伊雑宮
いざわのみや 所在地 社名















   【延喜式神名帳】粟島坐伊射波神社 二座 (並大) 志摩国 答志郡鎮座
   【延喜式神名帳】同島坐神乎多乃御子神社 志摩国 答志郡鎮座
          (比定社)粟島坐神乎多乃御子神社 に比定する説もある


   【現社名】伊雑宮
   【住所】三重県志摩市磯部町上之郷
       北緯34度22分48秒,東経136度48分31秒
   【祭神】皇大御神御魂
       御巫清直は一座は天照大神の御魂(主神)、いま一座は伊佐波登美神=玉柱屋姫命(相殿神)とする

   【例祭】
   【社格】皇大神宮別宮 志摩国一宮
   【由緒】倭姫命が定祝

   【関係氏族】
   【鎮座地】当初よりこの地であったと思われる

   【祭祀対象】
   【祭祀】
   【公式HP】 伊雑宮
   【社殿】本殿神明造萱葺
       拝殿・社務所

   【境内社】

上之郷駅の西にある。
倭姫命は「島国」(志摩地方)を巡幸中、「伊雑方上」の葦原「千田」において、よく茂つた稲穂を「真名鶴」が咥えながら鳴いている様子を御覧になり、この「伊雑方上」に伊佐波登美神が宮を造営した。それが皇大神の「摂宮」たる「伊雑宮」であるという。
古代から神宮と密接な関係があった御贄地の中心がこの伊雑村であつたので、はやくこの地の神戸の民によつて、皇大神の御魂を鎭祭したものと思われる。
毎年6月24日に行われる、日本三大御田植祭のひとつ「伊雑宮御田植祭」(いざわのみやおたうえまつり)の舞台でもある。


伊雑宮

伊雑宮は皇大神宮の別宮のひとつであり、旧、大神の遥宮(とおのみや)とも云われ、志摩の国の大社として有名てある。
お田植まつりは磯部の人々の奉仕により毎年六月廿四日に行われていて、文化財として全国に名高い。

社頭掲示板



伊雑宮

伊雑宮は、一般には「イゾウグウ」ともよばれ、皇大神宮(内宮)の別宮であり、古くから皇大神宮の遙宮(とおのみや)と称せられています。
当宮の創立は、約2000年前の第11代垂仁天皇の御代です。皇大神宮ご鎮座の後、倭姫命(やまとひめのみこと)が御贄地(みにえどころ=皇大神宮へ奉る御供物を採る所)をお定めになるため、志摩国をご巡行の際に、伊佐波登美命(いざわとみのみこと)が奉迎して、この地に当宮を創建して、皇大御神の御魂をおまつりしたと伝えられています。
 『万葉集』に「御食(みけ)つ国、志摩の海女ならし、真熊野の小船に乗りて、沖辺漕ぐ見ゆ」とも歌われているように、志摩の国は風光麗しく、海産物に富み、古来神宮と朝廷のご料を貢進した地です。
御田植式
伊雑宮の御田植式は志摩地方第一の大祭で、「磯部の御神田」の名で、国の重要無形民俗文化財に登録されています。宮域の南に隣接するご料田で毎年6月24日(6月月次祭当日)に行われます。鎮座地磯部町の各大字(おおあざ)の人々が毎年交代して奉仕します。極めて古雅な神事で、日本三大田植祭の1つといわれています。式は午前10時から始まり、全て終わるのは午後5時をすぎます。式次第はまず奉仕員一同そろって伊雑宮に参拝、修祓(しゅはつ)を受けて御田に向います。
 その順序は先頭に、エブリ指(さし)2人、立人(たちうど)6人(以上は20歳代の青年で、菅笠(すげがさ)を戴き中形の襦袢(じゅばん)を着て、紺(こん)の股引(ももひき)に手甲(てっこう)をつけます)。その後をささら摺(すり)2人(10歳前後の少年で管笠を被り、モスリンの派手な襦袢の脚絆(きゃはん)をつけます)。次に早乙女6人(12、3歳から15、6歳の少女で、顔に白粉(おしろい)をつけ、まゆをひき、菅笠を被(かぶ)り、白装束の上に緋(ひ)の襷(たすき)をかけます)。ついで、太鼓打1人(7、8歳の童男で、かつらを被り、作り眉をして少女に扮装(ふんそう)し、御田の中では田船に乗ります)。次に笛2人、太鼓(おど)1人、、小鼓(こど)1人、謡6人(以上10人は青年男子にて素襖烏帽子(すおうえぼし)を着けます。)行列は以上の通りで、一同跣足(はだし)です。御田の西側の畦(あぜ)に長さ11mほどの太い青竹1本が杭(くい)に縛って立てられ、竹の先端に大うちわ(磯部ではゴンバウチワという)がつけられています。
 やがて立人、早乙女等が御田に下り、手を取り合い苗場を3周半し、苗取りが始まります。苗取りが終わると立人が青竹を杭から解き、3度扇(あお)いで御田の中心に向って倒すと、近郷漁村の青年たちが下帯姿になって田に入り、竹の奪い合いを行います。その争奪の有様は頗(すこぶ)る勇壮です。その竹を持ち帰って船霊(ふなだま)に祭り大漁満足、海上安全のお守りにする信仰があります。
 竹取りが終わるといよいよ御田植が始まり、1列に並んで植えながら退いて行きます。その間、謡方、鼓方、笛方、ささら方、太鼓方が調子をそろえて囃(はや)し立てます。半分を植え終わった頃、一旦休憩し、ささら方2人が田の中で舞踊をします。これを刺鳥差(さいとりさし)といいます。この間一同、若布(わかめ)の肴(さかな)で小宴を行います。さらにつづいて残りを植え終ります。そのあと一同列を整え、「踊り込み」という躍りで練りながら再び伊雑宮に進み童男の納めの仕舞で御田植式が終わります。

