籠神社
このじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】籠神社(名神大 月次/新甞) 丹後国 与謝郡鎮座
          (奥宮)真名井神社

   【現社名】籠神社
   【住所】京都府宮津市大垣430
       北緯35度34分58秒  東経135度11分48秒
   【祭神】彦火明命 (配祀)天照大神 豐受大神 海神 天水分神
       『丹後風土記』『丹後国式社証實考』伊弉(射)奈岐大神
       『和漢三才図絵』『丹波府志』『日本地理志料』住吉同体三神
       『丹後與謝海図誌』『籠太明神縁起秘傳』『大谷寺奏状』豊受大神
       『丹後細見録』『丹後旧事記』国常立命
       『籠神社誌』『府中村誌』大綿津見命
       『古事記伝』天水分命

   【例祭】4月24日 葵例大祭
   【社格】旧国幣中社 丹後国一宮
   【由緒】垂仁天皇の時天照大神は伊勢伊須須川上へ遷宮
       雄略天皇22年豊受大神伊勢国山田原に遷
       大化改新の後与謝宮を籠宮と改称
       養老3年(719)奥宮眞名井神社の地から現地へ遷
       弘化2年(1845)造営
       明治4年6月国幣中社

   【関係氏族】海部氏
   【鎮座地】当初鎮座の地は奥宮眞名井神社の地
        養老3年(719)奥宮眞名井神社の地から現地へ遷

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「元伊勢」と称していた
   【公式HP】 籠神社
   【社殿】本殿神明造
       拝殿・神門・社務所

   【境内社】真名井神社・真名井稲荷神社

「元伊勢宮丹後之国一宮・総社籠神社」を正式の名称としている。
宮司は海部穀定氏である。養老3年(719)以降、今日にいたるまで当社の宮司として続いており、「籠神社祝部海部直氏系図」は国宝に指定されている。


由緒

元伊勢籠神社のしおり
神代と呼ばれる遠くはるかな昔から奥宮眞名井原に豊受大神をお祭りして来ましたが、その御縁故によって人皇十代崇神天皇の御代に天照皇大神が大和国笠縫邑からおうつりになって、之を與謝宮(吉佐宮)と申して一緒にお祭り致しました。その後天照皇大神は11代垂仁天皇の御代に、また豊受大神は21代雄略天皇の御代にそれぞれ伊勢におうつりになりました。それに依って当社は元伊勢と云われております。両大神が伊勢にお遷りの後、天孫彦火明命を主祭神とし、社名を籠宮(このみや)と改め、元伊勢の社として、又丹後国の一之宮として朝野の崇敬を集めて来ました。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年



