市民文化会館東に鎮座する。 富士山そのものを御神体として祀る。 境内にある湧玉池(特別天然記念物)は、地下を流れてきた富士山の雪解け水が1日約16万トン湧き出している。 代々和邇氏の裔とする富士氏が宮司を務めてきた。 奥宮は富士山頂にある。富士山の8合目以上の約385万uも社地として所有している。 全国に約1,300社ある浅間神社の総本社である。「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」の構成資産の一つとして世界文化遺産に登録されている。 |
由緒 第7代、孝霊天皇の御代富士山が噴火し鳴動常なく人民恐れて逃散し年久しく国中が荒れ果てたので第11代垂仁天皇は其の3年に浅間大神を山足の地に祭り山霊を鎮められた。これを当浅間大社の起源とする。ついで第12代景行天皇の御代日本武尊が東夷御征伐の時駿河国に於て賊徒の野火に遇われたが富士浅間大神を祈念して其の災をのがれた給い、その賊を征服するや山宮の地(大宮の北方約6キロ)に於て厚く大神を祭られた。 其の後第51代平城天皇の大同元年坂上田村麿勅を奉じて現在の大宮の地に壮大な社殿を営み山宮より遷し鎮め奉った。爾来一千百余年全国一千三百余に及ぶ浅間神社の総本社として全国的崇敬をあつめる東海の名社となっている。 古来朝廷の御尊崇極めて厚く延喜の制には名神大社に列し、駿河国一宮として勅使の奉幣神領の御寄進等にあずかり、武家時代に入るや源頼朝は神領を寄進し、北条義時・足利尊氏同義持等何れも社殿を修営し、武田信玄・同勝頼父子は諸種の宝物を献上し社殿を奉建し、豊臣秀吉も亦神領を寄進した。慶長九年徳川家康は戦国擾乱の鎮静と将軍宣下の奉賽のため本殿・拝殿・楼門その他を奉建し更に同十一年には富士山八合目以上を当社へ寄進した。爾来徳川氏は本社を崇敬すること極めて深く、家光は社領を献じ家綱・綱吉・家治・家斉・家定・家茂等も夫々祈祷料・修理料を寄進した。 又室町時代に始まった富士登拝は江戸時代に入っていよいよ殷盛を極め以来今日に至っているが、本宮所在の大宮は富士山表口と称せられ関西方面から来る道者(どうじゃ)の登山口たることは勿論、特に本宮を崇敬する関東、東北の道者も此の道を選び、又甲斐、信濃より来る道者も少なくなかった。彼等は社人中特定の道者坊に着いた後本宮に参詣し、更に境内の湧玉池にて斎戒沐浴して登山するのを習いとした。 明治に及んでは其の4年5月14日国幣中社に、同29年7月8日官幣大社に列せられた。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
富士山本宮浅間大社 【御祭神】 御神像 主祭神 : 浅間大神(あさまのおおかみ) 木花之佐久夜毘売命(このはなのさくやひめのみこと) 相殿神 : 瓊々杵尊(ににぎのみこと) 相殿神 : 大山祇神(おおやまづみのかみ) 「日本(ひのもと)の 大和の国の 鎮めとも います神かも 宝とも なれる山かも 駿河なる 富士の高嶺は 見れど飽かぬかも」と万葉の歌人高橋蟲麻呂が詠んだ清らかで気高く美しい富士山。この霊山を御神体として鎮まりますのは、浅間大神・木花之佐久夜毘売命にまします。 木花之佐久夜毘売命は、大山祇神の御息女にして大変美しく、天孫瓊々杵尊の皇后となられた御方です。命はご懐妊の際、貞節を疑われたことから証を立てるため、戸の無い産屋を建て、周りに火を放ち御出産になられました。そして、無事3人の皇子を生まれたという故事にちなみ、家庭円満・安産・子安・水徳の神とされ、火難消除・安産・航海・漁業・農業・機織等の守護神として全国的な崇敬を集めています。 