当社は対馬特有の信仰である天道信仰の社であった。天道信仰は母子神信仰、太陽信仰、山岳信仰などが習合したものである。 本来禁足の聖山である本社東北にある天道山(龍良山558m)の神を拝んだもので、社殿は無いのであるが、明治の神佛分離の際、旧豆酘寺の観音堂を多久頭魂神社の拝殿とした(遙拝所ともいう)。 国指定の重要文化財の梵鐘や金鼓、県指定有形文化財の大蔵経(だいぞうきょう)などがある。 |
由緒 神武天皇詔して、天神地祇を祀らしめ給うところのお社であり、神離磐境のお社であります。古木巨樹鬱蒼としていて、昼もなお暗く、此の辺りの神域は古来天道信仰の聖地として磐境の限りを八丁角と称し、今に至ってもこの神地に立ち入るを忌みて、敢えて犯す者なく、又神功皇后三韓渡航の途次行宮を定め給いて、諸神を祀り給うところのお社であります。 この遥拝所は天道信仰、観音信仰と神仏習合時代の堂宇をそのまま拝殿とされています。承和4年4月2日従5位を奉授せられ、その後叙位あり、正4位下を授けられています。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
多久頭魂神社 御祭神 天照大御神 天之忍穂耳命 日子火能邇々藝命 日子穂々出見命 鵜茅草葺不合命 由緒 神武天皇の御代天神地祇を祭らせ給ふところの社なり。即ち勧請は神武天皇元年なり。 神籬磐境の社にして是の遥拝所は神佛習合、天道信仰時代の堂宇をそのまま拝殿となしてゐる。 又神功皇后三韓に向ひ玉ふ時に諸神を祭り 拝し給ふ処の社にして延喜式神名帳に載るところの社なり。 貞観12年3月5日従五位下を、其の後叙位ありて正四位下を授けられる。 例祭 10月18日 神離磐境のお社であります。古木巨樹鬱蒼としていて、昼もなお暗く、此の辺り の神域は古来天道信仰の聖地として磐境の限りを八丁角と称し、今に至ってもこ の神地に立ち入るを忌みています。 社頭掲示板 |
多久頭魂神社 多久頭魂神社梵鐘 国指定重要文化財 彫刻昭和50年6月12日指定 この鐘は旧豆殴御寺の梵鐘で、初鋳は寛弘5年(1008)阿比留宿弥良家が奉懸。仁平3年(1153)に増鋳、さらに康永3年(1344)再造鋳した刻銘がある。 多久頭魂神社金鼓 国指定重要文化財彫刻昭和50年6月12日指定 豆殴の大鉦と呼ばれた大型の金鼓で、高麗中期の作、正平12年(1357)に豆殴御寺に奉懸された。面径80cmの大作でこれほどの美形は韓国でも珍しい。 多久頭魂神社大蔵経 県指定有形文化財 昭和61年8月29日指定 高麗版再彫本の大蔵経(一切経)約五千巻(950余冊)を所蔵している。大般若経六百巻を欠き、施入日時は不明だが、康永鐘、金鼓と同様南北朝の頃と推定される。 豆殴寺門樫ぼの遺跡 県指定記念物史跡 平成4年10月1日指定 樫の実を貯蔵する穴蔵郡。穴の古語が、「ほな」で、「堅ぼな」が訛つて「樫ぼの」になった。果実の貯蔵穴は原始時代からあるが、近世まであつた遺跡は珍しい。 厳原町教育委員会 社頭掲示板 |
