生田神社
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   【延喜式神名帳】生田神社(名神大 月次/相甞/新甞) 摂津国 八部郡鎮座
          (旧地)生田神社【旧地】

   【現社名】生田神社
   【住所】兵庫県神戸市中央区下山手通1-2-1
       北緯34度41分41秒,東経135度11分26秒
   【祭神】稚日女尊
   【例祭】4月15日 例祭
   【社格】旧官幣中社(現、別表神社)
       相嘗祭七一座の一
       臨時祭式には祈雨神祭八五座の一

   【由緒】生田神社の創祀は四世紀ごろと伝う
       大同元年(806)神封四十四戸『新抄格勅符抄』
       貞観元年(859)正月27日従四位下『三代実録』
       同年9月8日遣使奉幣
       同10年12月16日従三位
       同閏12月10日遣使奉幣、従一位
       天慶元年(877)6月14四日遣使奉幣『三代実録』
       応和3年(963)7月19日遣使奉幣『日本紀略』
       正暦5年(994)4月27日遣使奉幣『本朝世紀』『日本紀略』
       寛仁元年(1017)10月後一條天皇一代一度の幣帛・神宝を奉献『左経記』
       寿永3年(1184)の源平合戦
       延元元年(1336)の楠木正成、足利尊氏の合戦等
       昭和20年6月5日空襲で本殿以下社殿施設の大部分が炎上。
       昭和37年春日造木造朱塗の本殿並びに拝殿等が造営復興
       平成7年1月17日阪神大震災で倒壊

   【関係氏族】
   【鎮座地】元々今の新幹線新神戸駅の布引山に鎮座していた
        延暦18(799)大洪水で砂山の麓が崩潰し現地へ

   【祭祀対象】
   【祭祀】社名・祭神の変更もなく継承されてきた
   【公式HP】 生田神社
   【社殿】本殿
       拝殿・社務所

   【境内社】住吉神社・八幡神社・諏訪神社・日吉神社・市杵島神社
       稻荷神社・塞神社・雷大臣神社・人丸神社.蛭子神社・大海神社
       松尾神社・戸隠神社

   【境内図】 境内図

三宮駅の北西市街地の中に鎮座する。
社伝によると神功皇后が外征より凱旋されたとき、務古の港にて「吾は沼田長峡の国に鎮る」と神教されたことにより海上五十狭茅によって祀られたと伝えられる。
元は今の新幹線新神戸駅の布引山に鎮座していたが、砂山であり、崩れかかったので現在地に遷座したという(延暦18年(799)のこととする説あり)。
延喜式相嘗祭七一座の一であり、臨時祭式には祈雨神祭八五座の一とされ、古来より崇敬篤かった。
この地は生田の森と称され『枕草子』に「社は布留の社、生田の社、旅の社」とあるのを初めとして多くの和歌に詠まれている。
またこの生田の森は寿永3年(1184)の源平合戦、延元元年(1336)の楠木正成、足利尊氏の合戦等の際、常に陣地となり、そのために当社も戦禍に見舞われた。
延暦18年の大洪水の際、社の周囲には松の木が植えられていたが、全く洪水を防ぐ役割を果たさなかった。その故事から、今でも生田の森には1本も松の木は植えられていない。また過去には能舞台の鏡板にも杉の絵が描かれ、元旦には門松は立てず杉飾りを立てる。


由緒

御祭神・稚日女尊は、稚く瑞々しい日の女神と云う御神名である。伊勢神宮の御祭神・天照皇大神の御幼名とも申し上げ、内宮様と極めて関係深き御祭神であらせられる。
日本書紀に「稚日女尊が、清浄なる機殿で神服を織って居られた所、素盞嗚尊之を見られて、逆剥の斑駒を殿内に投げ込まれた為、稚日女尊は大いに愕き給ひ」と見えています。又、紀の神功皇后の巻に「恰度神戸敏馬の沖合にて皇后の御舟が、海中に廻って進むことが出来なかったので、務古の水門(和田岬)に還りまして占はれた所、天照大神、誨へられて我が荒魂は皇居の近くに居るべきでない。御心広田国に居らむと。葉山媛をして祭らしめられた。また稚日女尊誨へられるよう、吾は活田長峡国に居らむと、海上五十狭茅に命じて生田の地に祭らしめ。」とある。
この時に大阪・住吉大社と神戸・長田神社、西宮・広田神社を同時に祭られ、之を日本書紀では、四社鎮祭と申します。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年