木花という御神名から桜が御神木とされています。境内には500本もの桜樹が奉納されており、春には桜の名所として賑わいます。また、申の日に富士山が現れた故事から神使いは猿といわれています。 山宮斎場 【起 源】 「富士本宮浅間社記」によれば、第7代孝霊天皇の御代、富士山が大噴火をしたため、周辺住民は離散し、荒れ果てた状態が長期に及んだとあります。第11代垂仁天皇はこれを憂い、その3年(前27)に浅間大神を山足の地に祀り山霊を鎮められました。これが当大社の起源です。 その後は姫神の水徳をもって噴火が静まり、平穏な日々が送れるようになったと伝えられています。この偉大な御神徳は、万人の知るところとなり、篤い崇敬を集める事となりました。また、富士山を鎮めるため浅間大神をお祀りしたのは当大社が最初であり、全国にある浅間神社の起源ともなっています。 山宮参道 【現在の鎮座地(大宮)に遷座】 最初に祀られた「山足の地」は、特定の地名を指すのではなく、富士山麓の適所を選んで祭祀を行った事を示すと考えられています。特定の場所に祀られるようになったのは、山宮(現在の鎮座地より北方約6キロ)にお祀りされてから後のことです。山宮は社殿が無く古木・磐境を通して富士山を直接お祀りする古代祭祀の原初形態を残す神社で、祭祀形態の変化をうかがい知ることが出来ます。 社記によれば、日本武尊(やまとたけるのみこと)が東国の夷(えびす=賊徒)を征伐するため駿河国(するがのくに)を通られた際、賊徒の野火(野原で四方から火をつけ攻められること)に遭われました。尊は、富士浅間大神を祈念して窮地を脱し、その賊徒を征伐されました。その後、尊は山宮において篤く浅間大神を祀られたと伝えられています。 後に、大同元年(806)坂上田村麿は平城天皇の勅命を奉じ、現在の大宮の地に壮大な社殿を造営し、山宮から遷座されました。 富士山の神水の湧く地が御神徳を宣揚するのに最もふさわしかった為ではないかと考えられます。 湧玉池 本宮の境内の広さは約17000坪、徳川家康公寄進の神殿、楼門を中心とした御神域は御神徳の偉大さを物語っています。 【社殿】 慶長9年(1604)徳川家康が奉賽のために造営したもので、本殿・拝殿・舞殿・楼門等壮観を極めたものでしたが、寛永安政等の大地震で破壊したものもあり、当時の建物で現存するのは本殿・拝殿・楼門のみです。 【本殿】 二重の楼閣造で棟高45尺、浅間造りと称し其の構造は他に例がありません。1階は5間4面葺卸の宝殿造り、2階は間口3間奥行2間の流れ造りで共に桧皮葺です。明治40年5月27日古社寺保存法により特別保護建造物に指定され以後国宝又は重要文化財として特別の保護を受けてます。 【拝殿】 5間4方入母屋造りの建物で桧皮葺になってます。 【楼門】 高さ39尺、間口4間奥行2間半、屋根は桧皮葺です。楼門の左右には随身が安置してあり背銘に慶長19年の年号があります。楼門に掲げる扁額は聖護院入道盈仁親王の御筆で文政2年に制作されたものです。 当大社の祭礼で最も早く見られるのは、都良香の『富士山記』に貞観17年(875)11月5日申の日に「旧に仍りて祭を致す」(原文は漢文)とある部分で、申の日の祭礼が古くから継承されて来た様子がうかがえます。天正5年(1577)の『富士大宮御神事帳』には、65度に及ぶ祭礼が載っており、主なものは今に継承されています。現在、当大社の恒例祭典は、159度に及びますが、その主なものを紹介します。 ◆節分祭 2月立春前日 厄除開運祭ともいわれます。