籠神社

丹後之国一宮・総社
元伊勢籠事御曲緒略記
藤祭り(葵祭り)発祥2500年の伝統
お伊勢さまのふるさと 古構吉佐宮
丹後国 天橋立北浜鎮座
御祭神並びに御神徳
奥宮境外摂社真名井神社(古称 匏宮・吉佐宮・与謝宮・久志浜宮 別称豊受大神宮・比沼真名井・外宮元宮・元伊勢大元宮)
磐座主座(上宮) 豊受大神 亦名天御中主神・国常立尊、その御顕現の神を倉稲魂命(稲荷大神)と申す。天御中主神は宇宙根源の大元霊神であり、五穀農耕の祖神であり、開運厄除・衣食住守護・諸業繁栄を司どられ・水の徳顕著で生命を守られる。相殿に、岡象女命、彦火火出見尊、神代五代神を祭る。
磐座西座 天照大神 伊射奈岐大神 伊射奈美大神 この磐座は日之小宮と申し、主神は天照大神であらせられる。奈岐・奈美二神は大八州(日本)の国生みの伝で有名であらせられる。当社奥宮境内真名丼原に降臨せられ、天橋立(天地通行の梯)をお造りなされた大神で、夫婦和合、家内安全、授子安産、延命長寿、縁結びの御徳が著名であらせられる。
本宮(下宮) 籠神社(別称 籠宮大社、元伊勢大神宮、伊勢根本、丹後一宮、一の宮大神宮、内宮元宮)
神代に、彦火火出見命(彦火明命の別名とも伝えられる)が、籠船にて龍宮へ行かれたとの傅に依って籠宮と云う。養老元年以前は、同命が主神とされていたが、其後、左記の命が主神と祭らる。
旧社格 延喜式内 名神大 月次 新嘗案上之官幣大社、山陰道一之宮
主神 彦火明命亦名天火明命・天照御魂神・天照国照彦火明命・饒速日命、又極秘伝に依れば、同命は山城の賀茂別雷神と異名同神であり、その御祖の大神(下鴨)も併せ祭られているとも伝えられる。
尚、彦火火出見命は、養老年間以後境内の別宮に祭られて、現今に及んでいる。
彦火明命は天孫として、天祖から息津鏡・辺津鏡を賜わり、大和国及丹後・丹波地方に降臨されて、これらの地方を開発せられ、丹波国造の祖神であらせられる。
又別の古伝に依れば、十種神宝を將釆された天照国照彦天火明櫛玉饒速日命であると云い、又彦火火出見命の御弟火明命と云い、更に又大汝命の御子であると云い、一に丹波道主王とも云う。
子孫長福、家内安全、諸病平癒の御神徳が聞こえる。
相殿 豊受大神 天照大神 豊受大神は御饌津神とも申され、天照大神は、あまねく萬物を化育される天日の徳のように、天下蒼生を火の徳、高い徳を以ってお恵みになり、生命を活動させられ、皇室や日本氏族の大祖神と仰がれ、御饌津神は天照大神が崇祭された大神である。
海神  大元霊神の御徳を分掌せられて、航海の安全、漁業の満足等をお司どりになる。
天水分神 大元霊神の御徳を分掌せられて、水の徳を以って諸々の水利、水運、水道等をお司どりになる。奥宮相殿の岡象女命と共に神代以来最古の水神。
境内撮社 蛭子神社 之の社は恵美須神社とも云い、彦火火出見命と倭宿祢命を祭る。
天照皇大神社 祭神は天照大神の和魂、或は荒魂とも伝えられる。當社鎮座地は「大垣」であるが、神宮の御神領を書かれた神鳳抄の中に、大垣御厨(ミクリヤ)が所見する。
真名井稲荷 神社古代から明治末期迄、奥宮真名井原に祭られていたのを、平成3年9月9日、八十年ぶりに本社境内に再建。祭神は、宇迦御魂、保食神、豊受比売
境内末社 春日大明神社 春日四神を祭るが、古代には建甕槌社と呼ばれたと伝える。
猿田彦神社 當社に祭る猿田彦神は、古来大世多大明神と呼ばれる。之は大佐田大明神の意であろう。
銅像 倭宿禰命 一名珍彦・椎根津彦・神知津彦
御鎮座並びに御社格
神代の音と謂われる遠い上代から、今の奥宮の地真名井原に匏宮と申して、豊受大神が御鎮座になっていたが、人皇十代崇神天皇の御代に、天照皇大神が大和国笠縫邑から御遷座になり、豊受大神と共にお祭り申し上げた。古称は匏宮と申したが、後にこれを与佐宮又は吉佐宮・与謝宮とも申した。ヨサはアメノヨサヅラの意であり、ヨサヅラとはひさごの事である。
