皇足穂命神社
すめたるほみことじんじゃ


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【由緒】

飯縄神社 由緒
当神社は、西暦270年頃第15代応神天皇の御代飯縄山山頂に天神大戸道尊を祀り、飯縄大明神と称したのがそもそもの起こりで、本地を大日如来とし848年学問行者が飯縄山に入山して、この如来の尊容を拝したと言われる。
 西暦1233年に信濃国荻野(信州新町)の地頭伊藤兵部太夫豊前守忠綱が、飯縄大明神のお告げにより入山し、山頂に飯縄大権現を勧請した。忠綱の子、盛綱も父に従い入山し、荼枳尼天の法を修得、父より飯縄の法(管狐を使う独特の法術)を受継ぎ、飯縄原始忍法を確立、自ら「千日太夫」と称し、飯縄信仰を全国に広げると共に忍法の祖となった。
又、武門の尊崇を受け、特に足利三代将軍義満は、紫金仏の地蔵菩薩像を飯縄山本地仏として寄進し、室町時代末期には武田・上杉両家の深い尊信を受け 神領を寄進され、徳川三代将軍家光も朱印地百石を寄進するなど、飯縄信仰は全国的に伝播、万余の末 社を有し、全盛を誇った。この里宮は、千日太夫の冬季居所に武田信玄が創建したものといわれる。
 飯縄山は山頂より食べられる砂(飯砂)を産し、参籠の行者等は、これを採って食べたことから飯砂山、転じて飯縄山と言い、これは保食神(皇足穂命)の霊徳として、明治6年長野県庁より皇足穂命神社の称号を与えられた。
中世の飯縄神社
 当神社は早くから修験道と関係をもち、「阿娑縛抄諸寺略記」の戸隠寺の条には、学問行者が戸隠山を開くに先立って飯縄に登り祈念を行ったことを記されています。また戸隠神杜の古縁起「戸隠山顕光寺流記」(戸隠神社文書)にも嘉祥3年(850)3月に、学問行者が初めて飯縄山に登り諸神の加護を請うたことを述べております。戸隠山と販縄山の修験の結付きは、既に平安時代にあったようです。また同記によれば、鎌倉時代に至って、戸隠の支配を離れて戸瞬修験とは別に飯縄大明神をもって「天狗」と唱え、いわゆる飯縄修験すなわち飯縄修法(飯縄の法)を行っていたことがわかります。飯縄の法を行う修験者は飯縄使とも云われていました。 飯縄の法は、飯縄大明神が変幻自在の天狗となって、あるいは六地蔵と現じて国土を回り、衆生を助け魔界をなくそうとすることを本旨とするものであったようです。またこの秘法には、その第一に「弓箭刀杖難来時、飯縄大明神八天狗奉祭可遁其難」とあるのをはじめ、戦勝の祈顛、赦滅の祈順、病患を除き寿命を延ぷるの秘法、一三ヵ条が口伝として列記されております。室町時代からその修法が広く信奉され、武将にもいたっていたことが知られています。『飯縄大明神の本地仏である銅造地蔵菩薩半廟坐像(飯縄神社旧蔵現在公明院蔵)』の背銘には、足利義満が幼児期成長がはかばかしくなかったが、飯縄大明神の加護によって任全無病の身になり、応安元年(1368)征夷大将軍に補任された御礼として、翌2年8月22日生誕に延命地蔵菩薩を千日大夫に寄進した』と記されています。
千日大夫の支配
 飯縄大明神は代々千日大夫と通称した修験者によって奉仕されていました。戦国争乱中の武将からも厚く信仰され、弘治3年(1557)芋井の葛山城(長野市)を攻略した武田晴信(信玄)は、飯縄大明神の神官千日大夫に対し安堵状を与え、武田家の武運長久を祈らせました。また功績によって、元亀元年(1570)には、芋井を中心に沢山の所領を寄進しております。また伝承では元亀頃飯縄神社里宮を荒安村に造営したといわれています。
 天正8年(1580)閏3月、武田勝頼は千日大夫あての朱印状(同文書)をもって、里宮の造営と遷宮を行っております。このようにして飯縄大明神の里宮が荒安村にでき、千日大夫もまた居を据え、門前百姓も定まりました。同10年武田氏滅亡後この地を領有した上杉景勝は、同年11月20日、飯縄大明神の旧領を改めて寄進しました。この間飯縄神領を含めこの地方の支配者は転々と代わりましたが、慶長9年(1604)7月21日、暮府は飯縄大明神に、荒安村の壱百石を社領として寄付しました。慶安2年(1649)松代城主真田信之から幕府へ朱印下付を申請し、同年8月17日、徳川家光から改めて一〇〇石の社領が寄付された等のことを経て、飯縄大明神の支配関係は一応安定を見せておりました。
 (「上杉景勝寄進状」同文・)。(「徳川幕府朱印状案」卿朱印写)(「大久保長安判物案」同文)
近世の飯縄と戸隠神領の境界争い
 江戸時代は、飯縄山頂をめぐる戸隠神領との境界争いが繰り返され、千日太夫仁科氏もその争いに明け暮れの毎日であったためか、修験者としての活動は無く、「神道無念流」が此の地で起こったという以外には、余り話題になる事柄や記録を遺しておりません。戸隠との境界争いが続く中で、寛文11年(1671)裁判では、飯縄山頂は戸隠神領とされました。 (戸隠衆徒共有文書)。しかし天保13年(1842)の幕府の裁許状では、判決は逆転し、飯縄山は干日大夫仁科甚十郎の支配となりました。(戸隠衆徒共有文書)。この判決を不満とした戸隠神領側は寺社奉行に訴え出ました。弘化3年(1846)両者の間の示談を経て、昭和の時代までこの争いは続きましたが、結局戸隠側の敗北に終わりました。
明治以後の飯縄神社
明治維新の神仏分離・修験禁止令により社領百石も召しあげられ、神主仁科氏も、此の地を離れました。明治6年5月社格制度制定で、飯縄神社は皇足穂命神社となり、郷社に列せられました。郷社の神社運営は、崇敬者と氏子が中心で行われる事になっておりましたので、従来の門前百姓を含めた氏子と芋井村が行っておりました。戦後の国家神道解体により、現在は神社庁管下の神社神道の神社として、所在地の荒安地区の氏子と全国に散らばる崇敬者によって運営されております。(参考 平凡社 長野県の地名)

公式HP








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