生田神社

◆生田神社略記
●鎮座地 神戸市中央区下山手通1丁目2番1号
●御祭神 稚日女尊
●御由緒 御祭神 稚日女尊は、稚く瑞々しい日の女神と云う御神名である。伊勢神宮の御祭神・天照皇大神の御幼名とも申し上げ、内宮様と極めて関係深き御祭神であらせられる。
日本書紀に「稚日女尊が、清浄なる機殿で神服を織って居られた所、素盞鳴尊之を見られて、逆剥の斑駒を殿内に投げ込まれた為、稚日女尊は大いに愕き給ひ」と見えています。
又、紀の神功皇后の巻に「恰度神戸敏馬の沖合にて皇后の御舟が、海中に廻って進むことが出来なかったので、務古の水門(和田岬)に還りまして占はれた所、天照大神、誨へられて我が荒魂は皇居の近くに居るべきでない。御心広田国に居らむと。葉山媛をして祭らしめられた。また稚日女尊誨へられるよう、吾は活田長峡国に居らむと、海上五十狭茅に命じて生田の地に祭らしめ。」とある。この時に大阪・住吉神社と神戸・長田神社を同時に祭られ、之を日本書紀では、四社鎮祭と申します。御神徳は、天照皇大神と同様、和魂として極めて尊貴な神様であります。
●建造物 その主なる建特は次の通りである。
本殿・幣殿・拝殿・廻廊・神饌所・祭器所・宝物庫・神輿庫・諸庫・楼門・西門・東門・神楽殿・収蔵庫・社務所・生田神社会館・雨月亭・神泉亭・梅蔭亭・斎館・えびら会館。
●境内史蹟 主なる史跡は次の通り。
●生田森 神なびの森で月や花の名所。平安の昔から高名。
月残る生田の森に秋ふけて夜寒の衣夜半にうつなり  後鳥羽院
秋かぜに又こそとはめ津の国の生田の森の春のあけぼの  順徳院
汐なれし生田の森の桜花春の千鳥の鳴きてかよへる  上田秋成
●生田池 「生田池古歌多し」の石碑がある。
津の国の秋は生田の池水に森の梢のかげを見る哉  家衡
あはれなり生田の池のあやめ草いかなる人の根かかよひけむ  為家
●神功皇后釣竿の竹 皇后が三韓に外征の時、占のため釣をされ、鮎がかかった釣竿と伝えられている。須磨寺にもある。
●辮慶の竹 社伝によれば、武蔵坊弁慶が義経の代拝として社参の時、奉納した竹と云う。
●箙の梅 寿永三年源平合戦の時、梶原源太景季が境内に咲いている梅の一枝を箙(矢を入れる処)にさして奮戦。よって其の名あり。謡曲で「簸」の名曲あり。長門本平家物語・源平盛衰記・摂陽群談・兵庫名所記等に記載されている。昔から梅と桜の名所。
●梶原の井戸 源太景季が掬った井戸と伝う。「けふもまた生田の神の恵かやふたたび匂ふ森の梅が香」の歌がある。
●敦盛の萩 平敦盛は、深く此の萩を愛す。のち死後敦盛の遺児が父の消息を知りたく京都から生田宮に参詣。玉垣にもたれて夢に亡父に会う。謡曲・「生田敦盛」がある。
●八丁の梅 信州飯田城主・堀石見守その処より珍らしき此の梅を生田宮に寄進して、この名あり。八丁先まで匂うと云う梅。白梅である。
●年中祭典
毎月一日・十五日 月次祭主なる祭典は次の通り。
●初詣で・歳旦祭  一月一日より一月十五日まで。
歳旦祭に続き二日・日供始・翁面掛神事。三日元始祭。
●注連縄焼却神事  一月十六日
お正月の門松・しめ縄などを、お祓して焼却する神事。
●節分・豆まき神事  二月節分の日
●生田祭(春祭)=例祭・氏子奉幣祭  四月十五日
●神幸祭 四月十六日
生田神社の氏子を十二の地区に分け、毎年その内の一地区づつが奉仕当番となって氏子中を代表して祭典を奉仕する。
●干燈祭・大祓式・道饗祭 七月十五日
夏越厄除の祭である。
●夏祭・大海祭 八月三日より六日まで
末社大海神社の祭りで御祭神猿田彦大神。海上安全と海運隆昌を祈る祭。
●秋祭 九月十九日より廿二日まで
十九日・古式祭で兵庫各部より神饌伝供を奉仕する。二十日秋季大祭で氏子奉幣祭執行。二十一日・献華祭。二十二日・献茶祭。この間「薪能」等が盛大に行われる。
●煤払祭 十二月三十一日
●除夜祭・大祓式・道饗祭 十二月三十一日
七月十五日のように半年中の罪・けがれを祓い清めて、次に楼門の下で八街神を祭り、除夜祭を執行する。
●宝物並びに近代美術品主なるもの
豊臣秀頼之書 扇面墨書掛軸     壱幅
武蔵坊弁慶之書 紙本墨書掛軸    壱幅
小野道風朝臣伝の生田神社書額(篆刻) 壱面
鈴 武内宿禰公の寄進        壱個
甲胃 河原高直・その弟盛直着用伝  弐揃
兜 鉄製烏帽子形で熊谷直實の寄進伝 壱頭
掲鼓 胴木造孔雀の蒔絵 作者不明  壱個
古瓦 布目形付・平氏城門屋根瓦   壱枚
絵巻物 寛文三年和田岬神幸之図(上段)壱巻
神領地墨付 慶長十九年二月十六日付外五通

