富士山本宮浅間大社
ふじさんほんぐうせんげんたいしゃ


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【由緒】

第11代垂仁天皇が、富士山の噴火を鎮めるため、浅間大神を富士山麓に祀られたことに始まります。その後、大同元年(806)に、平城天皇の勅命により、坂上田村麻呂が現在の地に社殿を造営し、浅間大神を山宮より遷し祀られました。以来、全国1300余社に及ぶ浅間神社の総本宮、駿河国一の宮として全国的な崇敬を集める東海最古の名社です。(旧官幣大社)
静岡県神社庁


【鎮座地】

景行天皇の時代、日本武尊は野火の難に遭った際に浅間大神に祈念して難を逃れた。賊徒を平定した後に山宮(現 山宮浅間神社)に磐境を設け浅間大神を祀った。大同元年(806)、平城天皇の命により坂上田村麻呂が現在の大宮の地に社殿を造営したと伝える。なお同記によると、元々は大宮の地は「福地神」(現 富知神社)の社地であったが、山宮より浅間神が移るにあたってこちらも遷座したという。


【文化財】

重要文化財(国指定)
本殿 (建造物) 慶長9年の造営。明治40年5月27日指定
絹本著色富士曼荼羅図 (絵画) 室町時代の作。昭和52年6月11日指定
太刀 銘南无薬師瑠璃光如来 備前国長船住景光 (工芸品) 室町時代の作。武田信玄奉納と伝わる。『集古十種』には「駿河国富士浅間社蔵 武田信玄太刀図」とある。明治45年2月8日指定
脇指 銘奉富士本宮源式部丞信国 一期一腰応永32年2月日(工芸品) 室町時代の作。信国派の作刀である。指表(さしおもて)の銘に「奉 富士本宮 源式部丞信国」とあり、指裏の銘から応永34年(1427年)の作であることが分かる。古くより浅間大社の宝物であったが乱の際に流出し、後に穴山信友によって天文16年(1547年)2月2日に奉納された。また奉納に際し漆塗の箱が添えられ、箱の蓋には「奉納冨士大宮浅間大菩薩之社内刀一腰浅間丸」とある。明治45年2月8日指定
特別天然記念物(国指定)
湧玉池(特別天然記念物)昭和27年3月29日指定
静岡県指定文化財
有形文化財 社殿 (建造物) - 昭和29年1月30日指定。 拝殿・幣殿・透塀 - 慶長9年造営
楼門 - 慶長19年造営
富士浅間曼荼羅図 (絵画) - 昭和56年10月23日指定
青磁蓮弁文大壺 (工芸品) - 昭和52年3月18日指定
青磁浮牡丹文香炉 (工芸品) - 昭和52年3月18日指定
人形手青磁大茶碗〈附 屈輪彫天目台〉 (工芸品) - 昭和52年3月18日指定
鉄板札紅糸威五枚胴具足 (工芸品) 鉄の板札(いたざね)を紅糸の毛引威とした最上胴(もがみどう)の具足で、前面・背面・両脇(左脇は2枚に分ける)の5枚を蝶番でつなぐ形式から五枚胴という。武田勝頼が奉納したものと伝わる。金具廻はすべて金梨地で塗られ、胸板の八双鋲に花菱紋がみられる。兜の前立は富士山を模したものであり、特徴的な装飾となっている。昭和52年3月18日指定
無形民俗文化財 富士宮囃子 - 平成7年3月20日指定
富士宮市指定文化財
流鏑馬の行われる桜馬場
有形文化財 伝源義助作 大薙刀 (工芸品) - 昭和40年5月10日指定
随身像 2体 (彫刻) - 平成5年5月25日指定
後陽成天皇宸翰 (書跡・典籍) - 昭和40年5月10日指定
無形民俗文化財 富士山本宮浅間大社流鏑馬 - 平成18年9月8日指定


