麻賀多神社
まかたじんじゃ


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【由緒】

当社は古く「延喜式」に名を止める由緒ある神社。大神紀、印旛国造伊都許利命が神託を受け、地中より珠を得て御鏡と共に霊代として公津郷手黒の地に祀り、推古の御代、現在の稷山の地に寓居を定め麻賀多大宮殿と号した。現本殿は元禄10年、拝殿は宝永5年の再建。桓武治世には大伴家持卿が勅使として参拝、印旛沼畔に大鳥居を建て寄進し、以後61年毎に建替え現在に至っている。また本殿裏の御神木は樹齢1300年と称せられ、幹廻り10mの大杉。昭和10年千葉県天然記念物に指定される。

千葉県神社名鑑



【由緒】

●台方にあり祭神を稚産霊神となす。応神帝の朝印波国造伊都許利命の齋祀せる所なりという延喜式内神社の1つ。(中略)印旛沼畔に一大華表あり延歴2年9月勅使大伴家持卿始めて建立せる所なりと云う。爾来61年毎に建替を定例とする又郡内の一勝地なり。●延喜式印旛郡字稷山鎮座創祀伝聞に云う、当地方は遠く橿原朝阿波の忌部の開拓に係わり、地味麻に適し黄麻生産之を朝献するを以て地名を麻縣と云う。当区には今に麻野と云う旧名を残し是は往時の麻播殖の地なり。人民群居一都村に化し、人民等穀食の神を祭り地名を以て麻賀多(フサガタ)神社と称す。麻紡績織事業の発展日進の隆昌に向いしも、中頃衰微し神社もまた敗退に属するに至り茲(ココ)に賀朝(志賀高穴穂宮=景行・成務天皇?)縣主の再興に係わりし所の神社たり。爾来縣主の祭祀するところたり。難波長柄豊前(碕カ)朝(孝徳天皇)の改新以来官幣勅使の奉幣あり後、国幣を以て国司の祭るところとなり、往時七氏の神官五畑の下社家等(共に神領を食む)あり諸祭を弁じ来たりしも、天正度神領没収以来神官等自然に解任の止む無き不幸に陥落し遂に帰農して民間に投ずるに至り(今公津の七軒百姓と云う者是なり)是を以て寺院の神勤とする所となれり(中略)明治5年10月佐倉藩士門脇氏当社の神官となり(中略)因に云う当区には七氏七霊七井七坂七免田(当社祭田)七干場(祭田稲干場)七塚等総てで四十九個、往古より之を公津の七不思議と云う。●神名帳考に云う、麻賀多神社は姓氏録の豊城入彦命六世孫下毛野君奈良弟真若君あり麻賀多者真若田なるか云々。●姓氏録左京神別上、真神田曾彌連饒速日命六世孫伊香我色乎命男気津別命之後也。大和国神別、真神田首伊香我色乎命後也。●栗田寛(幕末明治期の国学者)云う、旧事紀の天孫本紀に伊香色雄四世孫に物部印葉連公と云いありて真神田氏と同祖なれば麻賀多の神の印旛郡に座するに由縁あるか匝瑳連祖なる小事連も伊香色雄五世孫にて匝瑳郡を建てしは下総は元物部氏に由縁ある国なるべし。

印旛郡誌



【由緒】

御祭神
古事記・日本書紀には、日本の国造りの神で、五穀の神様であり、産業を司る神として記されています。(古事記では和久産巣日神と記されています) また、この神社の社紋は麻の葉をデザインされており、最近まで赤ちゃんの産衣(うぶぎ)に麻の葉を入れて健やかなる成長を祈願しており、お子様の守り神でも在らせられます。
伊勢神宮の内宮(天照大神)の姉神で、外宮(豊受大神)は子神と記されており、香取神宮の御祭神(経津主命フツヌシノミコト)と鹿島神宮の御祭神(武甕槌命タケミカヅチノミコト)は弟神であります。
御由来
今から千七百年余前、印旛国造(当時の大和朝廷の地方長官)であった伊都許利命(イツコリノミコト)が、現在の地に麻賀多神社大神として崇め、以降近隣の麻賀多十八社の本宮として、また地元の鎮守様として広く皆様から崇敬されてまいりました。
なお、平安時代中期に制定された国家の法制書である「延喜式」神名帳には、国幣社・麻賀多神社と記されている延喜式内社であります。往時勅使として大伴家持(おおとものやかもち)も参拝されております。この由緒ある神社の境内の神秘さは多くの参拝者の感動を誘っております。
また、本社(台方社)の北方1kmのところに奥宮(船形社)があり、伊津許利命の噴墓があります。また当社の西方1kmの印旛沼湖畔の鳥居河岸というところには大伴家持が寄進したという大鳥居(一の鳥居)が建っています。

公式HP






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