鳴弦式(写真)についで60人もの年男が奉仕する豆撒式がおこなわれます。境内には一般参拝者も詰めかけ、豆撒式場の馬場がいっぱいになるほどのにぎわいを見せます。 ◆初申祭 4月初申日 縁の深い初申の日に本宮・山宮両社を参拝し、豊かな稔りを祈る祭りです。古くは大祭礼とされ、山宮へ御鉾を渡御する御神幸があるなど、盛大に行われました。これは山宮から本宮へ遷座した時をしのぶものと見られています。現在はその祭儀も廃れ、両社の参拝のみ行われています。山宮は社殿が無く、正面の古木・磐境を通して富士山を直接拝する古代祭祀を伝える神社です。 ◆流鏑馬祭 5月4・5・6日 建久4年(1193)源頼朝が富士の裾野で巻狩を行った際、武運長久・天下太平を祈り奉納したことに始まります。5日本祭日には、神前で古式ゆかしく祭典が行われた後、古式流鏑馬が奉納されます。午後からは、鎌倉絵巻さながらに市内を練り歩き、勇壮な流鏑馬が奉納されます。 ◆開山祭 7月1日 7・8月の富士山の山開きにあたり、安全を祈願する祭りです。期間中は全国より32万人にのぼる崇敬者が、登山します。富士山頂上に鎮座される奥宮を開き、国家安泰・世界平和を祈念するほか、祈祷・御札、御守りの授与を致しております。 ◆御田植祭 7月7日 当大社神田のお田植を行うにあたり、富士山よりほとばしる湧水への感謝と五穀豊穣を祈る祭りです。本宮の祭典後、神田の宮で古式ゆかしい御田植神事と早乙女による田植舞が奉納されます。 ◆例祭 11月3・4・5日 古来、4月・9月・11月の申の日に行われた大祭礼のひとつで、様々な稔りに感謝する祭典です。市内では華やかな山車が曳き回され、富士宮囃子(県指定無形民俗文化財)が賑やかに競演される東駿第一の祭りです。 年中行事表 凡例 ●は大祭、■中祭、◇は小祭他 ■1 月 1 日 歳旦祭・氏子安全祈願祭 ◇1月2日 御日供始祭 ◇1月3日 宮中三殿遥拝式 ◇1月4日 末社水屋神社例祭 ◇1月 成人祝祭 ◇2月立春前日 節分祭 ■2月11日 紀元祭 ◇2月初午 末社稲荷神社例祭 ■3月17日 祈年祭 ◇4月1日 桜花祭 ◇4月初申 初申祭 ◇4月4日 末社天神社例祭 ◇4月9日 富士山境内地確定記念祭 ●5月4・5・6日 流鏑馬祭 ◇6月17日 末社厳島神社例祭 ◇6月30日 夏越大祓式 ◇7月1日 開山祭 ■7月7日 御田植祭 ◇7月11日 富士山頂上奥宮開山祭 ◇8月15日 富士山頂上奥宮例祭 ◇8月下旬 富士山頂上奥宮閉山祭 ◇9月7日 閉山祭 ◇9月 敬老祭 ◇10月17日 神宮神嘗祭遥拝式 ●11月3・4・5日 例祭・献詠和歌披講式 ◇11月5日 富士地区戦没者慰霊祭 ◇11月15日 七五三祝祭 ■11月23日 新嘗祭 ◇12月 煤払式 ■12月23日 天長祭 ◇12月31日 師走大祓式・除夜祭 ◇毎月1日 月次祭(1月1日は除く) HP |
富士山本宮浅間大社の栞 御鎮座地 本宮 静岡県富士宮市宮町1−1 奥宮 富士山頂上 富士山は日本一の高い山というだけでなく、その穏かで美しく、しかも荘厳な姿は世界でもその例がないでしょう。日本人は大昔からこの霊山を仰いで、云わず語らずのうちに多くのことを教えられ、美しい清らかな、そして雄大な心を養ってきました。本当に富士山は日本人の理想の姿であります。内には天地も揺がす力をもちながら、その美しい清らかな姿は、平和を愛する日本人の心の象徴であります。温和なこの霊山富士は、訪ねてくる人みなを同じように、心よく迎えてくれます。どこの国の人でも、この山の霊気にふれて感心しないものはありません。