麻賀多神社
まかたじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】麻賀多神社 下総国 印播郡鎮座
          (奥宮)麻賀多神社(奥宮)

   【現社名】麻賀多神社
   【住所】千葉県成田市台方1
       北緯35度46分15秒,東経140度16分35秒
   【祭神】稚産靈命
   【例祭】7月31日
   【社格】旧郷社
   【由緒】応神朝伊都許利命奉齋
       推古天皇16年(608)現在地に奉遷
       萬寿3年(1026)千葉介忠常社殿を造営
       乾元2年(1302)神主藤原家清『麻賀多大明神縁起』を記す
       明治5年郷社

   【関係氏族】印波国造
   【鎮座地】移転の記録はない

   【祭祀対象】
   【祭祀】
   【公式HP】 麻賀多神社
   【社殿】本殿
       拝殿・幣殿・社務所

   【境内社】天之日津久神社・馬来田郎女神社・幸靈神社・青麻神社
       猿田彦神社・國之宮造神社・天神宮社・・祓戸神社・道祖神社

   【別当】藥師寺、今なし
   【境内図】 境内図

「マカタ」は「真潟」であり、昔は、当社付近まで潟が迫つていたのであろう。
台方も「台潟」の意で、台地下の潟に沿つたところ(潟に臨んだ台地)ということであろう。
応神天皇朝に伊都許利命、印波国造としてこの地に麻賀多神を奉齋したのに起るという。
当社はまず奥宮に祭られ、のち台方に前宮ができたのであろう。


由緒

麻賀多神社は、今より約1850余年前、人皇第12代景行天皇42年6月晦日に、皇子日本建尊が、国内鎮撫、国土開発、五穀豊穣、の御指導の為、水路利根川、印旛沼を経て当地に御上陸なされ、近くの住民を集めて大きな杉の幹に御鏡を懸け「インバノクニタマオキツカガミと崇め祀れば五穀自ら豊穣する」とのたまわれ、この鏡を祭祀することを教えられた尊はこのとき、はるかに伊勢の大神を遥拝せられ前記の緒願を祈念遊ばされ、当地方開発の基礎を築かれこの偉大な御功績を残されたのが当社の創始である。
その後約三百年、人皇第15代応神天皇20年現在の成田市船形手黒の地に印旛国造伊都許利命(神武天皇の皇子神八井耳命八世の孫)によって初めて社殿が創立せられ、その御鏡を御霊代としてワカヒルメノミコトを鎮祭されて以来、霊光が四方に輝き益々五穀豊穣し、住民の暮らしが更に豊かになり、泰平の世が続いた。又伊都許利命は、ワカヒルメノミコトの御神命によっておお杉の下より七つの玉を掘出しそれらを御霊代として、オキツミヤにワカムスビノミコトを併祀せられてより、一層当地方の五穀は豊かに稔り、永く明るい楽土が築かれ、子々孫々その思恵に浴し今日に至った。
ワカヒルメノミコト、稚産霊命をマガタマの大神と崇められ、七つの玉(勾玉)から麻賀多と幾度か改称せられたるも、御神威は古くより輝き渡っている。なお応神天皇27年に至って伊都許利命の御子浦長多津命が病で臥せられた際、父命は、真賀多真大神の御神命によって、マガタマの二柱の大神と共に病気平癒の祈祷をなされた結果御子の病は奇跡的に神癒される等、古くより家内安全、病気平癒の守護神としての御神徳も顕彰され伝承されている。更に人皇第23代推古天皇16年に、伊都許利命第八世の孫広鋤手黒彦命に再び御神命があり、現在の成田市台方に「真賀多真の大神」としてオキツミヤよりワカヒルメノミコトを遷宮され、この御社を大宮殿と尊称する。その後、人皇第60代醍醐天皇延喜18年、延喜式神名帳に登載の際、御社名が三種の神器と同称なるを「真賀多大神」と改称され、更に麻の名産地に因み真を麻に替え現在の麻賀多神社と改称された。
一方オキツミヤは、天水の神とし、大宮殿は五穀の神として、両社産業発展への御神威を発揚され、五穀の豊穣に関係が深いので、この地方住民の崇敬が特に篤く、千葉家を始め佐倉藩主等によって数回にわたって御社殿が造営せられ、一千数百年の永きにわたって社名が輝きわたっている。現在当印旛沼の当方台地に当社を祖社とする麻賀多神社が十八社祀られて居ることからも当社に対する崇敬が如何に篤かったかが推察される。
現在台方大宮殿には、筒粥祭、御田植祭、豊年神楽祭の特殊神事を始め、麻賀多神社にまつわる古事が継承されるほか、御縁起中の緒地名等(七台、七坂、七井戸、七干場、七兎田、七人百姓)が当社近くに残っている又当社の御本殿は特別建造物とし、御神木の大杉(周囲8m樹齢約1000年)は、千葉県指定自然記念樹として住古を物語っている。尚オキツミヤは1800余年の創祀時より、天然水を恵む御神徳を顕現せられたが、現在当社近く千葉県水道局成田給水場が建造されて、成田空港、成田ニュータウン等に給水して、我が国を訪れる全世界の人々にまで使用される事はまことに奇しき縁である。かくて当麻賀多神社の御神威は創祀以来数々の由緒と御縁起が輝きわたるとともに、新時代に添うてあまねく光被される。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年