多久頭魂神社 多久頭魂神社(式内社多久頭神社) 高御魂神社(延喜式名神大社) 「日本書紀」に、対馬下県直が祭る高皇産霊神に、神田を献上した記事がある。この神は日本神話の名神で、当社の起源は悠久の古代に発する。 また多久頭神社には、仏教と習合しで天童菩薩信仰の中心とした神事と、大陸伝釆の仏像や陶磁等の貴重な宝物が数多くある。 多久頭魂神社梵鐘 国指定重要文化財 昭和50年6月12日指定 神仏習合時代の鋳造で、史科的に貴重である。(鐘楼に詳細説明) 多久頭魂神社金鼓 国指定重要文化財昭和50年6月12日指定 韓国にも例のない高麗時代の大鉦で知られ、総径81cm、肩幅16cm、側面には「弾源乙巳五月日 晋陽府鋳成□福寺飯子一印」の刻路があり、高麗国高宗の32年(1245)の鋳造と推定される。 多久頭魂神社大蔵経 県指定有形又化財昭和61年8月29日指定 高麗国海印寺版の版本大蔵経で、4990巻所蔵されている。 厳原町教育委員会 社頭掲示板 |
多久頭魂神社 多久頭魂神社(たくづたまじんじゃ)(旧郷社) 御祭神 天照大御御神〔あまてらすおおみかみ〕 天之忍穂耳命〔あめのおしほみのみこと〕 日子火能邇々芸命(ひこほのににぎのみこと) 日子穂々出見命〔ひこほほでみのみこと〕 鵜茅葺不合命〔うがやふきあいずのみこと) 御由緒 神武天皇の御代、天神地祇(あまつかみくにつかみ)を祀らせ給うところの社にして、即ち勧請は神武天皇元年也、この遥拝所は天道信仰、神仏習合時代の堂宇をそのまま拝殿となしている、明治の神仏分離により、観音堂は境内の一角に遷座され、お堂は氏神多久頭魂神社の遥拝所とされる。 延喜式神名帳所載の名神である。 貞観12年3月5日縦五位下を、その後叙位ありて、正四位下を授けらる。 神武(弥生期)のころ、能良山を神体山として神籬磐境(ひもろぎいわさか)に天神地祇(あまつかみくにつかみ)をまつられる所であって、龍良山の霊峰を、大陸航路の古代船が航海の安全を祈願して遥拝したこともつたえる、神功皇后は三韓へ渡航のとき、この神域に一ト月半の行宮を営まれ、航海の安全と渡航の成功を祈願なされ諸神をまつられる所であります。 六世紀のころ、天道法師が、この神域に観音開きをしたとあり、氏神様、天道様、観音様が習含して両部神道が盛んになります、対馬の天道信仰は奥深いものがありますが、この豆酘を本地として栄えています、龍良山麓の三方に三ヶ所の遥拝所があり、その一ケ所がこの境内地であり、他の二ヶ所は表八丁角、裏八丁角として大きなピラミット型の石積みもあり、天童信仰の遺跡として、今も生き生きとして残されています。 また、僧行基が刻んだ対馬六観音の御一躰である十一面観世音菩薩が御本尊とまつられ、豆酘御寺として信心がますます盛んとなっています。 この観音堂も対馬藩主宗氏が代々改修してきていますが、部分的には室町期の工法が残されています、現在の此の拝殿は、元の観音堂であり、回廊が巡らされ、正面が三門に別れていて中央に御本尊、左右に脇立てとして毘沙門天、多門天、薬師如来がまつられていたもので神社の建築様式ではありません、明治の神仏分離によって観音様は境内の一角に遷されて、今は多久頭魂神社の拝殿となっています。 由緒書 |
多久頭魂神社 高御魂神社(延喜式名神大社) 多久頭魂神社(式内社名神大社) 「日本書紀」に対馬下県直が祭る高皇産霊神に、神田を献上した記事がある。 この神は日本神話の名神で、当社の起源は悠久の古代に発する。 多久頭神社は承和4年(834)高御魂神社などと伴に従五位下を授けられ官社となった。 中世、神仏習合により「豆酘御寺」と称し、明治に現社号に復したが社殿は旧観音堂を使用している。 平成21年4月 対馬市教育委員会 社頭掲示板 |