誰れでもこの霊峰を拝すると、人間のおよばない大きなものを感じ、その荘厳に打たれないものはありません。誠に富士山はただの山ではなく、崇高な存在で、人間の知識では分らない働きがあります。これが本当の神でありましょう。すでに万葉歌人も神と称え、今日にいたるまで幾千年、日本人は神の姿をこゝに拝し、力の泉、心の救いとしてきました。そこで富士山本宮浅間大杜では、日本女性の手本とも仰がれる、その名も美しい木花佐久夜毘売の命を主神として祭っています。なんとやさしい心情でしょう。日本人はこのまたとない不二の神山とともに永遠に、そして美しくやさしい心で、手をとりあい、しかもこのお山のように厳とした心構えで、正しい道を進みましょう。われわれはこの願いを逐げるためにも、身も心も綺麗に清めて、富士の大神の前にお祈りをいたしましょう。 一、御祭神 「天地の別れし時ゆ神さびて高く貴き駿河なる云々」と萬葉歌人が詠じた富士の高嶺を御神体として神鎮ります富士山本宮浅間大社の御祭神は畏くも浅間大神と御名をたたえまつる木花之佐久夜毘売命にまします。命は大山砥神の御女で天孫瓊々杵尊の皇后におたちになられ、その貞節は日本女性の亀鑑として国民の敬仰するところであるが、あまねき御神徳の内火難消除・安産・航海・漁業・農業・機織等の守護神としての信仰が特に著しい。 一、御由緒 第七代、孝霊天皇の御代富士山が噴火し鳴動常なく人民恐れて逃散し年久しく国中が荒れ果てたので第十一代垂仁天皇は其の三年に浅間大神を山足の地に祭り山霊を鎮められた。 これを当浅間大社の起源とする。ついで第十一代景行天皇の御代日本武尊が東夷御征伐の時駿河国に於て賊徒の野火に遇われたが富士浅間大神を祈念して其の災をのがれ給い、その賊を征服するや山宮の地(大宮の北方約六キロ)に於て厚く大神を祭られた。其の後第五十一代平城天皇の大同元年坂上田村麿勅を奉じて現在の大宮の地に壮大な社殿を営み山宮より遷し鎮め奉った。爾来1100余年全国1300余に及ぶ浅間神杜の総本社として全国的崇敬をあつめる東海の名社となっている。 古来朝廷の御尊崇極めて厚く延喜の制には名神大社に列し、駿河国一宮として勅使の奉幣神領の御寄進等にあずかり、武家時代に入るや源頼朝は神領を寄進し、北条義時・足利尊氏同義持等何れも社殿を修営し、武田信玄・同勝頼父子は諸種の宝物を献上し社殿を奉建し、豊臣秀吉も亦神領を寄進した。慶長9年徳川家康は戦国擾乱の鎮静と将軍宣下の奉賽のため本殿・拝殿・楼門その他を奉建し更に同11年には富士山八合目以上を当社へ寄進した。 爾来徳川氏は本社を崇敬すること極めて深く、家光は社領を献じ家綱・綱吉・家治・家斉・家定・家茂等も夫々祈祷料・修理料を寄進した。 又室町時代に始った富士登拝は江戸時代に入っていよいよ殷盛を極め以来今日に至っているが、本宮所在の大宮は富士山表口と称せられ関西方面から来る道者の登山口たることは勿論、特に本宮を崇敬する関東、東北の道者も此の道を選び、又甲斐、信濃より来る道者も少くなかった。彼等は社人中特定の道者坊に着いた後本宮に参詣し、更に境内の湧玉池にて斎戒沐浴して登山するのを習いとした。 明治に及んでは其の4年5月14日国幣中杜に、同29年7月8日官幣大社に列せられた。 一、祭典 年間行われる恒例祭典は六十余度に上るが其の内の主なるものは左の通りである。 節分祭 節分当日除厄開連祭とも云われ、鳴弦式及び年男の奉仕する豆撒式が行われ一般参拝者も群集して境内は立錐の余地ない程の賑いを呈する。 