由緒書



生田神社略誌

御祭神
生田神社の御祭神は御名を稚日女尊と申し上げますが大神の御名は遠く神代の昔に顕はれてゐます。即ち日本書紀に記された伝には椎日女尊が、清浄なる機殿で神服を織って居られた所、素蓋鳴尊之を見られ、逆剰の斑駒を殿内に投げ込まれた為、椎日女尊は大いに愕き給ひ神退りました旨見えてゐます。
之に続いて史書の上に稚日女尊の現はれましますのは、神功皇后の三韓御外征の時のことであります。新羅を征せられた翌年春皇后は群臣を率いて長田の豊浦宮に移りまし、ここでさきに九州で崩ぜられた仲哀天皇の喪を発せられ、海路大和の都へ向はれた時(中略)恰度今の神戸の沖合にて皇后の御船が海中に廻旋して進むことが出来ませんでしたので務古の水門(後の武庫即ち兵庫港一帯)に還りまして之をトはれた所、天照大神、誨へられるやう、我が荒魂は皇后の近くに居るべきでない。御心広田国に居らう、と。そこで葉山媛といふ人をして、之を広田の地に察らしめられた。また稚日女尊誨へられるやう、吾は沼田長峡国に居らうと恩ふ、と。因って海上五十狭茅といふ人に命じて之を沼田即ち今の生田の地に祭らしめられました。これが本社の起りであります。さて稚日女尊の御名義はと申しますと、稚く端々しい日神たる御女神と言ふ意味の御名義であります。
生業守護の御神徳
次にその御神徳を申しますと、前にも記したやうに、稚日女尊は、神代の昔、忌機殿で御親ら機をお織り遊ばされたのでありますが、之によっても如何に深く蒼生の生業に御心を御注ぎになられたかといふことが拝察せられまして誠に畏い極みでございます。斯くて又風伯雨師を御主宰になって五穀豊穣にお導きになり、庶民の生活の安楽になる様家庭生活をお守り下さる御神徳は実に宏大なものと申すべく、之に関しては後に述べるが如き歴代天皇の奉幣祈願に依っても拝察出来るのであります。
健康長寿の御神徳
斯く大神は神代以来庶民の生業、生活の途を護り給ひ、又皇后の玉体を守り給ひしが如く、或は武内宿禰の信仰格別に篤かりきと伝へる如く健康長寿の守護神として普く古今の崇敬を集め給ひ、同様に又家運繁昌、円満和楽の御神護を仰ぎ奉らんとして神前結婚の式典を執行する向の弥々多いことも故あることであります。即ち近時、日に依っては三十組に近く、毎年八百組に上る新家庭縁結びの神としても著名の大社であります。
二 御鎮座
稚日女尊が摂津国生田の地に御鎮りになった由来は、前項御祭神の条で述べた通り、紀元861年(西暦201年)のことで、平成6年より1790余年の昔であります。序でながら、同じく神戸市の長田神社(事代主命を察る)や西宮市の広田神社(天照大神の荒魂を察る)も大阪市の住吉大社(表筒男命、中筒男命、底筒男命、息長帯姫命を祭る)も本社と同時の御鎮座であるといふことだけを書添へてをきます。
三 社号
本社は、古来生田神社と称し、又生田社とも略称して居りますが、或は又生田宮、生田大明神、生田大神宮とも称へて居つたやうであります。現在は生田神社と称するのを正式としますが、俗には生田様とも呼ばれてゐます。
四 神階、社格
奈良朝頃から神様に朝廷より位勲を授け奉ることが行はれるに至りましたが、我が生田神社の御祭神に就ては、初めて叙せられた年月は分りませんが、清和天皇の貞観元年正月27日正五位上勲八等から従四位下に叙せられ、次いで同10年12月16日従三位に昇叙せられ、翌閏12月10日には、使を遣して、従一位の位記を捧げ、幣帛を捧げしめられました。この時は、地震の余震止まぬため、之を止めて天下平安、宝祚無窮ならんことを祈願し、又去る8月風雨旱天の災ひなく、五穀豊穣ならんことをお祈りし神験いやちこであったに就て報賽せられたのであります。
次に醍醐天皇の御代になった延喜式の制には祈年の外、月次、相嘗、新嘗の案上の官幣に預り、名神、大社に列せられ、又祈雨神祭八十五座の一に班せられました。