公式HP



伊雑宮

伊雑宮(いざわのみや) 皇大神宮別宮
天照大御神御魂(あまてらすおおみかみのみたま)
祭神は天照大御神御魂で、古くから皇大神宮の遙宮(とおのみや)と称され尊ばれている、磯部(いそべ)の大神宮さんと呼ばれ、志摩一円の漁業関係者の信仰があつく、特に漁師や海女さんは「磯守(海幸木守)」を受け、身につけて海に入るのが風習となっている。隣接する神田(約1650m2で行われる御田植祭(6月24日)は、日本三大御田植祭(伊雑宮・香取神宮・住吉大社)として有名で、国の重要無形文化財(平成2年・1990)に指定されている。宿衛屋でお札やお守りが受けられ、ご朱印もいただける。第62回神宮式年遷宮では平成26年(2014)11月28日に遷御の儀が斎行された。

神宮会館



粟嶋坐伊射波神社 二座 並大

粟嶋は阿波之萬と訓べし、伊射波は假字也、和名鈔、(郷名部)伊雑、○祭神伊佐波登美命、玉柱屋命、(世紀)〇伊雑村に坐す〇当國一宮也、(一宮記)○式四、(伊勢大神宮)伊雑宮一座、太神遥宮、在志摩國答志郡、去大神宮南八十三里、○倭姫世記云、垂仁天皇27年9月、鳥鳴声高聞弖、昼夜不止声、此異止宣弖、大幡主命舎人紀麻呂良止差使遣、令見彼鳥鳴処、罷行見波、嶋國伊雑方上葦原中有稻一基、生本波一基爾為弖、末波千穂茂也、彼稻白眞名鶴昨持廻乍鳴支、此見顯、其鳥鳴声止支、返事白久、爾時倭姫命宜久、恐志、事不問奴鳥須良、田作皇太神奉物(乎止)詔弖始給弖、彼稻伊佐波登美神乎為天、抜穂爾令抜弖、皇大神乃御前懸久真爾懸奉始支、則其稲大幡主女子乙姫爾、清酒令作、御饌奉始支、千税奉始事、因茲也、彼稲生地乎千田号支、在島国伊雑方上、其処伊佐波登美之神宮造奉、為皇太神摂宮、伊雑宮是也、云々、」又云、伊雑宮一座、天牟羅雲命裔、天日別命子玉柱屋姫命是也、形鏡坐、」御鎮座伝記云、伊雑宮一座、皇太神遥宮也、天日別命児玉柱屋姫命也、依神託崇祭之、
杷笏
文徳実録、天安元年9月壬寅、伊雑神宮内人一人、始預把笏、
当社並伊勢国渡会郡荒祭宮、瀧原宮、伊佐奈岐宮、月読営及瀧原並宮、風宮、(両社は式外也)等を太神宮別宮七処と称す、造替神宝社職等の事繁多なれば、今これを悉さず、太神宮式、儀式帳、同解、其外神宮の諸書を見るべし、

神社覈録



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