籠神社
このじんじゃ


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【由緒】

籠神社は第四代懿徳(いとく)天皇の御代(紀元前507年)に始まった「藤祭」を第二十九代欽明(きんめい)天皇(539〜571年)の御代に「葵祭」と改称し、2500年以上その祭祀を継承しています。
【別称】 籠宮大社(このみやたいしゃ)・元伊勢大神宮・伊勢根本丹後一宮・一の宮大神宮
【旧社格】 延喜式内・名神大社・月次・新嘗・案上之官幣大社・山陰道一之大社

籠神社の創建は奈良時代の養老三年(719)ですが、奈良時代に初めて祭祀が行われるようになったという意味ではありません。と云いますのは、籠神社は奥宮真名井神社の地から現在の籠神社の地に遷宮され、創建されたからです。籠神社が創建されるまで奥宮真名井神社は吉佐宮(匏宮・與謝宮・与謝宮・与佐宮などと表記していずれも「よさのみや」と訓みます)と呼ばれておりました。神代の時代から天照大神の孫神であり、邇邇芸命の兄神である当社海部家の始祖彦火明命が豊受大神をお祀りしていました。そのご縁故によって崇神天皇の御代に天照大神が倭の笠縫邑からお遷りになり、天照大神と豊受大神を「吉佐宮(よさのみや)」という宮号で四年間お祀り申し上げました。その後天照大神は第十一代垂仁天皇の御代に、又豊受大神は第二十一代雄略天皇の御代にそれぞれ伊勢にお遷りになりました。
真名井神社は飛鳥時代の初め頃まで「与謝宮(吉佐宮)」と呼ばれていましたが、その後当社海部家二十六代目当主の海部直伍百道祝(いほじはふり)が宮号を「籠宮」と改め、真名井神社境内地であった真名井川の川辺に一旦遷宮し、その後奈良時代元正天皇の御代に、二十七代目当主海部直愛志(あまべのあたええし)が、現在の籠神社の地へと遷宮し、それを契機に主祭神を籠神社海部家の祖神である彦火明命とし、相殿に豊受大神・天照大神・海神・天水分神を併せ祀り創祀いたしました。
宮号の変遷と起源
匏宮と吉佐宮の宮号起源(弥生時代)
真名井神社の古称である吉佐宮はもともと「匏宮」と表記して、「よさのみや」と訓んでいました。「匏宮」の「匏(よさ)」という漢字は本来「ひさご」と訓み、「匏(ひさご)」の褒め言葉を「天のよさづら」と云います。匏宮(よさのみや)・吉佐宮(よさのみや)の 「よさ」という宮号はひょうたんの褒め言葉である「天のよさづら」の「よさ」に起源があることが伝えられています。匏宮・吉佐宮では「匏(ひさご)」に天の真名井の水を入れて神祭りをしていたので、「天のよさづら」の「よさ」から「よさのみや」という宮号になったと云われています。 当社のある「宮津市」は昭和二十九年に新しく出来た「市」で、それまで当社は「与謝郡(よさぐん)」に属していました。与謝郡の郡名は「よさのみや」の「よさ」に起源があったと伝えられています。
真名井社(まないのやしろ)の宮号起源(飛鳥時代)
当社奥宮の地にあった吉佐宮が、宮号を変えて現在の籠神社の地に遷った後、旧吉佐宮は「真名井社(まないのやしろ)」と名付けられました。その後「社(やしろ)」は「神社」と呼ばれるようになります。真名井社の境内には御霊水が湧き出ています。この御霊水は「天の真名井の水」と云われ、籠神社海部家の三代目の天村雲命が高天原にある、神々が使われる「天の真名井」という井戸の水を琥珀の鉢に盛り、真名井原の泉に持ち下り、遷した水であると伝えられています。この故事により「天の真名井」から「真名井」の三文字を戴いて「真名井社(まないのやしろ)」と名付けられたと伝えられています。
籠宮の宮号起源(奈良時代)
宮号を「籠宮」に改変した際に、主祭神を彦火明命としました。 籠宮と名付けられた由縁は、別名を彦火火出見命とも云われた彦火明命が、竹で編んだ籠船に乗って、海神の宮(これを龍宮とも常世とも呼びます)に行かれたとの故事によって「籠宮」と名付けられたと伝えられています。

