向日神社
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   【延喜式神名帳】 向神社 山城国 乙訓郡鎮座
   【延喜式神名帳】 (合祀)乙国坐火雷神社(名神大 月次/新嘗) 山城国 乙訓郡鎮座

   【住所】京都府向日市向日町北山65
   【現社名】向日神社
   【祭神】向日神 (配祀)火雷神 玉依姫命 神武天皇3
       祭神・向日神は御歳神(御年神)のことという。

       北緯34度56分40秒,東経135度41分50秒
   【例祭】5月1日 例祭
   【社格】府社
   【合祀式内社】乙国坐火雷神社を相殿に祀る
   【社家】代々六入部氏が勤めている
   【由緒】養老2年(718)創立
       建治元年(1275年)社殿荒廃により、上ノ社に下ノ社併祭
       元慶3年(879)2月向日二所社御鎮座記を神祇官に註進
   【由緒】(乙国坐火雷神社)
       大宝2年(702)7月8日奉幣
       天平7年(735)4月10日には神封五戸が与えられる
       宝亀5年(774)6月5日 奉幣
       延暦3年(784)11月20日に長岡京遷都にともなひ從五位下
       弘仁13年(813)8月3日に従五位下 『日本紀略』
       承和7年(840)4月29日に甘雨所願と風防止のため奉幣『続日本後紀』
       嘉祥3年(850)7月11日に正五位下『文徳實録』
       貞観元年(859)正月27日に從四位下 『三代實録』

   【関係氏族】
   【鎮座地】御歳神がこの峰に登られた時、これを向日山と称され、この地に永く鎮座
        この地が創建の地であり移転の記録はない

   【祭祀対象】
   【祭祀】創建時より連綿として祭祀は継続している
   【公式HP】 向日神社
   【社殿】本殿流造 桧皮葺
       応永25年(1418)事始、同28年竣エ。重要文化財
       幣殿・拝殿・前拝殿・社務所・神樂所・参集殿・客殿

   【境内社】天満宮・稻荷神社・五社神社・春日神社・御盛神社

かっては、同じ向日山に鎮座する「向神社」(上ノ社)「火雷神社」(下ノ社)という別の神社だった。
上ノ社は五穀豊穣の神として、下ノ社は祈雨、鎮火の神として、朝廷の特に篤い神社であったことは、古書に数多く見られる。
その後、建治元年(1275年)社殿荒廃により、上ノ社に併祭、以降下ノ社の再興がならず、上ノ社に四柱を祀り、向日神社として今日に至っている。
「明神(みょうじん)さん」の名で親しまれている。養老2年(718)の創建と伝えられている。
応永25年(1418)に建造された本殿は、室町時代の三間社流造で国の重要文化財に指定されてる。
本殿の背後には京都府でも最古級の古墳群があり、古くから神聖な場所だったと思われる。


参拝のしおり

当社は延喜式神明帳に記載された、いわゆる式内社であり、神明式においては山城国乙訓郡向神社と称され、後に同式の乙訓坐火雷神社(オトクニニマスホノイカヅチ)を併祭して今日に至っている。この両社は、同じ向日山に鎮座されたので、向神社は上ノ社、火雷神社は下ノ社と呼ばれていた。
向神社の創立は、大歳神の御子、御歳神がこの峰に登られた時、これを向日山と称され、この地に永く鎮座して、御田作りを奨励されたのに始まる。向日山に鎮座されたことにより御歳神を向日神と申し上げることとなったのである。
火雷神社は、神武天皇が大和国橿原より山城国に遷り住まれた時、神々の土地の故事により、向日山麓に社を建てて火雷大神を祭られたのが創立である。後、養老二年(718年)社殿を改築し、新殿遷座の際、火雷大神の御妃神、玉依姫命を、また創立の因縁により神武天皇を併祭された。
その後、建治元年(1275年)社殿荒廃により、上ノ社に併祭、以後下ノ社の再興がならず上ノ社に上記四柱を御祭し、向日神社として今日に至っている。
上ノ社は五穀豊饒の神として、下ノ社は祈雨、鎮火の神として朝廷の崇敬の特に篤い神社であったことは、古書に数多く見られるところである。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年




特殊神事

「座」の由来、下剋上時代に諸豪族が室町幕府を窺うため、京都近郷に潜入するようになり、農民達は彼等に田地を強奪されることを恐れ、田地を神社に施入してその難を逃れた。
その後世情が鎮まるにつれて、農民達は神社に施入した田地を還してもらい、神社に感謝するためそれぞれに組織を造った、これが「座」の始まりである。各座の人々は、お互いに土地を出し合ってこれを座の財産とし、その収入により座を維持して来た。また各座の最年長者を総一老と呼ぴ、四月一日には村の行政を司らせていた故事もあり、一種の自治組織として見ることができる。
このように当社の座は、同業者がその商売繁登を祈るため形成した他社の座とは起源を異にし、歴史的にも注目されるものである。

「年頭祭(ねんど)」「索餅祭(さっぺ)」
座の行なう祭には、年頭祭と索餅祭がある。年頭祭は、各座の長老五人が本殿に招かれることから、また索餅祭は、神前に御供えする小判形の吉餅およぴお餅を薄い円形にした花平の造り方から、このように名づけられるようになった。この二つの祭は、現在に至るまで四百有余年続いており、ことに索餅祭においては、御膳などの祭器が当時のまま保存され、今日もなお使用されている。

由緒書



向日神社

向日神社は延喜式神名帳に記載された式内社であり、神名帳においては、山城国乙訓郡向神社(むこうじんじゃ)と称され、後に火雷神社(ほのいかづちじんじゃ)を併祭して、今日に至っています。
この両社は、同じ向日山に鎮座されたので、向神社は上ノ社、火雷神社は下ノ社と呼ばれていました。
向神社の創立は、大歳神(おおとしのかみ)の御子、御歳神(みとしのかみ)がこの峰に登られた時これを向日山と称され、この地に永く鎮座して、御田作りを奨励されたのに始まります。向日山に鎮座されたことにより、御歳神を向日神ともうしあげることとなりました。
火雷神社は、神武天皇が大和国橿原より山城国に遷り住まれた時、神々の土地の故事により、向日山麓に社を建てて火雷大神(ほのいかづちのおおかみ)を祭られたのが創立です。
後、養老2年(718年)社殿を改築し、新殿遷座の際、火雷大神の御妃神、玉依姫命(たまよりひめのみこと)を、また創立のえにしにより神武天皇を併祭されました。
その後、建治元年(1275年)下ノ社が荒廃したことにより上ノ社に併祭し、以降4柱を併祭、向日神社として今日に至っています。
上ノ社は五穀豊穣の神として、下ノ社は祈雨、鎮火の神として朝廷の崇敬の特に篤い神社であったことは、古書に数多く見られます。

公式HP




建物・宝物

本殿建物
現在の本殿は応永15年(1418年)に建造されたもので、室町時代の流造様式の代表的建築物として、重要文化財に指定されている。また明治神宮本殿造営の際には、当神殿をモデルとされている。

宝物
日本書紀   神代巻の下巻(重要文化財)
       延喜四年藤原清貫筆と奥書に印されている。
飾太刀    天狗久光作の銘あリ
額      小野通風の筆による「正一位向日大明神」の額
棟札     応永二五年本殿棟札一枚
       慶長二年(一五九七年)棟札一枚
古印     「向日神社政印」の銅印
朱印状    豊臣秀吉および徳川歴代将軍の御朱印状

由緒書



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