天照皇大神は与佐宮に四年間御鎮座の後人皇11代垂仁天皇の御代に伊勢国伊須須川上へ御遷宮になり、豊受大神は人皇21代雄略天皇の御代に至るまで当地に御鎮座あらせられ、同天皇の御代22年に伊勢国度会郡の山田原に遷らせられた。
吉佐宮の神主家は元初から海部直であり、同氏は大化改新以前は丹波國造家であったが、大化改新以後は祝部(神主家)として歴代奉仕した。
大化改新の後、天武天皇御宇白鳳11年に至り、海部直伍百道祝(26代)は、与謝宮を籠宮と改め彦火火出見尊を主神として祭っていたが、元正天皇の御代養老3年に、御本宮を奥宮真名井神社の地から、現今の御本宮の地へ遷し奉り、伍百道祝の子愛志祝が新に同氏の祖神彦火明命を主祭神とし、天照豊受両大神及び海神を相殿にお祭りし、又、天水分神も併せ祭られたのである。爾来、1200数十年、伊勢根本の宮と云い、又別称を吉佐宮とも申し、元伊勢の社として朝野の崇敬が篤い。古の真名井原は、奥宮から御本宮の地を経て、更に西方に延長していたが、中古以来これを府中と名付けられた。
御社格は醍醐天皇の御代、延喜式内名神大社であり、山陰道八ケ国中唯一の官幣大社であり、又、奈良朝以後、丹後国一之宮に列し同国の総社を兼ねた。神階は漸次昇進されて、正一位に昇られ、延長七年醍醐天皇の勅により小野道風筆正一位こ例し籠之大明神の神額を賜わられた。
明治の制には国幣中社に列したが、先代海部穀定宮司(81代當主)は、古代に山陰道八ケ国第一の官幣大社であった御由緒に鑑み、御神威を畏んで、詳細な由緒資料を添付、更に丹後五郡全域の首長並びに有志の署名をも合せて、官幣大社昇格を請願したが、之が東京大空襲直前の昭和20年3月25日の第86回帝国議会で、満場一致當社の官幣大社昇格が可決採択された秘史がある。
例祭
當社の例祭は明治以降4月24日に行われる。然し往古は四月の二の午の日に行われる古例であった。そして之の神事を葵祭又は葵神事と云い、又之の御神幸を御蔭祭とも呼ぶ。之は山城の一之宮である賀茂別雷神社並びに賀茂御祖神社で古来四月の二の午の日に御蔭祭が行われ、又同月二の酉の日に葵祭が行われたのと軌を一にし、欽明天皇の御代に始まったと伝えられる。當宮祭神を葵大神、又は青位大神とも申す古記も存する。之は御祭神の再誕に関する、所謂御生れの神事であるが、當神社に於ては更にその淵源をたどると、人皇四代懿徳天皇の御代4年甲午年に始まったと伝えられ、之の祭儀には豊受大神及び、彦火明命・彦火火出見命・丹波道主命に関する深秘がある。賀茂社と異る所は、賀茂の祭礼では祭員が葵の葉を付けるが、當社では祭員等が冠に藤の花を挿すことが古来の例になっている点である。このように當神社では藤の花が御祭神に深い由縁を持ち、その始めは藤祭と称していたのであるが、欽明天皇の御代に始まった賀茂祭が葵祭と称せられるに及んで、當神社でも葵祭と称されるに至ったと伝えられる。
これは當神社の元初の祭神豊受大神が水徳の大神であらせられ、与謝郡真名井原の天の真名井の水に因んだ本来の故事であったからである。 伊勢の祠官度会元長の神祇百首と云う和歌に、「藤花花開ハ真名井ノ水ヲ結トテ藤岡山ハアカラメナセソ」とあり、註に「件ノ真名井ノ水ハ自天上降坐ス始ハ日向ノ高千穂ノ山二居置給フ其後、丹波与佐之宮二移シ居置タマフ、豊受大神勢州山田原二御遷幸仰彼水ヲ藤岡山ノ麓二居祝奉リ朝タノ大御饌料トナス」と見える。これは藤の花と真名井の水のことを詠じた歌であるが、外に當神社の祭に藤の花を用いたことは、後拾遺和歌集に良邊法師の詠める歌に、「千歳経ん君が頭挿せる藤の花、松に懸れる心地こそすれ」とあるに依って知られている。 本宮に対して奥宮である真名井神社の例祭は、豊受大神が伊勢国に御鎮座された日の9月15日であったが、明治以後新暦を用いるようになってからは10月15日となった。