公式HP



【由緒】

【籠神社】(延喜式名神大月次新嘗)
籠神社は蓋表筒男命、中筒男命、底筒男命に豊受皇を合せ祀るなり、表筒男命、中筒男命、底筒男命は皆伊奘諾尊の皇子住江の三所大神と称す、所謂住吉明神なり。国史略云。彦火火出見尊自有山幸兄火闌降命有海幸…略…
或云。塩土老翁は住吉大神の別名なり、住吉大神彦火火出見尊の為に無目篭を造る、故ょ以て篭神社と称すといふ。豊受皇大神は伊奘諾尊の皇子和久産巣日神の皇子なり、始而人に衣食を教ゆ是以天照大御神豊受皇を以て吾御饌神と尊み玉ふ(日本記にいふ所は古事記と異る豊受皇を国常立尊とす二説いまだ何れが是なるを知らず、されども前賢多く古事記を以て正説とすよって今是に従ふ)。雄略帝廿二年大佐々尊を丹波吉佐に遣はし豊受皇を迎へ奉り、之を伊勢山田に移し祭る、號して外宮といふ、既にして豊受皇の故廟漸く衰ふ。夫豊受皇大神は住江の三所大神と叔姪なり故を以後の世に二社合せ祭る。先是元明皇帝毎州一宮を建つ、於是養老三年三月廿三日篭神社を丹後の一宮と定む、今の一宮是なり。諸社一覧に倭論語を引て豊受皇の神社を載て云。蓋人ノ身ヲ思ヘルカ如ク神明ヲウヤマイスへカミコトヲアカメ天ノ神ノヲシヘヲマモリヲラス一身ヲハツカシムル ナカルヘシト云云。社記云。王代以上は宮殿の造営今の伊勢両宮の如く朝廷より営み玉ひて社領二千五百石あり、武家に至て稍衰ふといへども猶古儀を存せしが応仁年中より久しく廃す(一宮の別当大聖院智海上人の筆記今成相寺に納まる其書に将軍義尚公宮殿を再建すといふ)今僅に古代の一を存す。本社の左右に末社五座、一は太神宮、一は春日、一は大世多、一は恵比寿、一は貴舟明神、本社の正面に拝殿あり拝殿の前に狛犬二対、其左に石の手水鉢あり銘に永亨五癸巳年八月願主忠益とあり、狛犬より華表に至る凡四五十間松樹左右に連る、其間に石灯篭凡五柱、其一柱は高灯篭といふ高サ一丈五尺余、華表の前に石の反橋あり石橋の前に石灯篭一柱あり、海浜に至て輪灯篭を建つ、輪灯篭より鳥居の前後に茶亭左右に連り自から市をなす、よく客の旅愁を散らす處なり、茶亭より右の方に社司海部氏の宅あり、蓋海部氏は海部直の子孫なりといふ。宮津歳時記云。一宮の祭は四月中の丑の日葵祭とて近国より多く牛を率て江尻村より橋立の間に牛市をなす、蓋祭も盛なる事と見へて其祭に用ひたる屋台の輪なりとて大なる車の輪今に残る、今は太刀振といふ事をなすのみ。
蔵宝
一、正一位篭之大明神之額(小野道風筆)。一、同(藤原佐理卿筆)。一、源頼光願文。一、児舞装束。一、蘭陵王の仮面(出図)

丹哥府志



【由緒】

府中村字大垣鎮座、國幣中社、祭神天水分命、神代の鎮座にしてもと諸岡にありしを、元正天皇の朝毎州一の宮を立て給ふや、養老三年今の地に移して籠神社と號し丹後國一の宮と定め給ふといふ。六國史顕存社にして続日本後紀嘉祥2年2月庚戌此日奉レ授二丹後國籠神社五位下一とあり、また三代實録清和天皇貞観6年12月21日甲戌授二丹後國從五位上籠神正五位下一、又同書貞観13年6月8日癸未授二丹後國正五位下籠神從四位下一、同書陽成天皇元慶元年12月14日庚辰授二丹後國從四位下籠神從四位上一の記事あり、延喜の制名紳大社に列せられ式に丹後國與謝郡籠神社名紳大月次新嘗とありて、式内大社山陰道三十七座の内にて月次新嘗案上の官幣に預らせ給ふは当社のみなり。
 朝野群載に承暦4年6月御トに籠神の祭事を穢せる祟あるを以て社司に中祓を科せしむる記事あり。社記によれば延長7年7月小野道風醍醐天皇の勅を奉じて正一位籠之大明神の額を賜ひ、貞元元年5月参議佐理卿融圓天皇の勅を奉じて同上の額を賜ひしといへり、皇太神4年鎮座考には崇神の朝皇女豊鋤入姫命が皇太神の御霊代を四年間当社に奉安せられたりと記載す。当社の祭神に就ては異説紛々として殆んど定説なく、丹後風土記及び丹後國式社證實考には伊奘奈岐大神一座と云ひ、和漢三才図会、丹哥府志及び日本地理志料等には住吉同体三神を祀ると云ひ、大日本國一宮記及び古事類苑には籠守権現住吉一体なりと云ひ丹後與謝海図誌、籠太明神縁起秘伝、大谷寺奏状等には豊受大紳を祀ると爲し丹後細見録、丹後旧事記等皆国恒立命を祀るとし籠神社誌、阿蘇校編纂府中村誌等には大綿津見命一座を祀ると載せ古事記伝古史伝等には天水分命京都府及ぴ内務省の神社明細帳には之れに則りて天水分命を祀るとせり。
若し栗田博士の神社志料によれば「祭神は火出見命また海神また天水分命など云ふ説もあれど一宮記又土人伝説に住吉三神を祀ると云ふも根拠あるに似たり昔海部直氏なるもの丹波國造の同族の由縁にて此國に住せしが其祖天火明命を本社に祀りけむを後に同祖なる津守氏の住吉神主たりしいわれを以て住吉神をも合せ祭りしより終に住吉神を主神の如く言伝へしなるべし云々」ごなせるが萬葉集の「すみの江のこはまのしゝみあけもみすく、こもりのみやハこひわたりなん」の歌は蓋し此を詠みたるにはあらざるか萬葉略解他に異説を掲げたるも惟ふにすみの江は江の隅即ち江尻にて籠川の注ぐ濱には赭も見さるも籠の宮はとかけたるより察すれば若しや丹後国府に於ける当社を当時皇郡の難波に於ける住吉に擬したるにはあらざるか難波野の地今に存す由かりめるに似たり。
 延暦以前朝廷より御造営ありし由なるも其後絶えしと社記にあり。神領は丹後田数帳に籠宮田四十六丁二百十歩一宮御料朔幣料田十一丁一宮御領、拝師郷細工所保一丁一宮御領石川庄光岡保三反一宮御領の記事あれば鎌倉より室町時代に亙りては嚴然たる大社なりしなるべく、社號も永萬記、諸社根元記等に籠宮権現、大日本國一宮記に籠守権現とあり、随って奉仕の佛寺も別當大聖院圓壽院の社僧の外大谷寺金剛薩?院以下一山四ヶ院成相寺、惣持院以下一山六ケ院等参列して頗る荘嚴を極め又社家は海部家の系譜に養老3年以來當社の祝を動むとあり、江戸時代に降りては寺社領の削減に伴ひ別當寺院次第に減じ僅かに神領八斗四升四合となり寺院の奉仕は自然廃絶す。弘化2年三社殿再建明治4年6月國幣中社に列せられ爾來同社に關する経費は國費支弁となり例祭、祈年祭、新嘗祭には京都府卸事代理として府の高等官又は郡長を供進使として神社に参向せしめらる。
       神服連海部直の系圖
 今の興謝郡府中村なる丹後一の宮國弊中社宮司海部武富氏は日本古事記日本旧事記及扶桑略記等に見えたる神服連海部直の後裔にして海部氏と籠神社の由縁は遠く養老年間以來綿々として,今日に及べること同氏所藏の貞観年中作籠神社祝部氏系図に明なり左にその写を掲ぐ。