流鏑馬祭 5月4・5・6日社伝によると建久四年源頼朝が富士の裾野で巻狩を行った時奉納したのに起因すると云われ天正5年の富士大宮御神事帳や慶安3年の富士本宮年中祭礼之次第等に見える古儀である。4日が前日祭5日が本祭6日が後日祭となっているが本祭当日は神前に於て流鏑馬祭が古式豊かに行われた後六十余頭の馬に神職・武者・稚児其の他が騎乗して市中の練行があり、次いで境内桜の馬場で流鏑馬式が行われる。 御田植祭 7月7日 当社神田の御田植である。本宮の祭典終了後神職・田長・田代役・早乙女が行列をなし道楽を奏しながら神田に到り、早乙女の田舞があって御田植式を行う。当日は此の地方農休みの時期とて非常な賑いを呈する。 開山奉告祭 7月7日 富士の開山が7月11日より8月31日迄行われるので、本宮で閉山奉告祭9月7日はその4日前の7月7日に山開きの旨を神前に奉告し奥宮登拝者の無事を祈念する。又閉山後9月7日に無事終了を本宮に奉告し神恩を奉謝する。 例祭 11月3日、4日、5日 天正5年の富士大宮御神事帳や慶安3年の富士本宮年中祭礼の次第例祭等では大祭礼と云われ、4月・9月・11月に行われた。現今は11月3日が前日祭、4日が本祭、5日が後日祭で此の三日間は市民にとっても年一度の大祭りであるため、老若男女何れも揃いの衣裳華々しく山車の笛、太鼓賑やかに全市を曳き廻し東駿第一の祭典になっている。 一、社殿 現今の社殿は慶長9年徳川家康が報賽のため造営したもので、本殿・拝殿・舞殿・楼門等壮観を極めたものであったが寛永安政等の大地震で破壊したものもあり当時の建物の現存するのは本殿・拝殿・楼門のみである。 本殿 二重の楼閣造で棟高四十五尺、浅間造りと称し其の構造は他に類例がない。 一階は五間四面葺卸の宝殿造り、二階は間口三間奥行二間の流れ造りで共に檜皮葺である。明治40年5月27日古社寺保存法により特別保護建造物に指定せられ以後国宝又は重要文化財として特別の保護を受けている。 拝殿 五間四方入母屋造りの建物で檜皮葺になっている。 楼門 高さ三十九尺、間口四間奥行二間半、屋根は檜皮葺である。楼門の左右には随身が安置してあり背銘に慶長19年の年号がある。楼門に掲げる扁額は聖護院入道盈仁親王の御筆で文政2年に製作されたものである。 一、境内 本宮境内の広さは一万七千坪、宏壮なる神殿、楼門を中心として自然の美人工の妙を巧に配した神域は大神の偉大な御神徳を物語っている。 神苑一之鳥居より鏡池に到る約150mに及ぶ参道の両側を神苑とする。東側は神田川の清流にそい緑樹の間に児童遊園地が設けられている。 御祭神の御名及び桜の宮の名に負い境内一帯には桜樹約1500本が植えられている。 鏡池楼門前の池で一名眼鏡池とも云われる。中央に架す輪橋は大正4年御即位記念として石造に改められた。 桜の馬場其の名の示す如く春4月には桜花欄漫としてその美を競い、5月には流鏑馬の神事が古式により執行される。 鉾立石 楼門前石段の上にある自然石は鉾立石と称し、往古4月、11月両度の大祭礼山宮神幸の節神鉾を休め奉ったものである。 湧玉池 参拝をすませ東の掖門を出ると平安朝の歌人平兼盛が「つかふべきかずにをとらん浅間なる御手洗川のそこにわく玉」と詠じた湧玉池に出る。此の池は富士山の雪解けの水が湧出するもので特別天然記念物に指定されている。神立山の麓滾々として清水の湧出する水源の岩上には朱塗優雅な水屋神社がある。大宮よりの富士山登山者は往古この霊泉に浴して潔斎したものである。 神立山 本殿の背面東北方にある丘陵で湧玉池に臨みこの間を躑躅が点綴して岨悟たる山膚を彩る。明治27年大正天皇が未だ東宮におわしました頃御参拝の砌り御野立あそばされた所である。