多久頭魂神社
たくづたまじんじゃ


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【由緒】

郷社 多久頭魂神社
神武天皇の御字、津島縣直建彌巳命に勅して天神地祇を祀せられたまひし処にして、やがて其処に社を建てられしものにて、神功皇后三韓に向ひたまはんとせし時にも、此処にて諸神を祭らせたまひきと口碑にも伝ふ、神名帳考証に、「多久頭神社、拷幡千々姫命、頭與千音通、非神魂命子多久豆玉命」とあり、神社覈録には、「多久頭は暇字也、魂は多麻と訓べし、祭神明か也、豆酸郷豆酸村に在す、今悠紀宮と称す、当國上縣郡天神多久頭多麻命神社、連胤云、当社を悠紀宮と称し、上縣郡なるを主基宮と称する事、故あるべし、委しく聞まほし、古蹟集には、悠紀宮、主基宮といはす、中古より州俗天道社、または天神社と称す、是州旧古の社にて神代の社制を存し、神籬盤坂の社境あり、一ノ塔二ノ塔と號すと云へり、神位続日本後紀、承和4年2月戊戌、対馬島下縣郡無位多久都神奉授從五位下三代實録、貞観12年3月5日丁巳、授対馬島正五位上多久都神從四位下」と見え、神祇志料には、「今豆酸上村龍良山に在り、悠紀宮と云ふ」とあり地名辞書、龍良山の條に、「山中に延喜式、多久頭神社あり、土俗悠紀宮と称す、続後紀、承和4年授位の小祀とす、蓋姓氏録神魂命の子、天多久豆玉命を祭るとそ」と載せたり、又太宰管内志に「多久頭神社、延喜式に、下縣郡多久頭神社あり、多久頭は他倶豆とよむべし、御名の義いまだ考へず(上縣郡に多久頭麻神あり、似たる名なるかし、しひていはば、出雲國拷(タク)島などの如く、拷津にはあらぬか、なほよく考ふべし)、さて続後紀六巻に、承和4年2月戊戌、対馬島下縣郡無位多久都神奉授從五位下、三代實録十七巻に、貞観12年3月5日(丁巳)、詔授対馬島正五位上多久都神從四位下などあり(正五位上を授け玉へる事は史にももれたるなるべし)、玉勝間に、下縣郡多久頭魂神社は豆酸郷豆酸村にあり、神階從四位上悠紀宮とも申す、又対馬國に、下縣郡多久頭神社は、高皇産霊尊の御子神を祭る、今豆酸郷豆酸村にあり」と見ゆ、合せ考ふべし、仁明天皇承和4年2月、無位多久頭神に從五位下を授け、清和天皇貞観12年3月、從四位下を授けたまひ、醍醐天皇延喜の制小社に列せらる、明治7年6月郷社に列す。
別に神殿を設けず、御山龍良山と號すを以て神体となして之を祭る、境内350坪(官有地第一種)あり、豆酸といふ所に遥拝所あり、寛文9年宗対馬守義真の改築にかかれり。

明治神社誌料



【由緒】

多久頭魂神社 たくずだまじんじゃ 
長崎県下県郡厳原町豆酘龍多山。旧郷社。式内社、祭神は天照大御神・天忍穂耳命・日子穂々出見命・日子火能邇々芸命・鵜茅草葺不合命。
豆酘龍艮山を神の山とし、古い祭祀形態としての神籬磐境が置かれ、豆酘寺門に遥拝所がある。歴史は古く『三代実録』に貞観12年(870)3月5日「詔授対馬嶋正五位上多久都神従四位下」とあり、後の『延喜式』にも「多久頭神社」とある。社記には、橿原朝の時、津島県直建禰巳巳命に詔して天神地祇を祀らせたのをはじめとしている。古来、当社を別名「悠紀宮」とし、「主基宮」には天神多久頭塊神社(上県郡上県町佐護西里。式内社。神籬磐境の祭祀形態)をあてている。例祭10月18日。特殊神事に船浮神事(カンカン祭)、亀ト(参候祭)、赤米神事がある。文化財に康永3年(1344)銘の梵鐘、正平12年(1357)銘の金鼓、その他高麗版一切経等がある。なお、境内に高御魂神社(式内名神大)が鎮座する。

神社辞典






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