明治5年には県社に列せられましたが、由緒の貴きに依って明治18年4月22日官幣小社に、同29年10月19日官幣中社に昇格を仰出されたのでありますが、終戦後は国家管理の手を離れ、神社も一宗教法人となったのであります。
五 崇敬
かく由緒極めて古く、神階、社格も並々ならずおはしました本社が、朝廷より厚く御崇敬を受けたことは勿論で、神領を寄せられた事に就ては、社領の項に、位階を授けられたことに就ては神階、社格の項に説きましたが、清和天皇貞観元年正月従四位下を授けられて間もなく、9月8日、風雨を祈り奉らんが為に、使を遣して幣帛を奉らしめられ、陽成天皇元慶元年6月14日には甘雨の降らんことを祈り奉らんが為に、同じく幣帛を奉らしめられ、延喜式の制では、前述の如く、祈雨神祭に預る八十五座の一に班せられました。続いて村上天皇の応和3年7月15日には、祈雨の為に伊勢以下28社へ幣帛使を遣されましたが、本社も亦之に預り、ついで冷泉天皇安和2年7月18日祈雨の為十一社に奉幣せられ、本社亦之に預りました。また一条天皇正暦5年4月27日、疫病の止まんことを祈らんが為に伊勢以下諸社に臨時に奉幣せられましたが、本社にも亦使を立てられました。更に後一条天皇寛仁元年10月には、京畿七道の諸神に対し、御即位による一代一度の幣帛神宝等を奉られましたが、本社亦之に預って居ります。
降って明治18年8月には、明治天皇西国御巡幸の砌り北条侍従を御差遣しになり、奉幣せしめられ、又同32年11月には東宮親しく御参拝奉幣の儀がありました。次いで大正5年4月、東宮武庫離宮に行啓の砌りにも、亀井侍従を御使として差遣され幣帛料を奉られ、同8年11月大正天皇陸軍大演習御統監の為武庫離宮に行幸御駐輦の際には松平侍従を御差遣の上、幣帛神饌料を御奉納になり、同11年皇后陛下九州行啓の御途次には竹尾権典待を本社に御差向けになり、幣帛神饌料を奉られました。昭和天皇に於かせられましては、昭和2年2月本殿修理に際し、畏き恩召を以て御下腸金の恩命あり、同時に秩父宮を始め皇族十三宮より金一封を御進献になり、又同4年6月には、神戸市行幸に付、侍従を御差遣の上、幣帛神饌料を御奉納になりました。終戦後、昭和21年6月14日昭和天皇関西行幸に際しては、宮司を京都大宮御所に召出され幣饌料を奉られましたが、昭和29年4月(植樹察)及同31年10月(国体)兵庫県下に行幸の際にも同様幣饌料を御奉納になりました。而して昭和34年4月11日戦災復興成った御本殿正遷座祭にも昭和天皇より幣帛神饌料、皇族各家より幣帛料の御奉納があり、昭和59年式年造替遷座祭に昭和天皇幣帛料の御奉献になりました。また、平成6年5月(植樹察)兵庫県但馬地方行幸の砌、今上陸下より幣饌料の御奉献があり、今や広く大神戸市の総氏神として崇信を寄せられつつあります。
六 社地、境内
本社の在地に就ては、前に述べました通り、当初より沼田長峡国即ち後の摂津国八部郡の地でありまして、摂津志、摂腸群談には生田宮村、摂津名所図会には三之宮村とあります。所諸生田の森の名を以て知られた幽逮の所で、前方に波静かなる茅淳の海湾を控へ、後方には、翠濃やかな武庫の山並みを昔負って居ります。そして現今では、海上に各国の巨艦浮んでその銅鑼警笛の音常に絶ゆることなく、陸上には電車、自動車の行交ひ織るが如く、四囲の商店街亦頗る殷賑を極め大神戸市の中央、中央区下山手通1丁目に位してゐるのであります。境内はいま5393坪余、飛地境内として、当社の行宮所たる、兵庫区大開通6丁目の230坪余の地があります。これは終戦後の都市計画に基き換地になったもので、それまでは同区水木通5丁目にあり、(469坪余)明治26年兵庫部氏子の買収寄進に係るもので、同31年9月飛地境内に編入せられ、翌32年4月に末社天照皇大神宮社をここに奉遷して同地一円の鎮護神とせられ、大正8年には末社稲荷神社(神使稲荷と云ふ)をも本社境内より遷座し奉りました。