豊受大神はその御神格の中に月神としての一面も持っておられ、真名井神社の昔の例祭が、9月15日と云う満月の日に行われた事もその反映と思われる。又その御神徳が数字の奇数に関わりがあり、一年の五節句(1月7日、3月3日、5月5日、7月7日、9月9日)、殊に後の七七.九九の二節句とは最も深い結びつきの神秘がある。古来中国に於て、奇数が陽とされ、偶数は陰を表した事と照応する教学が、當神社祭神秘伝の中に存するようである。
當神社の藤祭りが始まったのは、懿徳天皇4年(皇紀154年)と伝えられるが、平成6年は皇紀2654年となり、数えて藤祭り発祥満2500年目に當り、5月22日の吉日をトして、藤祭葵祭発祥2500年祭を氏子中の奉仕により、盛大に行った。
特殊神事
当神社の御神幸の神事は御蔭神事と申し、所謂御生れの神事として當神社第一の神事である。
海部氏の極秘伝に依れば、之は奥宮の元初の御祭神豊受夫神の御生れの祭りとして発祥したが、後に豊受夫神を祭った海部氏の祖神彦火明命が、宿縁により現身の丹波道主命となって天下蒼生に御稜威を垂れ給う神事と伝えられる。前記のような両神の関係を、多次元同時存在と宮司は名づけている。
この御神幸(お渡り)には、太刀振神事と云う典雅雄壮な特殊神事が遠く貞観年中から行われている。更に神代からと伝えられている鵠鶴囃し(ササバヤシ)の古儀も行われるが、之は爺と孫(男子)、即ち祖孫共演の笹竹のはやしであり、弥生期農耕社会の一つの習俗を、現代に伝える極めて貴重な神事であると云われている。
又、現在は中絶しているが、塩土の神が彦火火出見命の為に籠船を造られた故事に依って、「塩土の舞」と称された神楽、又、彦火火出見命と浦嶋太郎に因んだ「兄の舞」と云う神楽のあった事が古記により知られる。
又、真名井神社の例祭には豊受大神に深い由縁を持つ、五穀神事と云う古儀が伝わっている。
御社殿の様式
御社殿は伊勢神宮とぽば同様式の唯一神明造であって、古来、三十年毎に御造替の制となっている。御本宮の勝男木は十本で、千木は内そぎになっていて、色々の古儀が昔のままに伝えられている。心御柱があるが、之に就き社記に、「御柱一名天御量柱是則一氣起、天地之形、陰陽之源、万物之体也」と見えている。又、高欄上の五色(青、黄、赤、白、黒)の座玉は、神宮御正殿以外には拝せられないもので、元伊勢宮として、又山陰道第一の大社として、諸社に越える古来の御神徳、御社格を象徴するものであり、日本神社建築史上特に貴重なものとされている。
尚、本殿は弘化2年(1845年)の造替で、京都府文化財指定建造物である。
宝物古文書
藤原佐理卿筆額面(円融天皇貞元元年勅額 重要文化財)
小野遺風筆額面 (醍醐天皇延長7年勅額)
羅龍王古面(文蔵主作 約一千年前)
丹後国一宮深秘(後醍醐天皇建武年中写元伊勢の由緒記)
籠名神社祝部海部直等之氏系図(貞観年中書写国宝)
海部直伝世鏡 息津鏡・邊津鏡(約二千百年前、昭和62年10月31日初公開)有栖川宮幟仁親王殿下御染筆額面(明治2年御染筆御添状付)
石造狛犬二基(鎌倉時代作重要文化財)
銅製経筒一対(文治4年在銘重要文化財)
国宝海部氏系図に就いて
之は昭和51年6月に、現存する日本最古の系図として国宝に指定された。同系図は平安時代初期貞観年中に書写された所謂祝部系図(本系図)と、江戸時代初期に書写された勘注系図(丹波国造本記)とから成る。本系図は始祖彦火明命から平安時代初期に至る迄縦一本に、世襲した直系の當主名と在位年月だけを簡潔に記した所謂宗主系図であり、稲荷山鉄剣銘とよく似た様式で、竪系図の最も古い形を伝えたものと云われる。各當主名の上に押された二十八箇所にも及ぶ朱印は、今迄未解明であったが、昭和62年夏、美術印刷に秀れた便利堂の色分解に依る解析写真撮影で印影が浮かび上り、是を中世文書の権威村田正志博士が見事に解読して、「丹後國印」の文字である事が判明した。