麻賀多神社

その昔日本武尊東征の折 この地方の五穀の実りが悪いのを知り 里人を集め大木の虚に鏡を掛け その根本に七つの玉を埋めて伊勢神宮に祈願いたしましたところ その後は豊年がつゞきました。
又三世紀の頃 印旛国造伊都許利命は この御鏡を霊代として祀られる 稚日霊命の霊示をうけ 玉を堀り御霊代として 稚産霊命(伊勢外宮の親神)を祀り 麻賀真の大神と崇め 八代神津の両郷を神領として奉斎しました。
その後推古天皇16年(608年)新に宮居をこの地に建て 麻賀多の大宮となづけました。
 本地御鎮座以来1360余年 印旛郡下十八麻賀多の総社として 筒粥祭 御田植祭 豊年神楽などの古い儀式が継承され御祭神にゆかりのある古い地名等も現存しています 又明治5年に郷社に 昭和10年御神本大杉は 県の天然記念樹に 更に近年 御本殿は市の文化財に 神域は史跡に撰ばれ 産業 開運 長寿 厄除けの守護神として崇められていることはよく知られています。
 こゝに伊勢神宮御遷宮記念の当社改修を機に 本碑を奉献して神徳のいよいよ万民に 光被されんことを祈る次第です。

社頭石碑



麻賀多神社

御祭神 和久産巣日神
(稚産霊命) (伊勢外宮豊受大神の親神)
(伊勢内宮天照大神 妹神)
(香取神宮経津主大神 弟神)
神代のその昔、日本の国が豊葦原の瑞穂の国と稱された時代がありました。当時の神でいわば我が国の初めのころの神とも云へましょう天照大神の妹神になります産業を司どる神として生まれました。此の地方は二千年の昔から麻の産地で麻縣とも云われた時代がありました。当時麻は織物類の原料として貴重なものでありました。朝廷の身に着ける衣はこの土地から献上されていたとのことです。其のため神様の御紋は特別に麻の葉になったと云うことであります。昭和の今日でも初着には麻の葉の「がら」又婚礼・棟上・地鎮祭等お祝ひにはかならず麻を用いるのは此の神様の象徴で二千年の昔から現在まで、づっと続いて居ります。
今から1700年余前(応神天皇)のころ伊都許利命が印旛の国造(地方長官)に任命され、この地方の開発につくされました時に夢の中で洞木の下の地中に玉(勾玉)あり掘り出して和久産巣日の神を祭れとのお告があり勾玉を掘り出して御鏡と共に霊代として併せて祭り麻賀多の大神として崇め奉りました。
このお社は国幣社で勅使の往来があり印旛湖畔に建つ大鳥居(一の鳥居)は約1200年前(桓武天皇)のころ勅使大伴家持の寄進によるものとされて居ります。この地方には古くから人が住み周囲が海であったことから昔この地方を神津(神のミナト)といわれておりました。現在の本殿(大宮殿)は元禄9年の再建にて神楽と共に市文化財になって居ります。
麻賀多神社

社頭掲示板



大杉

今から1370年前(聖徳太子時代)現在の地稷山に新たに宮殿を建て麻賀多大宮殿と称された、此の大杉は其の当時に植えられたもので太さ8m高さ40m余りで其のお姿は誠に威容其のものであります正に日本一と云われる此の大杉(御神木)は遠い遠い昔の日本の歴史を秘めた此の年輪の雄大さは千古不動の御神威と御神徳が示されて居ります。
今日では特に不老長寿祈願の御神木として崇拝され昔から多くの祈願が行われ大願成就前には梢より霊光が輝き神のお告げがあると云い伝えられて居ります。
麻賀多神社
千葉県

社頭掲示板



麻賀多神社

成田市指定文化財 麻賀多神社
麻賀多神社は、平安時代に編集された「延喜式」の神名帳に記載されている由緒ある神社で、船形区の手黒と、ここ台方区稷山の2社あります。船形社は奥の宮で稚日霊神を、台方社は稚産霊神をお祭りしています。
成田市指定文化財 麻賀多神社本殿
現在の本殿は、「一間社」の流れ造りで、江戸時代中期頃の寛文13年(1673)に建築されたものです。とくに構造柱の斗供、木鼻、高欄の擬宝珠などに、創建時の特色がよく残っています。

社頭掲示板



麻賀多神社の森

千葉県指定 天然記念物
麻賀多神社の森
昭和52年3月8日指定
印旛沼の東方約1Kmに位置する標高30mの台地上に発達した社叢です。
この社叢は大別すると、スギ林、スダジイ林、ヒノキ林、カシ林とからなります。
県指定天然記念物公津の大杉は、目通り幹回り10m。そのほか、樹高28mもある杉をはじめ、アカガシ、ケヤキ、アカマツ、ヒノキ、スダジイの巨木が林立し、自然休の様相を呈しています。
小面積でありますが、北総地域に残された本県を代表する社叢といえます。
昭和53年11月3日
千葉県教育委員会
成田市教育委員会
麻賀多神社

社頭掲示板



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