序でに申しますと、当社は、往古、生田川の水上である有引の妙子山に鎮座ましましたが、某年布引の渓流が氾濫して社殿が危急に瀕しました時に生田村の刀禰七大夫と言ふ人が激流を冒して辛くも御神体を背負ひ奉り漸く現今の在地に奉遷したのであると伝へて居ります。由然るに去る昭和20年6月5日の空襲に依り脚本殿以下諸建物は申すに及ばず生田の森の古木も大半焼失いたしまして今は僅かに数本の老楠がその面影を残すに止めて居ります。
水害と松の樹の伝説
猶、先の伝説に関連して、吾が神戸市にとり最も啓示に富む御神徳物語があります。それはこの布引方面には古来松樹が最も多いのでありますが、この水害の際大神のお告げとして「そも松は水に最も弱いものである故今後境内に松の樹は忌む様に」とお誨になりました。この御神意を畏み生田神社では神殿は勿論境内樹一本にも松を一切用びず正月の門松の代りに門杉を使い只管松を御遠慮申上げて居ります。嘗て昭和13年春の大水禍神戸を襲ふや裏山一帯を被ひ尽していた松の樹の倒壊が惨禍を数倍したこともあり、大神のお誨も今更の如く思ひ合されたことで御座いました。
七 社殿 末社、裔神八杜
昔の本社の建物の模様は文献に乏しくてよく分りませんが、古い起源を有ち、延喜の頃には官社中でも清々たる御社であったのですから、当時既に相当御社頭の整備をして居った事が察せられます。然るに去る昭和26年六月の戦災に御社殿すべてが焼失いたしましたので、氏子崇敬者一同の協賛に依り復興が完成し、昭和34年4月10日本殿遷座祭が行はれました。面して現在御社殿以下境内の主たる建物は次の様であります。
1御本殿、前殿 、春日造、一七坪
 戦災にて焼失前の御本殿は、255年前即ち元文4年氏子よりの寄附金によって御再建になったもので、やはり春日造でありました。 一 拝殿、両翼廊、神撰所、祭器所 丹堊塗、72坪
  昭和34年4月全く新しい規模のもとに、御本殿と同時に再建、すべて氏子崇敬者寄進により完成致しました。
一 神符授与所 木造、銅板書 弐棟 9坪
平成御大典記念奉賛事業として
一 斉館青少年研修会館 鉄筋コンクリート造
一 神輿庫鉄筋コンクリート造二階建銅板延床面積52.3坪
一 手水舎 コンクリート造、丹堊塗、瓦葺 3坪
一 社務所鉄筋、コンクリート造、銅板蔓 延202坪
一 茶室 数寄屋造 23坪
一 大鳥居 
末社勤番所 三ケ所(稲荷社、西門)延166坪
一 えびら会館 鉄筋コンクリート道三階建 延162坪
一 生田神社会館 鉄筋コンクリート造地上四階建地下一階 延1510坪
一 楼門 コンクリート造、銅板 延17坪
尚この外に兵庫御旅所に
一 社殿 桧材、銅板葺 12坪
一 社務所木造、瓦葺 70坪
一 倉庫コンクリート造 6坪
一 手水合 本造、銅板昔 2坪
一 大鳥居 石造4基
境内末社には次の13社があります。
住吉神社 祭神 底筒男命 中筒男命 表筒男命
八幡神社 祭神 応神天皇
諏訪神社 祭神 武御名方命
日吉神社 祭神 大山咋命
稲荷神社 祭神 稲倉魂命
蛭子神社 祭神 蛭子命
市杵島神社 祭神市杵島姫命
戸隠神社 祭神 手力男命
大海神社 祭神 猿田彦命
松尾神社 祭神 大山昨命
塞神社 祭神 道反神
人丸神社 祭神 柿本人丸
雷大臣神社 祭神 雷大臣命
由紳 新撰姓氏録に「生田首、天児屋根命力世孫雷大臣命之後」と見えてゐますから、後世その裔孫の奉斎したものでせう。
又、兵庫区大開通六丁目には次の飛地境内末社があります。
天照星大神宮社 祭神 天照大御神
稲荷神社 祭神 稲倉魂神
なほ本社には、氏子区域内に古来生田裔神八社(八前とも)と称しまして、天照大神が素善鳴尊と誓約せられた時に、成りました五男三女神を、それぞれ奉斎している神社が市内に鎮祭せられて居ります。即ち次の一宮より八宮までの各神社であります。
(社名)(祭神)(鎮座地)
一宮神社 田心姫命 中央区山本通一丁目
二宮神社 天忍穂耳尊 中央区二宮町三丁目
三宮神社 岩津姫命 中央区三宮町一丁目