是に依って當系図は海部氏が私に作成したものでなく、之を作成の後に丹後國庁に提出して認知を受け、更にそれを大和朝廷に差し出した所謂本系帳の副本であり得る事が証明され、国家公認のものとしてその権威が一段と高まったのである。
一方海部氏勘注系図は、始祖以来平安初期迄の系譜が省略なく記載され、之に當主の事績を始め兄弟等の傍系に至る迄詳密な注記が付されているが、その中には他の古記録には失なわれている古代の貴重な伝承も含まれていると云われ、今学界の注目を浴びている。
元伊勢の創祀以来の祀職である海部氏は神代以来血脈直系で世襲し、大化改新以前は丹波国造であったが、その後祝部となり、現宮司に至り82代と伝えられる。
海部直伝世鏡 息津鏡邊淳鏡に就いて
昭和62年10月31日(旧暦9月9日・重陽の節句)に2000年の沈黙を破って突如発表されて世に衝撃を与えた之の二鏡は、元伊勢の祀職たる海部直の神殿の奥深くに無二の神宝として安置されて、當主から次の當主へと82代2000年に亘って厳重に伝世され來ったものである。日本最古の伝世鏡たる二鏡の内、邊津鏡は前漢時代で、今から2050年位前のものである。
又、息津鏡は後漢時代で今から1950年位前のものである。そしてこの神宝はその由緒が国宝海部氏勘注系図に記載されており、又當主の代替り毎に、口伝を以っても厳重に伝世されたものである。
現存最古の国宝海部氏系図並びに今回発表の2000年前の伝世鏡は、當社の元伊勢たる史実を実証するものであろう。
雪舟筆国宝天橘立図に就いて
画僧雪舟は水墨画に秀れた作品を数々残しているが、中でも晩年の大作「天橋立」図は余りにも有名である。
是は雪舟の最晩年期82才頃の作であろうと云われる。この作品は水墨を用いながら、真景画として歴史的信仰的景観(著名な社寺)を要所に鏤め、又庶民の家並をも暖かい筆で点綴した写実的迫力に富みながらも、一方山水画としての超俗的な流れるような自然の情趣をも見事に融合させた雪舟独自の画境を表す、稀有の名作と云ってよいであろう。是は芸術作品としての価値もさる事ながら、その當時、天橋立地方の地理と歴史を知る無上の資料である。この絵の出白は従来不明にされていたのであるが、実は雪舟は老躯この絵を画いて、その時の海部直の當主千継祝(海部直六十四代、文明16年から永正年間、籠宮に奉仕)に奉納したものであった。と云うよりも、千継祝の需めに依って、丹後国の一宮として又、元伊勢として名だたる籠宮の境内図を書いて呉れたと云う方が、正確であるかも知れない。天橋立は、天神伊射奈岐神が、地上真名井原なる奥宮(現・真名井神社)の女神の磐座に通うため樹てた梯子が倒れたものであると、いみじくも風土記に伝えられている通り、信仰的に発祥したものである。それかあらぬか、當社は古代には天橋立を含んだ二十数万坪が、その神域であったと云われる。その後歴史の変転と共に漸次その神域は狭められ、特に南北朝期には南朝に組したために敗戦の憂目をみ、この時に広大な山林等を失ったと伝えられる。それでも雪舟が天橋立図を画いた室町期で神域神領合せて未だ五十七町歩(171,000坪)残っていたのである。そして神佛習合時代であったので、境内には四十八坊(僧侶の居所・小寺院)があったと云う。雪舟はこの地に逗留した時、海部宮司宅か、或は境内四十八坊の何れかに宿泊した事は間違いないと思われる。その富時丹後国府のあったここ府中村は、三千戸の家並で段賑を極めたと伝えられる。
