生田神社
いくたじんじゃ


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【遷座】

往古布引の渓流が大洪水で砂山の麓が崩潰して、生田神社が極めて危険にさらされた折、刀根七太夫なる者が馳せつけて御神躰を背負つて自分の家まで帰り、庭石の上に御神躰を据え置いたが、尚洪水の危険があるというので、再び背負つて現在の地までやつて来た時、一歩も進むことが出来なくなつて此処に鎭座したといわれている。


【公式HP】

稚日女尊
当社にお祀りする稚日女尊は、我国における最高神太陽神と崇められ伊勢神宮内宮にお祀りされる天照大神(あまてらすおおみかみ)の和魂(にぎみたま)あるいは妹神と伝えられ、稚くみずみずしい日の女神様であり、物を生み育て万物の成長を御加護する神様です。
生田神社の由来と歴史
生田神社の御創建は神功皇后(じんぐうこうごう)元年(西暦201年)と日本書紀に記されており、「『日本書紀』神功皇后条巻第9(神功皇后摂政元年2月)」に下記のように記されています。
「吾は活田長峡国(いくたながをのくに)に居らむとす」とのたまふ。
因りて海上五十狭茅(うなかみのいさち)を以て祭(いわ)はしむ。
神功皇后が海外外征の帰途、今の神戸港にてお船が進まなくなったために神占を行ったところ、稚日女尊が現れられ、「私は活田長狭国に居りたい」と申されたので、海上五十狭茅という者を神主として祀られたと伝えられます。
同じくこの時に、天照大神の荒魂(あらみたま)が西宮市の広田神社に、事代主神(ことしろぬしのかみ)が神戸市長田区の長田神社にお祀りされたと伝えられています。
生田神社と神戸、酒造り
神社、寺院の封戸について列記した平安時代の法制書である『新抄格勅符抄』(しんしょうきゃくちょくふしょう)という書物に、大同元年(西暦806年)に、神社に奉仕する封戸(ふこ)である神戸(かんべ)44戸が朝廷より与えられたと記されており、それが「かんべ」→「こんべ」→「こうべ」と変わり、現在の神戸(こうべ)という地名の語源になったといわれています。
また延喜式には、各地より集まった稲を使い、生田神社の境内で神職が酒造りをして、国賓として朝鮮半島からの要人を迎えた際に振る舞ったとあり、灘の酒造りの起源とも伝えられています。


【生田祭】

生田神社の春の例祭で、特に「生田祭」と呼びます。
催行日は、明治18年に官幣小社に列せられた際に、4月15日と定められました。
古くは和田岬に御旅所がありましたが、1774年に湊川に遷り、明治26年に新たに水木通が増えて御旅所が2箇所になり、その後湊川が廃されて水木通だけになり、戦後大開通に移りました。
現在は、神幸式の際に御旅所に行くことは無く、当番地区内に設けられた神受所で神事を行っています。各地区への巡幸と当番地区への移動は、徒歩で行うことが交通事情などにより無理なので、現在は乗用車等に分譲して移動、当番地区内の巡幸のみを徒歩で行っています。
生田神社は、現在の中央区と兵庫区のほぼ全域に及ぶ広大な氏子地を有し、その氏子地を次の12地区に分けて輪番制で生田祭の当番を勤めています。(数字は輪番順を示す)
1.宮元 2.三宮 3.東山 4.元町・栄町・海岸通 5.兵庫地方中部 6.諏訪山
7.兵庫地方南部 8.下山手 9.兵庫地方北部 10.葺合 11.岡方 12.湊





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