四宮神社 市杵嶋姫命 中央区中山手通五丁目
五宮神社 天穂日命 兵庫区平野五宮町
六宮神社 大津彦根命(八宮神社に合祀せらる)
七宮神社 沼津彦根命 兵庫区七宮町
八宮神社 熊野標樟日命 兵庫区楠町丁目
八 社領
本社の社領に就ては、御鎮座と同時に神地神戸などの定めもあったことと思はれますが、文献が欠けてゐて上古のことはよく判りません。平安時代の初め、平城天皇の大同元年806年(平成6年より1188年前)の牒によりますと、生田神の神封四十四戸と見えて居り、現今の神戸といふ地名は、実に本社の神戸のあった所より出たのであると申します
降って慶長19年1月には片桐主膳正貞隆御供米として高二石を寄進し、次いで元和6年8月21日領主田左門より黒印を以て神領地二反を寄進し、又、寛永12年11月青山大蔵少輔幸成先例に任せ田地二反を寄進したなど、爾後代々相うけて明治維新の際迄変改なかった趣が見えて居りますが一方江戸時代を通じて社領として、二百石を有して居りました。
九 祭祀
本社の祭祀の極めて古い所は判然としませんが、御鎮座以来、後に申すやうに、神主として海上氏が奉仕し、厳修せられて来たことと思はれますが、時に社運の盛衰と共に隆替したこともあったことでありませう。摂津名所図会(江戸時代、寛政10年成る)には当時の状況を次の様に記して居ます。
八部郡、生田神社、近隣二十四箇村の生土神とす。例祭7月30日、又8月20日例祭に、むかしは神輿を兵庫の津、和田の御崎まで神幸あり、其の時砂山滝之寺並びに村田、海上氏供奉す。中頃の此事納えたり、今も遺風ありて海上氏烏帽子装束にて8月20日の祭には神輿の神役を勤む。
さて本社に於て、現在執行はれる祭祀は大様次の様であります。
(名称)(種別)(執行月日)(備考)
歳且際 中際 一月一日
日供始祭   一月二日 面掛神事
元始際 中察 一月三日
蛭子神社際  一月十日 未社
氏子年顕拝  一月十一日
注連縄焼却神事 一月十六日
節分祭 立春前夜
紀元際 中祭 二月十一日
祈年際 大祭 二月十七日
初午祭 三月初午日 未社
八幡神社祭 三月十八日 未社
人丸神社祭 同日 未社
松尾神社祭 四月二日 末社
例祭 四月十五日 神幸式 四月十六日
神戸市内春祭の魁として氏子地五百余町総代世話係等数百名参列の下に厳かに執行されます。そして翌十六日には大開通の御旅所へ壮麗典雅なる神幸式(神輿渡御)が行はれ、華やかに粧ふた百数十名の稚児も供奉し、猿田彦、獅子頭、梶原源大等延々千数百名からなる行列も美しく市内一区(中央、兵庫両区)数百町に藁留亘る氏子区域をお渡りになるのであります。
臍団子
当社の例祭には鏡餅の代りに臍団子と言ふ神饌を献奉ります。この由来は詳かではありませんが、古くから行はれたものの様です。当社の御祭神は健康長寿を御守りになるといふ信仰は昔からあるのであります。一体臍といふものは、人体の中央にあって、その形の整ってゐるか否かは人の健康長寿に大きな関係を持って居り、又臍の形によってその人の性格をも判断することが出来るとさへ言はれて居るのであります。面して本社は神戸市全体の総氏神で、氏子に出生児があると、必ず本社に初詣するを例とし、若し参詣しない時は、其の児の臍が曲って成育しないとの伝説があるので、今に初宮詣するもの極めて多いのであります。かう云うやうな所から臍団子を供へるようになったのでもありませうか。
秋祭 自九月十九日 至同二十三日(五日間)
本祭は、もと二十日察とも言はれ、春の例祭と等しく神明の御恩恵に報養し、なほ将来の御加護を祈願する祭祀で、氏子各町より神飲料の奉納があり、殊に土九日には兵庫地区より(以一削は西宮内町)世話役代表数名が選ばれ早朝礼参し、引立鳥帽子に直垂を着して、神饌の献撤奉仕を助動する慣列がある。例祭に亜ぐ大祭で、其の期間境内は数百の露店と引きも切らぬ参拝者によって終日終夜立錐の余地なきまでの雑踏を極め、流石に大氏子を擁する氏神のお察だと恩はれます。