さて天橋立図の構図を眺めて見ると、当神社は右端に、正一位籠之大明神として雄澤に画かれていて画面の中心の位置ではないように見える。然し視点を変えて見ると、天橋立が殆んど画面の中央に位置し、その右端が上方に折れて、当社の海際の大鳥居を潜って更に社殿前に至る迄、白い道が一績きに画かれている事に思い至るであろう。
是は明らかに天橋立を、籠宮の神域として、又参道として意識した画き方に外ならないのである。
このように見る時、矢張り画面の主題的中心は、籠宮と云う事になる。更にもう一つ、是に千鈞の重みを与える点景がある。それは構図の右下に画かれている、冠島と沓島である。此の二つの小島は、与謝海と呼ばれる外海の東方海上二十余粁の所に在る。本來ならば、内海である周囲十二粁程の阿蘇海周辺をその範囲として画かれた天橋立図におさまるべくもない。その秘密を解く鍵は、冠島・沓島が籠宮の海の奥宮であった事に依ると思われる。
昭和62年10月31日に発表された、海部氏の2000年來の伝世鏡である息津鏡邊津鏡を始祖彦火明命が天祖から親授されて、実にこの冠島(別名常世嶋、沖津嶋、雄嶋、犬嶋)に天降られたと伝えるのである。又、沓嶋(別名、雌嶋、姫嶋、小嶋)には后神市杵嶋姫命が天降られている。
是は国宝海部氏勘注系図に次のように載っている。
其の後天祖乃ち二■神宝息津鏡及び辺津鏡是なり天鹿見弓と天羽々矢を副へ賜ふを火明命に授け給ひて汝宜しく葦原中国の丹波国に降り坐して此の神宝を齋き奉り速かに國土を造りかためよと詔り給ふ故爾に火明命之を受け給ひて丹波國の凡海息津嶋に降り坐す。
此の事は雪舟も海部の当主から聞き、又土俗からも知り得たところと思われる。
以上の次第に依って、信仰的民俗的に冠島・沓島は、籠宮の海の奥宮として、敢て構図内の至近の海上に近づけられ、籠之大明神と天橋立と冠島・沓島が、離すべからぎる一運の中心主題として、位置づけられたものと解されるのである。
尚、山根道澤原著の、「丹後一覧集」(文政頃)の籠神社の条に、次のように出ている。
……本社の左に社人海部越後守が宅あり、是に古図あり僧雪舟か画と云傅へり、右の画には海部か屋根は大聖院の旧跡なり・・・・
このように天橋立図は、当神社と因縁浅からぬものがあり、雪舟の奉納以後、海部宮司家に近世迄歴代大事に保存されて来たのであるが、江戸時代後期の頃、同家に困難な事情が出來し、心ならずも同家の手を離れると云う、遺憾な事態が生じた。然し現在は幸に国有となり、京都国立博物館に立派に保存されている事は何よりと思われる。
真井御前(如意尼)に就いて
當社は二千年余の永い歴史を持つ。この間には様々の榮枯盛衰有為転変に見舞われたが、それは正に日本歴史の縮図と云った観を呈する。この悠久の歴史の一駒、きらびやかな表舞台には登場しなかったものの、人と文化がいざなう数奇な歴史の裏面で、可憐に、然し雄々しくも咲いた神秘な梅花一輪が真井御前の物語りである。時は平安初期、海部直の31代雄豊の娘に厳子姫があった。彦火明命を血脈の祖神に戴く、神代以来の祝部(神官)の家柄であったが、當時奈良時代以来の鎮護国家の仏教に、空海や最澄の平安密教の説く即身成佛の思想が新風を吹きこんでいたさ中、もの心ついた厳子姫は10才にしてふと誘われる如く都に上り、頂法寺の六角堂に人り、ここで手芸礼儀作法等の教養を積む傍ら、如意輪の教えに帰依し、日々真言の呪を唱えつつ修行に励んだのであった。未だ年端はゆかないながらも、その生地の豊受大神が神代より鎮まり坐す、与佐の真名井原に湧く真名井の御霊水の御蔭を蒙ったのか、身も心も浄化された、天性の美しさとやさしさと、ならぬ気晶をただよわせた、しとやかな女性であった。弘仁12年(822)姫が年20才の時、未だ皇太子であられた、後の淳和天皇に見そめられ、第四の妃として迎えられ、名前も故郷に因んで真井御前と称し、帝の寵愛を一身に集めたのであった。