与謝郡誌



【文化財】

国宝
海部氏系図(国宝)本系図巻頭
海部氏系図(附 海部氏勘注系図)(古文書) 宮司家の海部氏の系図。神社側では「籠名神社祝部海部直等之氏系図」と呼称。平安時代初期の書写で、現存では日本最古の系図とされる。1976年(昭和51年)6月5日指定。なお、系図の所有者は籠神社ではなく宮司家である。
重要文化財(国指定)
木造扁額(工芸品) 室町時代 の「籠之大明神」と記載された扁額。神社側では、976年(貞元元年)の勅額の「藤原佐理卿筆額面」と呼称。京都府立丹後郷土資料館に寄託。1926年(大正15年)4月19日指定。
石造狛犬 1対(彫刻) 1942年(昭和17年)12月22日指定。
丹後国府中籠神社経塚出土品(銅経筒2口、菊花双雀鏡、線刻如来鏡像)(考古資料) 鎌倉時代、文治四年(1188年)在銘の経筒2口と伴出品。京都府立丹後郷土資料館に寄託。1961年(昭和36年)2月17日指定。
京都府指定文化財
有形文化財 本殿(附 棟札3枚)(建造物) - 1990年(平成2年)4月17日指定。
摂社真名井神社本殿(附 拝所1棟、棟札3枚、末社恵比寿神社本殿)(建造物) - 1990年(平成2年)4月17日指定。
籠神社文書(附 慶長七年丹後国検地帳19冊)(古文書) - 籠神社に伝わる鎌倉時代・室町時代・江戸時代の古文書。2003年(平成15年)3月14日指定。
籠神社経塚出土品(考古資料) - 1989年(平成元年)4月14日指定。
無形民俗文化財 籠神社の祭礼芸能 - 1985年(昭和60年)5月15日指定。
その他
指定文化財以外の宝物。
海部直伝世鏡「息津鏡」「辺津鏡」 息津鏡(おきつ)は後漢代の作と伝えられ直径175mm、辺津鏡(へつ)は前漢代の作と伝えられ直径95mm。「海部氏系図」の勘注系図にも記載があり、天祖が火明命に授けたという。出土品でない伝世鏡では日本最古という。なお、鏡の名は十種神宝のうち2鏡と一致するが、関係は明らかでない。
小野道風筆額面 鎌倉時代の「籠之大明神」と記載された扁額。神社側では、平安時代の929年(延長7年)の勅額で小野道風の筆と伝える。
羅龍王古面 - 室町時代(伝鎌倉時代)。
丹後国一宮深秘 - 南北朝時代から室町時代に書写された籠神社由緒記。
内宮所伝本倭姫命世紀 - 室町時代(伝南北朝時代)。
有栖川宮幟仁親王殿下御染筆額面 - 明治2年の有栖川宮幟仁親王筆の額。





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