浅間神社
せんげんじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】淺間神社(名神大) 駿河国 富士郡鎮座
          (現在社)富士山本宮浅間大社

   【現社名】浅間神社
   【住所】静岡県富士宮市山宮740
       北緯35度16分16秒,東経138度38分13秒
   【祭神】木之花佐久夜毘売命
   【例祭】10月17日近い日曜日 例祭
   【社格】旧村社
   【由緒】垂仁天皇3年は祀られていた
       大同元年(806)現在の地に社殿を造営し遷座

   【関係氏族】
   【鎮座地】大同元年(806)現在の地に社殿を造営し遷座

   【祭祀対象】富士山
   【祭祀】
   【社殿】本殿無し
       籠屋(拝殿)

   【境内社】

山宮浅間神社と称されている.
富士山本宮浅間大社の創建以前に富士信仰の大神が最初に奉斎された場所である。
垂仁天皇3年の時に富士山麓の山足の地にて祀られていたという。
大同元年(806年)、平城天皇の命により坂上田村麻呂が現在の浅間大社がある地に社殿を造営し遷座したという。


浅間神社

浅間神社御由緒
当浅間神社は通称山宮と呼ばれ、往古霊峰富士を神として仰ぎ崇めた人々が山の頂から直接山体を礼拝した。神聖な霊域で始めから社殿が無く敷石は祭事執行の際神官参列者の配列を考慮したもので、最も古い形式の神社である。
一、御祭神
御祭神は木花之佐久夜毘売命であるが古くは富士大神と申し上げ、後には浅間大神とも申し上げた。
二、御鎮座の由来
当浅間神社は現在在、富士宮市宮町に鎮座する元官幣大社浅間大社の元宮でその御鎖祭は極めて古い。
浅間大社の社記によると人皇第12代景行天皇の御代皇子日本武尊が勅命により東夷を征討される途次、駿河国で賊の攻撃に遇われた際陣中で富士の神を祈念され無事災難を免れられた、尊は深く富士の神の恩恵を感謝され神霊をこの山宮に祀られたと伝えている。更に社記には平城天皇の大同元年(806)征夷大将軍坂上田村麻呂が勅命により東夷を征討した帰途、浅間天大神の神威を畏い奉って現在浅間大社の在る地(大宮と称した)に壮大那社殿を造し神霊を山宮から遷し奉ったと伝えている。その後、當社と浅間大社との間柄は山宮(元宮)里宮という密接不離な関係を保ちつつ悠久今日に及んでいる。
三、特殊神事
古くから当社と浅間大社との間には春秋二季に山宮神事と称する極めて神秘的な行事が伝承されてきた。この神事は里宮である大宮の浅間大社の大祭礼の行われる4月と11月の初申日の前日である未日に行われた。當日未刻(午後2時)大宮司以下神職等が神霊の宿る御鉾を奉じ行列も整えて山宮に詣で深更まで諸祭儀を厳修し、夜籠屋に参龍する。翌朝丑の刻(午前2時)神霊の宿った御鉾は木之行事という役職の左肩にかつがれ行列を整えて山を降りる。
還幸の道中は深夜でも一切燈火を用いなかったという。大宮の浅間大社に着御された御鉾は本殿内陣に鎮め奉り神事は終るのである。 かくして申の刻(午後4時)から浅間大社の大祭礼が奉幣使を迎えて盛大に執り行われるのが慣例であった。因に浅間大社の大祭礼に当たり神鉾が山宮に御神幸されるのは元の宮の神霊即ち富士の大神が永久に御安泰に鎮まりますように祈念するものであり、里宮の大祭礼は春秋四季に農耕の安全を祈願し豊作を感謝するための神事であったと考えられる。
四、御例祭日 10月19日

社頭掲示板



山宮浅間神社

富士山世界遺産構成資産(平成25年6月登録) 山宮浅間神社は、『信仰の対象』としての富士山の顕著な普遍的価値を証明する上で不可欠の構成資産である。
富士山本宮浅間大社の社伝によれば、山宮浅間神社は富士山本宮浅間大社の前身であるとされている。
山宮浅間神社では、本殿に相当する建築が参道の終端付近に存在せず、富士山の方向に展望の軸を合わせた位置に祭壇又は石列の区画から成る遥拝所を設けるなど、独特の境内の地割が見られる。
このような地割は、富士山に対する遥拝を主軸とする古式の祭祀の在り方を示しているものと推定されている。
また、遥拝所の位置は、約2,000年前の溶岩流の末端部に当たり、植生の回復が遅かったものと考えられる。
そこは、社叢に覆われた参道より約10mも高く溶岩流が露出する地形となっており、富士山に対する眺望も良好であったことから、遥拝を祭祀の主軸とする山宮浅間神社の適地とみなされたものと考えられている。
社伝によると、山宮浅間神社が現在の地に設けられたのは古く日本神話の時代であったとするが、その正確な年代は不詳である。
境内における発掘調査の成果によると、神事に使用されたものと推定される12〜15世紀の土器が複数片出土しているほか、歴史資料によると1551年には神社の存在したことが確認できる。
また、1577年の『冨士大宮御神事帳』にも山宮浅間神社に関する記述が見られ、遅くとも16世紀後半までには、富士山本宮浅間大社と山宮浅間神社との間において、「山宮御神幸」と呼ぶ浅間大神の渡御に係る儀式が始められていたものと考えられている。
この儀式は、毎年4月及び11月に、浅間大神の宿った鉾を持つ富士山本宮浅間大社の神職らが、富士山本宮浅間大社と山宮浅間神社との間を往復する神事であった。
富士山本宮浅間大社及び山宮浅間神社の境内には、そのような神事に際して浅間大神を休めるために鉾を立てた「鉾立石」と呼ばれる基礎の石が計3基残されている。
また、神職らの着席位置を示す遥拝所の石列、境内唯一の建築物である籠屋も、かつての神事において重要な役割を果たした施設である。
この神事は1874年まで継続的に行われていたが、現在では行われていない。
なお、「山宮御神幸」に使用された行路を「御神幸道」と呼び、その沿道には1691年に距離を表示するための一群の石碑が建立された。
現在、「御神幸道」の全体の正確な行路については明確でないが、出発点である富士山本宮浅間大社境内に残された御神幸道の首標以外に、沿道に当たる4箇所に石碑が残されている。

富士の国やまなし観光ネット 山梨県公式観光情報



山宮浅間神社

美しい富士山も、ある時期突如として大爆発を起こし、人々の生命財産を奪う恐ろしい山であつた。その火を噴く不思議な力を人々は畏敬し、山そのものを御神体として祀り、噴火の度に富士山を拝み、朝廷でも山の神の位を上げ、使いを派遣して富士を拝ませた。その冨士山を拝んだ場所が浅間神社だと考えられている。
山宮浅間神社には本殿がなく、いつのころか、この神社に神様を祀る本殿を建てたいと村人が本殿造りに取りかかった。しかし、上棟式までこぎつけたとき、大風が起こつて吹き倒されてしまった。こうしたことが何度か起こり、「山宮浅間神社に本殿を造ろうとすると、風の神の祟りがあるので本殿を造つてはいけない」というようになった。
こうした伝承に託して、昔の人々が古い信仰の形を今に伝えてきたのである。
富士宮市教育委員会

社頭掲示板






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