皇足穂命神社(飯縄神社)
すめたるほみことじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】白玉足穗命神社 信濃国 水内郡鎮座
          (奥宮)皇足穂命神社(奥宮)

   【現社名】皇足穂命神社
   【住所】長野県長野市大字富田 353
       北緯36度40分50秒,東経138度10分7秒
   【祭神】保食命
   【例祭】10月8日 例祭
   【社格】旧郷社
   【由緒】白鳳2年奥社勧請
       天福元年伊藤忠縄山頂に幣座を設ける
       元亀天正の頃武田氏上杉氏の社領数十貫文
       明治4年改称
       明治6年4月郷社
       大正7年9月23日神饌幣帛料供進指定

   【関係氏族】
   【鎮座地】白鳳2年奥社勧請
        元亀年間(1570〜1573)武田信玄が里宮を創建したという

   【祭祀対象】飯綱山
   【祭祀】江戸時代は「飯縄大権現」「飯縄大明神」と称していた
   【公式HP】 皇足穂命神社
   【社殿】本殿
       拝殿・社務所

   【境内社】

飯綱山の南麓に位し、標高約800mの傾斜地にある。
奥宮はそれより更に約10kmの飯綱山頂に鎭座。
鎭座地・祭神に変遷はなく、飯綱山をその神体としている。
飯綱山預には食べられる砂、つまり飯砂を産するので、飯砂山から飯綱山とよぶようになつた。この食べられる砂は現存し、地元民は天狗の姿飯とか信玄の隠し味噌などとも呼ぶ一種の菌類である。
仏教との習合はきわめて顯著で、飯縄信仰の中心地である。
天正8年(1580)には武田勝頼が朱印状をもって造営と遷宮を行い、代々の神官・千日大夫(せんにちだゆう、たゆう。太夫とも書く)の冬季居所になったという。


飯縄神社里宮

飯縄神社は、西歴270年頃、第十五代応神天皇の御代、飯綱山頂に天神大戸道尊を祭り、飯綱大明神と称したのがそもそもの起こりで、仏教伝来の後、本地を大日如来とし、嘉祥元年(848年 平安時代)、学問行者が飯縄山に入山して、この如来の尊容を拝したといわれている。
天福元年(1233年 鎌倉時代)に、信濃国萩野(信州新町)の地頭、伊藤兵部太夫豊前守忠綱が、飯縄大明神のお告げにより入山し、山頂に飯縄大権現を勧請した。忠綱の子、盛綱も父に従い入山し、茶枳尼天の法を取得、父よりは飯縄の法(管狐(くだきつね)を使う独特の法術)を受継ぎ、飯縄原始忍法を確立、自ら「千日大夫」と称し、飯縄信仰を全国に広めると共に忍法の祖となった。また、武門の尊崇を受け、特に足利三代将軍義満は、紫金仏の地蔵菩薩像を飯縄山本地仏として寄進し、室町時代末期には、武田・上杉両家の深い尊信を受け、神領を寄進され、徳川三代将軍家光も朱印地百石を寄進するなど、飯縄信仰は全国的に伝播、万余の末社を有し、全盛を誇った。この里宮は、千日太夫の冬季居所に武田信玄が創建したものといわれる。
飯縄山は山頂より食べられる砂(飯砂)を産し、山麓の行者等は、これを採って食べたことから飯砂山、転じて飯縄山と言い、これは保食神(皇足穂命)の霊徳として、明治6年(1873年)、長野県庁より皇足穂の神社の社号を与えられた。
長野市観光課

社頭掲示板



皇足穂命神社

天然記念物
皇足穂命神社の大杉
長野市指定文化財
昭和47年3月1日指定
杉は日本特産の樹木で、我が国でもっとも大きく、また、高く育つ木でもある。
その名は、幹かまっすぐに立つ木という意味で、直木(すぎ)がその語源だろうとされている。
人家の近くや川の流域、山地帯などに林業樹種として、普通に植林される。長寿で大木になるので、古くから神社や寺の境内にも植えられた。
古人が森林を切り開いて人里をつくるとき、高い大きな木は神の目じるしとなって、そこに神が宿ると孝え、それを残して御神木とし、そのあとで社を建てて、神域ができたことが多いと考えられている。
指定木は樹高約30m、日通り周囲4.8mで、ここの社叢中最大の木であり、市内のほかの社叢の中でも杉としてはまれに見る巨木である。
高さ8mぼどの部分にキツツキの穴があるほかは損傷がなく、樹勢も盛んで姿もよい。また、社殿に近く、御神木してふさわしい位置でもある。
この神社の社叢の高木には、過去40年間に三回の落雷があり、そのつど1本ずつ損傷を受けたが、この大杉にはいままで落雪がなかったのば幸いである。
平成10年3月31日
長野市教育委員会

社頭掲示板



飯縄山里宮

飯縄山里宮は、明治4年(1871)皇足穂命(すめたりほのみこと)神社と改称した(旧郷社)。奥社は飯縄山頂にある。里宮は長野市芋井荒安(いもいあらやす)の飯縄明神の別当(神主)、仁科(にしな)氏屋敷跡にある。
明治9年(1876)、県に提出した芋井村の上申書に「飯砂山は保食神(うけもちのかみ)の降跡にて、一山全体をもって神明と崇め奉り、水内郡萩野(はぎの)城伊藤豊前守忠縄(いとうぶぜんのかみただつな、忠綱との説もある)、飯縄明神の告げにより天福元年(1233)山頂に幣座(へいざ)を構え、断食して奉仕につとめ、遂に神通自在を会得して、応永7年(1400)卒す。その子次郎盛縄、長寿して奇験あり」と記している。荻野城の麓にある中条村大久保の飯縄神社は、忠縄が飯縄の法を修めた発祥の地という。
信玄は、弘治3年(1557)2月に葛山を攻略し、飯縄山一帯を勢力圏にした。3月28日、信玄は「飯縄山のこと、父豊前守のごとく、相違あるべからず候。しからば、武運長久の祈念、怠るべからず候」と千日大夫に安堵状を与えている。このように飯縄明神社の別当は、千日大夫を襲名した。その後、天正6年(1578)、武田勝頼は千日大夫の養孫に「仁科甚十郎」の名を与えている。これ以後、飯縄明神社の別当は、仁科甚十郎を襲名したが、この名はまだ定着しなかったらしく、武田家滅亡の後、川中島は上杉景勝領となり、国人領主は帰郷した。天正12年(1589)、芋川親正(いもかわ・ちかまさ)は千日大夫に、小島田の内、飯縄領を前々のように寄進している。芋川氏は広田氏の宗家で、飯綱町芋川に移り、芋川氏を継承した。

岡澤由往



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