然しこの生活も長くは続かず、後宮の女官たちの激しい嫉妬に世の無常を感じ、26才にして侍女二人を連れて宮中を出で、観音のお告げのままに、西宮なる如意輪摩尼峰に至り、一宇を建てた。
この年天長5年(828)11月、真丼御前は弘法大師を甲山に迎えて、十七日間の如意輪の秘法を修した。その翌年正月再び大師を請じて受明潅項を受けられた。この年5月御前は役行者の足跡を慕って遥に吉野に赴き、修験の山大峰に登らんとした。
然し土僧等が、ここは大うわばみが道をふさいで通れません、又この山の神は女人の入るのも許しませんと云っていさめたが、御前はこれにひるまず、この山にも女神が在し坐すと聞いています。又、蟒は穢れた肉をこそ好みますが、私のような浄まった肉体にどうして害を致しましょうと云って、遂に大峰に入り、21日の行を成し遂げて、山を出て來たのである。これを見て土僧等は大変驚き、これはきっと神女であろうと篤くもてなした。そして真井御前の肖像を役行者と共に祀ったと云う。
又、次の天長7年2月18日には阿闇利灌頂を受けられた。
同じ年の3月18日、御前は如意輪の像を造ろうとされ、弘法大師は山内の木をトして大きな桜の樹を撰び、これを御前の等身に準じ、凡そ32日を費して、その生き姿をモデルとして大悲の尊像を彫刻されたのである。この間御前は如意輪尊の真言三千遍を日夜唱え続けたと云われる。
これが今西宮市甲山の神呪寺(通称甲山大師)の秘佛本尊と崇められる、如意輪融通観音であり、天下の三如意輪の随一とも云われて、重要文化財の指定を受けている。かくして天長8年(831)10月18日、再び大師を請じて大殿が落慶した。この日御前は自ら髪を裁り、三つに束ね分けて、一つは大悲の尊像に献じ、一つは淳和帝に奉り、一つは弘法大師に施し、拝して具足戒を受け、法の講を如意と号した。 この後、既に御位を皇太子に譲られていた淳和天皇は、承和2年(835)正月、親しくこの甲山に大中太夫和氣真綱を始め数多の雇従を従えて御幸され、如意尼と御対面になった。上皇は尼公の一途なる求道に感激され、山下の田園一百町を寄附されたと云う。かくして同じ年の3月20日、如意尼は弘法大師の坐す南方に向って合掌して坐し、如意輪観音の真言を誦しながら、そのまま紫雲に乗って遷化した。齢正に33才であった。
朝廷は使を遣し、追悼の辞も贈ってねんごろに葬ったと云う。すると如何なる冥合であろうか、その明くる日、即ち3月21日、高野山なる弘法大師は、恰も真井御前の後を追うかの如く、62才にて入定されたのである。師と弟子が一日を置いてみまかられた事、誠に霊異と云う外ない。さて真丼御前は、昔一の筺を秘蔵していたと云う。曽って天長元年(824)、天下が大早の時、大師は守敏僧都と法力を競う事となったが、その時大師はこの筺を真井御前から与えられ、是に依って秘法を修し、広く天下に雨を降らしたと伝えられる。さてその筺には當然秘密の珠が入っていた事であろう。
果してその珠とは何であろうか、佛教の如意宝珠ならば空海は真井御前から貰わず共、自ら所持していたであろう。ここで如意尼の出自を考える時、海神を古代から氏族の守護神に戴いて来た海部氏にあって、海神の霊能の象徴は、潮満珠潮干珠の二珠である。神代時代以来の神道の家系に生まれた真井御前は、十才にして都に上る為家を出る時、この聡明な娘の修業完成を祈って、海神の霊威のこもった干満二珠を父雄豊から持たされたのではなかろうか。そして尚、神の家から出た姫は、佛道修行の守護神として、空海の教示に依り辮才天を念持したのであるが、辮才天女は、和名を市杵嶋姫命と申し上げる。ところが実は、市杵嶋姫命こそ、国宝海部氏系図に、真井御前の祖神である彦火明命の后神(奥方一と秘伝されているのである。一方その師空海は、日本古来の山岳神道と密教を結び合せて真言密教を大成したのであった。神と佛のこのいざなえる奇しい縁に、人の世の玄妙不可思議を思うものである。
