、去年12月於管内乙訓社、狼及鹿多、野狐一百許毎夜鳴、七日而止、 雑事 日本紀略、延暦13年12月庚戌、遷置山城國乙訓社佛像於大原寺、初西山採薪人休息此社、便刻木成佛像、称有神験、衆庶會集驚耳目故遷、 神社覈録 |