池畔より水屋神社を経てここに達する登り口に天神社がある。 御手洗川 湧玉の清水はやがて御手洗川のゆるやかな流れとなり、末は神田川となって市街地と神域とを限る。その川中島には厳島神社があり西岸には稲荷神社がある。 一、奥宮 奥宮境内は富士山八合目以上の全域で百二十余万坪の広さに達する。古来富士山本宮浅間大社の御神体として崇められる神聖地であって数々の霊場行場がある。 主なるものを摘記すれば 大内院 旧噴火口のことで又幽宮とも称えその深さは八合目迄達している。 奥宮 富士宮口登山道を登り詰めた所に奥宮がある。富士山を御神体とするため本殿は無く拝殿幣殿を存するのみである。 久須志神社 吉田須走河口湖口登山道を登り詰めた所に鎮座する。当社は奥宮の末社である。 金銀明水 御殿場口下山道の起点に銀明水が、久須志神社西北方に金明水がある。何れも富士山頂に於ける霊水湧出の個所で富士信者はこれをうけて浅間大神の水徳を戴く。 八神峰 富士山頂上大内院の周辺には剣ヶ峰・白山嶽・久須志嶽・成就嶽・朝日嶽・浅間嶽・駒ヶ嶽・三島嶽の八神峰がそば立ちこれを巡拝するのを御鉢廻りと云う。八峰の内剣ヶ峰が最も高くその標高は3776mである。 由緒書 |
富士山本宮浅間大社 富士山本宮浅間大社 静岡県富士宮市宮町1-1 富士山本宮浅間神社 祭神 浅間大神 木花之佐久夜毘売命(このはなのさくやひめのみこと) 例大祭 11月3・4・5日 当社の創建は、第11代垂仁天皇の3年に、富士の山霊を山麓に祭られたのに始まります。その後平城天皇の大同元年(806)に、坂上田村麿か現在地に社殿を造営し、浅間大神を奉斎したと伝えられています。以来代々朝廷の尊崇篤く、延喜の制では名神大社に列せられ、駿河国の一宮て、全国1300余の浅間神社の総本宮として崇められている東海最古の名社てあリます。武将の崇敬もまた篤く、現在の本殿、拝殿、楼門は徳川家康の寄進に依るもので、特に本殿は重要文化財に指定されています。 元官幣大社。 富士参詣曼茶羅図(重要文化財) 富士山信仰による登拝の情景を描いたもので、室町末期狩野法眼元信の作と伝えられる。絹本着色(180.0×117.5cm) 御田植祭7月7日 富士山のお水をいただいて田植を行なった、感謝と五穀豊穣を祈願する祭で、古式による特殊神事田植行事と田植舞が行なわれます。 富士山の雪どけ水を満面にたたえる湧玉池特別天然記念物、水温13℃、湧水量毎秒3.6kl虹ますの群れおよぐ様が見事です。 登拝者で賑わう富士山頂奥宮 富十山は、昔から浅間大神の鎮まります神体山として崇められ、山項には奥官が鎮座されています。毎年7・8月の開山期間には30万余の登拝者で賑わいます。 御神火祭(主催富士宮青年会議所) 富士宮市の夏まつりの恒例行事で、山頂奥宮からいただいた御神火をかかげて、登山の安全と無事息災を祈願するおまつりです。 流鏑馬祭(やぶさめさい)5月4・5・6日 源頼朝が、建久4年(1193)富士の裾野で巻狩を行なった時奉納したのにはじまると伝えられ、特殊神事流鏑馬式が境内桜の馬場で勇壮に行なわれます。 秋まつり11月3・4・5日 浅間大社の例大祭に行なわれる富士宮全市をあげてのおまつりで、各町内から山車・屋台が繰り出され、近郷近在からの参拝者は、約30万といわれます。春のやぶさめ祭と共に富士宮の春秋両大祭で、山車・屋台のお離子は「富士宮ばやし」といわれ有名です。 官参り 秋まつりの山車屋台は、宮参りと称して先す浅間大社に参拝し町内安全と産業振興を祈願して一斉に町内に繰り出すことになっています。 社頭掲示板 |