由緒書




生田神社

当社は稚く瑞々しい日の女神「稚日女尊」をお祀り申し上げ、古く神功皇后三韓よりご帰還の砌、御神徳によって「活田長狭国」即ち現今の処に御鎮斎になった由緒高い大社で神戸の地名は当社の「神戸」から起こった物であります。
古来より朝野の崇敬極めて篤く生業守護健康長寿の守護として名高く、家運隆昌円満和楽の御神徳を仰ぎ奉らんと年々歳々多くの神前結婚式を数え、「縁結びの神」として有名であります。
又、平安の昔、文人墨客が名勝「生田の森」を訪れ、その後源平合戦の古戦場となり、近くは昭和20年6月5日大東亜戦争の戦火により悉く焦土と化し、昭和34年4月氏子崇敬者の奉賛により戦災の復興を成し遂げ、更に昭和59年式年造換えの制を定め輪□の美いよいよ整いましたが、今次平成7年1月17日未明阪神淡路を襲った大震災によって御本殿を始め諸建物、境内各所に甚大な被害を受けました。然しながら関係者の不断の努力により平成8年6月震災前にもまして立派に修復が成ったのであります。
尚、境内には「生田の森」「生田の池」「簸の梅」「  」等幾多の史跡を有し、古くより今日に至るも有名なところであります。
祭日 4月15日 例祭(春祭) 神幸式
9月19日〜23日 秋祭

