麻賀多神社(奥宮)
まかたじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】麻賀多神社 下総国 印播郡鎮座
          (本宮)麻賀多神社
   【現社名】麻賀多神社(奥宮)

   【住所】千葉県成田市船形834
       北緯35度46分48秒,東経140度16分40秒
   【祭神】稚日霊命
   【例祭】
   【社格】
   【由緒】応神朝伊都許利命この地に奉齋
       推古天皇16年(608)現在地(台方)に奉遷

   【関係氏族】
   【鎮座地】この地を当初鎮座の地とする
        推古天皇16年(608)現在地(台方)に奉遷

   【祭祀対象】氏祖
   【祭祀】
   【社殿】本殿
       
拝殿
   【境内社】

境内入り口の右に古墳(円墳)がある。
当社はまずこの奥宮に祭られ、のち台方に前宮ができたのであろう
本殿の背後に神木の大杉がある。


由緒

麻賀多神社は、今より約1850余年前、人皇第12代景行天皇42年6月晦日に、皇子日本建尊が、国内鎮撫、国土開発、五穀豊穣、の御指導の為、水路利根川、印旛沼を経て当地に御上陸なされ、近くの住民を集めて大きな杉の幹に御鏡を懸け「インバノクニタマオキツカガミと崇め祀れば五穀自ら豊穣する」とのたまわれ、この鏡を祭祀することを教えられた尊はこのとき、はるかに伊勢の大神を遥拝せられ前記の緒願を祈念遊ばされ、当地方開発の基礎を築かれこの偉大な御功績を残されたのが当社の創始である。
その後約三百年、人皇第15代応神天皇20年現在の成田市船形手黒の地に印旛国造伊都許利命(神武天皇の皇子神八井耳命八世の孫)によって初めて社殿が創立せられ、その御鏡を御霊代としてワカヒルメノミコトを鎮祭されて以来、霊光が四方に輝き益々五穀豊穣し、住民の暮らしが更に豊かになり、泰平の世が続いた。又伊都許利命は、ワカヒルメノミコトの御神命によっておお杉の下より七つの玉を掘出しそれらを御霊代として、オキツミヤにワカムスビノミコトを併祀せられてより、一層当地方の五穀は豊かに稔り、永く明るい楽土が築かれ、子々孫々その思恵に浴し今日に至った。
ワカヒルメノミコト、稚産霊命をマガタマの大神と崇められ、七つの玉(勾玉)から麻賀多と幾度か改称せられたるも、御神威は古くより輝き渡っている。なお応神天皇27年に至って伊都許利命の御子浦長多津命が病で臥せられた際、父命は、真賀多真大神の御神命によって、マガタマの二柱の大神と共に病気平癒の祈祷をなされた結果御子の病は奇跡的に神癒される等、古くより家内安全、病気平癒の守護神としての御神徳も顕彰され伝承されている。更に人皇第23代推古天皇16年に、伊都許利命第八世の孫広鋤手黒彦命に再び御神命があり、現在の成田市台方に「真賀多真の大神」としてオキツミヤよりワカヒルメノミコトを遷宮され、この御社を大宮殿と尊称する。その後、人皇第60代醍醐天皇延喜18年、延喜式神名帳に登載の際、御社名が三種の神器と同称なるを「真賀多大神」と改称され、更に麻の名産地に因み真を麻に替え現在の麻賀多神社と改称された。
一方オキツミヤは、天水の神とし、大宮殿は五穀の神として、両社産業発展への御神威を発揚され、五穀の豊穣に関係が深いので、この地方住民の崇敬が特に篤く、千葉家を始め佐倉藩主等によって数回にわたって御社殿が造営せられ、一千数百年の永きにわたって社名が輝きわたっている。現在当印旛沼の当方台地に当社を祖社とする麻賀多神社が十八社祀られて居ることからも当社に対する崇敬が如何に篤かったかが推察される。
現在台方大宮殿には、筒粥祭、御田植祭、豊年神楽祭の特殊神事を始め、麻賀多神社にまつわる古事が継承されるほか、御縁起中の緒地名等(七台、七坂、七井戸、七干場、七兎田、七人百姓)が当社近くに残っている又当社の御本殿は特別建造物とし、御神木の大杉(周囲8m樹齢約1000年)は、千葉県指定自然記念樹として住古を物語っている。尚オキツミヤは1800余年の創祀時より、天然水を恵む御神徳を顕現せられたが、現在当社近く千葉県水道局成田給水場が建造されて、成田空港、成田ニュータウン等に給水して、我が国を訪れる全世界の人々にまで使用される事はまことに奇しき縁である。かくて当麻賀多神社の御神威は創祀以来数々の由緒と御縁起が輝きわたるとともに、新時代に添うてあまねく光被される。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年