ただ、今も海部氏に伝わる、伝弘法大師筆の、「大明神」の極めて雄澤なる一幅に、往時を荘々として偲ぷのみである。
重文狛犬の伝説
社頭の狛犬二基は鎌倉時代の作であるが、石造狛犬として日本一の名作であるとの定評がある。
入神の作であるところから、その昔橋立に時々荒れ出て困ったのを、天正年間有名な豪傑岩見重太郎が剛刀で狛犬の脚を切断したところ、それ以来事無きを得、爾来霊験があり、魔除の狛犬と云われる由の伝説がある。
天橋立の起源に就て
當宮の御鎭座は両宮共に、前記の如く、神代、又は懿徳天皇の御代と傅えられているが、當宮境内の地統きに有名な日本三景の一つである天橋立が存在する。その起源については、上代は、當宮の神地神境否、神座とされていたもので、元初は、天神が天降られていて、国々島々を生み成されたとの博であったが、一般に知られている古風土記には、男神伊射奈岐神が、久志傭の浜の北辺にある真名井原(女神所在の奥宮)へ天から通われる時に造られた梯(これを天浮橋と云う)が、大神が地上で一夜寝ていられた間に倒れ伏して出未たのが天橋立であるという説が伝えられている。天橋立は、又、海橋立ともいって、別に海浮橋という古傅もあった。内海(阿蘇海)を、神輿が、神幸(船渡御)されて、龍穴から龍宮城へお出ましになった古傅もあり、海神の宮も橋立明神と構して現存し、龍灯の松の傳もある。同大神は、真名井神社の裏側の磐座(磐境とも云う、社殿創始以前太古の祭場)西座に拾祭りされてあり、この磐座を俗には、鶺鴒石或は子種石と呼んで、天照大神御出生の地と伝えられ、日之小宮どいう。
この伝説で窺われるように、我々の遠い祖先人は、天上の神と地上の人間界とを結ぶ梯、天浮橋が倒れて出来たものが、天橋立であると素朴に感得したのであって、遠い上代から営神社の神域の内であり、又、近代に至っても境内であったが、後に参道ともなった。幕末文政の頃、元伊勢(當宮の事)を目指した善男善女のお蔭参りの列が、天橋立を埋めつくしたと云う記録が残っている。古歌に、「神の代に、神の通ひし跡なれや、雲居に続く天の橋立」と見えていて、その聖地であったことを物語っている。即ち、天橋立は、ひたすらに神を信じ、真、善、美を、その生の中に追求した敬虜な祖先人の心境にはぐくまれて、白砂青松、幾千代変らぬ麗姿を神と人とのかけ橋として、紺青の海に示現しているものである。その生誕は極めて神秘であり、清浄である。何人かの歌に、「何時よりか天浮橋中絶えて、神と人とは遠ざかりけむ」と見える。
今の宮津市は和名抄に載っている昔の宮津郷であって、宮津と云う地名は當宮の古称である与佐宮、又、籠宮の宮の津(港)の意であって、それから宮津の地名が起きたと伝えられる。又、宮津市域に隣接している与謝郡の地名も、當社奥宮の古称吉佐宮から発祥したもので、天橋立・宮津・与謝の三地名は、古代の當社との縁由を物語る貴重な資料である。

由緒書



篭神社

伊勢神宮元宮(古称與佐宮)
延喜
式内 山陰道一之大社
丹後國一宮 籠神社
御祭神 彦火明命 (元伊勢一の宮)
(天照御魂神)
相殿 天御中主神
天照大神 (豊受大神)
海神
天水分神 (豊玉姫命)
(水神)
例祭 4月24日 葵祭ト称ス
摂社(奥宮)眞名井神社
御祭神 豊受大神 相殿 伊弉諾尊
例祭 10月15日
境内神社 蛭子社
春日社 天照皇大神社
猿田彦命社
寶物古文書
一、 藤原佐理郷筆額面勅額 重要文化財
一、 小野道風筆 額面 勅額
一、 蘭陵王古面 文蔵主作
一、 丹後國一宮深秘 建武年中書写
一、 籠神社祝部海部直氏系図 國寶
一、 石造狛犬二基 鎌倉時代建造 重要文化財

社頭掲示板



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