社頭掲示板




生田神社

大同元年(806)朝廷より生田の社に44戸の封戸が与えられた。封戸とは奉仕する人々の家をいう。その神の封戸神戸(カンベ)、中世は紺部(コンベ)と呼ばれ、近世より神戸の地名となった。
 『日本書紀』に、神功皇后が三韓を征せられ、帰途、武庫の水門(今の神戸港沖)で急に船が進まなくなり、ご神意を占った処、稚日女尊が「我は活田長峽国に居らうと思ふ」と。因って海上五十狭茅に命じて之を活田即ち今の生田の地に祀らしめた。この海上氏は代々神職としてつとめ寛政年間に及び、末裔は今も兵庫区に在住されている。
 最初の鎮座地は布引の砂山、(現在の新神戸駅北の孤丘)であった。ある時、布引の渓の大洪水で砂山のすそがえぐられ、松の木も根こそぎ流失、神守りをしていた刀禰七太夫が神霊を背負うて安住の地を求め、現在の生田の森に鎮座した。
 以来、生田の神は、松の木頼むに足らずとして、境内には一本の松もなく正月も門松の代わりに、「杉盛」と称する門杉を立てる習わしが今に伝わっている。

兵庫県神社庁



生田神社

生田神社 名神大月次相嘗新嘗
生田は以久多と訓べし、和名鈔、(郷名部)生田、(假字上の如し)○祭神雅日女命○福原荘生田宮村に在す○式二、(四時祭下)相嘗祭神七十一座、生田社一座、(坐摂津國)」同三、(臨時祭)名神祭二百八十五座、摂津國生田社一座、祈雨祭神八十五座、(並大)云々、生国社一座、
日本紀、(神代上)一書曰、稚日女尊坐于齋服殿、而織神之御服也、云々、又一書曰、日神とあれば、天照大神の別名ともいはんか、されど大神は廣田社に鎮坐せるは同神には非るか、旧事紀には、稚日姫尊者天照大御神妹也、と云ひ、古事記には、若昼女神と書て、布忍富鳥鳴海神の娶若昼女神と云ふ、』姓氏録(摂津國神別)生田首、天児屋根命十一世孫雷大臣命之後也、
類社
尾張國丹羽郡生田神社
鎮坐 祭祀
日本紀、神功皇后伐新羅之明年條に、稚日女尊誨之曰、吾欲居活田長峡國、因以悔上五十狭茅令祭、
摂津志云、裔神八前成在域外、一宮北野村、二宮菟原郡生田村、三宮神戸村、四宮花熊村、五宮平野村、七宮兵庫北濱町、六宮八宮倶坂本村、
神位
三代実録、貞観元年正月27日甲申、奉授摂津國正五位上勲八等生田神從四位下、同10年12月16日乙亥、進摂津國從四位下勲八等生田神階、加從三位、
官幣
三代實録、貞観元年9月8日庚申、摂津國生田神、遣使奉幣、為風雨祈焉、同年閏12月10日己亥、遣使於摂津國生田神社、奉幣、告文曰、云々
、(告文廣田社の下に見ゆ)元慶元年6月14日癸未、奉幣生田、祈甘雨也、
雑事
式廿一、(玄蕃)凡新羅客入朝者、給神酒、其醸酒料稲、摂津国生田、五十束、送生田社、醸生田社酒者、於敏売崎給之、(○全文大和國葛上郡高鴨神社の條見合すべし)

神社覈録



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