伊都許利命由緒

伊都許利命は 神武天皇の皇子神八井耳命の八代目の御孫で応神天皇の命を受けて印旛國造としてこの地方を平定され産業の指導などに多くのご功績を残されています。
その昔、日本武尊ご東征の折大木の虚に鏡をかけ根本に七つの玉を埋めて伊勢神宮に祈願されました 命は「この鏡をあがめ祀れば永く豊作が続く」との教をきゝその鏡をご神体としてこの地に稚日霊命を(手里神社)祀り、その後ご霊示によって七つの玉を掘り出して稚産霊命(台方神社)を祀り、共に麻賀多眞大神として里人の崇敬を指導されてから益々豊年と楽土が続きました。
なお、佐倉藩磯部昌言氏の記す佐倉風土記を始め塚上の古建碑等によって治績が広く知られ、又明治44年大正3年の二回に亘って古墳が保存され、近年成田市の史跡に選ばれました。
御墳墓は土砂が少しけづられている様子ですが、周囲120m高さ7mの方形墳で、南の麓には広さ約5000uの岩屋と西麓には直刀金環鎧片等を納めた石棺とその出土品が現存しています
伊都許利神社々務所

社頭掲示板



式内社・麻賀多神社

式内社・麻賀多神社
 麻賀多神社は、平安時代に編修された『延喜式』の「神名帳」に記載されている由緒ある神社で、市内台方区稷山と、ここ船形区手黒の二社あります。台方神社は稚産霊神を、船形社は奥の宮で稚日霊神をお祭りしています。
伝伊都許利命墳墓
 本古墳は『先代旧事本紀』の中の「国造本紀」に見える“印波国造伊都許利命”の墳墓と伝えられています。墳丘の大きさは、東西辺約35m、南北辺約36m、高さ約5mの方形墳です。
 遺体埋納施設は、後期古墳の主体部に多く見られる凝灰質系軟質砂岩の切石積みによる横穴式石室(南側裾部)と、絹雲母片岩の板石を組み合わせた箱式石棺の二施設があります。
昭和54年3月1日
成田市教育委員会
麻賀多神社

社頭掲示板



麻賀多神社

1800余年前、日本武命が国内平定のため水路ご東征の折り、当地に上陸されて農作の不振を知り、里人を集めて大杉の幹に鏡を掛け、伊勢神宮に祈願され、「印波国タマ(草冠に鬼)瀛津鏡(オキツカガミ)」として崇め祀れば、永く豊作が続くと教えられた。応神の御世、伊都許利命によってこの地に瀛津宮(オキツミヤ)として祀られる。その後、天照稚日女社、麻賀多大明神、同大神宮と改称、産業諸願成就の神として特に千葉家の崇敬をうけた。式内社麻賀多総社。境内地は市の史蹟とされている。

千葉県神社名鑑



麻賀多神社

村社。船形村字手黒にあり。稚日霊命を祭る。人皇16代加嶋豊明天皇(*15代応神天皇代の間違いか)御代我此国ニ至りて巡り視るに土地甚(ハナハ)だ悪く穀物の成り力てまし(実りがよくない?)と思い故に老民を召して問えば「昔より穀物実らざりしを麻支向之日代天皇(纏日向代=景行天皇)の御代、小碓命、東夷を言向け平和し(古事記に記載あり)、行幸の時(中略)、大なる杉木のウロへ鏡を掛給いいて伊勢の大御神を降ろかし奉り給いて、この鏡を瀛津鏡と崇め、祭れば米麦自ずから実ると教え賜りしと伝える。(一部略)印旛国瀛津鏡と崇め奉りて大宮柱大敷立て鎮め奉りて若日霊命と称え奉る。奇々妙々なるかな、甘き雨降り甘き泉湧き出し殖した田も播し畠も益々開け実り給いは民悦びて大神を敬いき故爾天照稚日霊命教えて曰く稚年須毘之命を祭るにうろ木の下に玉あり、掘出し奉れと教え七つの玉えお取出して奉るにより麻賀多直能大神と称し奉りしかば〜。印旛国造伊都許利命か記す是れの文は神代の文字を以て記し賜いし事、書直し置くも、其の様の誤りを有るかは子孫等比べしよからん。推古天皇16年国府津台稷山に和久牟須日能命を遷し奉りて大宮殿と称し、共に麻賀多直の大神と祭りける。(中略)延喜18年延喜式の御文に記させ賜いき故、御宝の玉とを名なせるを畏みて麻賀多神社と御名を改め給いき。

印旛郡誌



古墳

この古墳は伊都許利命のお墓と伝えられます。
命は今を去る約千七百年の昔(4世紀)、印波の国造としてこの地を治められ、麻賀多神社を創建されました。
古墳は、古来、命の神霊が宿るものとして崇められ、人々の信仰を集めて参りました。現在、古墳そのものが「伊都許利神社」として神社庁に登録されています。
なお、南側(道路側)の階段から古墳の頭頂部に上がることができ、大墓標や顕彰史碑をご覧いただけます。

社頭掲示板



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