富士山本宮浅間神社

ふじさんほんぐう、あさまじんじや 静岡県富士宮市宮町。旧官幣大社(現、別表神社)。祭神は木花之佐久夜毘売命で、天津日高日子番能邇々芸命・大山津見神の二柱をこれに配祀している。太古より噴火を続けていた冨士山を神体と仰ぐことから発生した神社であり、その創始もいつとも言えぬ古代にさかのぼると考えられるが、社伝は孝霊天皇の御代に富士山が噴火して鳴動常ならず、人民は恐れて逃散し国中が荒廃したので垂仁天皇がその三年に山麓に浅間大神を祀り山霊を鎮められたのが社殿の創始であると伝えている。ついで景行天皇の御代には日本武尊が東征の折に山宮の地において大神を祀られ、平城天皇の大同元年(806)には坂上田村麿が勅を奉じて現在の大宮の地に社殿を築いて奉遷したという。
これが現在の本宮であり、のちに駿河国府の地に浅間神社(静岡浅間神社)が勧請されてこれを新宮と呼んだのに対して、当社は本宮と呼ばれるようになった。『文徳実録』仁寿3年(853)7月に名神に預かり従三位に叙せられ、ついで『三代実録』貞観元年(859)正月には正三位に進んでおり、『延喜式』では名神大社に列している。
のち駿河国の一の宮とされ、『本国神名帳』には正一位浅間大明神として載録され、この地方では伊豆の三島大社と並ぶ天下の名社として衆庶の信仰を集めた。
中世以降も源頼朝が益津・大岡の両荘を寄進し、源実朝が社殿を造営したのをはじめ、北条義時・足利尊氏・武田勝頼らも社殿を修造して尊崇の誠を捧げた。ついで豊臣秀吉は七八七石の社領を寄進し、徳川家康は八六七石の朱印地を安堵した。現在の社殿は家康が関ケ原での戦勝を感謝して慶長9年(1604)に建立したもので、正面五間身舎側面四間の檜皮葺の拝所の上に正面三問身舎側面二間の流造檜皮葺の社殿をのせた二階建のいわゆる「浅間造り」の本殿は国の重要文化財に指定されている。
本宮所在の富士宮市は古来富士山登拝の表口と称せられ、登拝者の本宮参りが盛んに行われたが、本殿の左にある特別天然記念物の湧玉池は「おツボ」とも称し、登拝者の身を清める場所であったと言われ、今も富士山からの伏流水がこんこんと湧き出ている。 明治4年(1871)5月には国幣中社に、ついで同29年7月には官幣大社に列した。
戦後は神道指令により社格はなくなったが、全国1300余社の浅間神社の総本宮として現在も富士信仰の中心である。例祭11月4日。市内では山車・屋台が曳き回される。その他5月5日には源頼朝の富士巻狩奉納に因むと伝えられる流鏑馬祭、7月7日には開山奉告祭・御田植祭、9月7日に閉山奉告祭がある。
なお、富士山頂には奥宮が祀られているが、八合目以上の三万八○○○余平方メートルの土地について国との間に昭和22年以来裁判となっていたが同49年に最高裁においてこの土地は浅間神社の御神体を形成し、古来富士信仰の対称となったことから考えて、宗教活動に必要なものであるとして、信仰の対称としての境内地であることが確認された。

神社辞典



淺間神社

淺間は阿佐末と訓べし○祭神木花開耶姫命、(頭注)○富士山麓大宮に在す、(駿河志参考)、本宮と称す、例祭、月・日、○式三(臨時祭)名神祭二百八十五座、駿河国浅間神社一座、〇当國一宮也(一宮記)
○日本紀神代巻下、一書曰、天孫又問曰、其於秀起浪穂之上起八尋殿、而手玉玲瑞織紐之少女者是誰之子女耶、答曰、大山祇神之女等、大号磐長姫、少號木花開耶姫、亦號豊吾田津姫云々、皇孫因幸豊吾田津姫、則一夜而有身、皇孫疑之云々、
連胤云、当社は萬國に比類なき富士山を領し給へる也、さて富士山の事は、國史及本朝文粋都良香富士山記、万葉集の歌等挙るに遑なし、故に今其一二を載せて自除は略す、
類社
甲斐國八代郡、但馬国養父郡淺間神社、各一座
神位 名神
文徳実録、仁寿3年7月申午、以駿河國淺間神預於名神、同月壬寅、特加駿河國淺間大神從三位、三代実録、貞観元年正月27日甲申、奉授駿河国從三位淺間神正三位、國内神名帳云、正一位淺間大明神、
官幣
三代実録、仁和3年4月6日己酉、分遣使者、奉幣駿河国浅間明神社、(事は山城国八幡宮の下に見ゆ)
社領
当代御朱印高四百五十石
雑事
日本紀略、延暦19年6月癸酉、駿河国言、自去3月14日迄4月18日、富士山嶺自焼、昼則烟氣暗瞑、夜則火光照天、其声若雷、灰下如雨、山下川水皆紅色也、同21年正月乙丑、是日、勅、駿河相模国言、駿河国富士山、昼夜恒燦、砂礫如霰者、求之卜籤、占旱疫、宜令両国加鎮謝及読経以換穴映」本朝文粋十二、都良香富士山記曰、富士山者、在駿河国、峯如削成、直聳属天、其高不可測、歴覧史籍所記、未有高於此山者也、其聳峰欝起、見在天際、臨瞰海中、観其靈基所盤連、亘数千里間、行旅之人、経歴数日、乃過其下、去之願望、猶在山下、神仙之所、遊華也、承和年中、從山峰、落來珠玉、玉有小孔、蓋是仙簾之貫珠也、又貞観17年11月5日、史民傍仍旧致祭、日加午天甚美晴、仰観山峰、有白衣美女二人、双舞山嶺上、去嶺一尺除、土人共見、古老伝云、山名富士取郡(以下略)

神社覈録






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