広田神社
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   【延喜式神名帳】広田神(名神大 月次/相甞/新甞) 摂津国 武庫郡鎮座
          (末社)伊和志豆神社

   【現社名】広田神社
   【住所】兵庫県西宮市大社町7-7
       北緯34度45分10秒,東経135度20分24秒
   【祭神】撞賢木嚴之御魂天疎向津媛命 底筒之男命 中筒之男命 上筒之男命
        誉田別命 比淘蜷_ 息長帶比売命 建御名方富大神 高皇産靈大神

   【例祭】3月16日 例祭
   【社格】官幣大社 二十二社
   【由緒】大同元年(806)広田社へ封戸四十一戸
       嘉祥3年11月従五位下『文徳実録』
       貞観元年(859)正三位
       貞観十年(868)従一位
       嘉禄元年(1135)10月火災により全焼『帝王編年記』
       享保9年(1724)西山の地(現地)に移す
       天正7年(1579)荒木村重の乱で兵災に罹る
       慶長9年(1604)豊臣秀頼により西宮(戎社)と共に改造
       明治4年(1871)5月14日官幣大社
       昭和20年8月5日西宮空襲によつて焼失

   【関係氏族】
   【鎮座地】六軒新田の上高隈ノ原に創祀
        その後何時の頃にかいまの馬場の正面の平地に鎭座
        享保9年(1724)西山の地(現地)に移す
        戦災前は高台に存したが、戦災後は社地を平地に変更して建立

   【祭祀対象】
   【祭祀】創建時より連綿と継承されている
   【公式HP】 広田神社
   【社殿】本殿神明造銅板葺
       拝殿・神饌所・神札授与與所・儀式殿・社務所・手水舎

   【境内社】伊和志豆神社・八坂神社・子安神社・春日神社・地神神社
       稲荷神社・齋殿神社・松尾神社・南宮神社・児社・名次神社・稲荷神社
       岡田神社・若宮神社・須佐之男神社・愛宕神社・武甕槌神社・風神社・塞神社

   【境内図】 境内図

神功皇后新羅より難波に帰還の時、船が進まず、務古の水門に還って卜なったところ、「我が荒魂をば皇居に近ずくべからず、まさに御心広田国に居らしむべし」との神教により、山背根子の女葉山媛をもって祭らしめたのが創祀。
焼失前の旧社地は広田山の一角東西十八間、南北十二間の御築地を設けた高台に存したが、戦災後は社地を平地に変更して建立
広田社の別宮として設けられた南宮社は、今日も昔の由緒のまにまに存して崇められているが、かつて南宮の一社であつた西宮戒社が平安後期頃から次第に庶民の崇敬を集めて有名になり、鎌倉室町期に入つて愈々隆盛となり、福神信仰と合して徳川時代を通じて全国的にその名を知られるに至つて、かつての南宮境内が、今は西宮神社(戎社)の境内となつてしまつた。


由緒

当神社の御祭神は伊勢の神宮にまします天照皇大神の荒魂をお祀り申し上げて居ります。
神功皇后三韓征討御凱旋の際御神誨により御心広田の地に国土の安泰外難の護りとして御祀りせられたのであります。御鎮座以来1790余年の間、歴朝をはじめ公家、武将、万民に至るまで崇敬の篤かったことが記されております。
往古より御脇殿には御主神に由縁深き住吉大神、八幡大神、諏訪大神、高皇産霊神を祀り古くより広田五社と称せられて居ります。
醍醐天皇延喜の制明神大社に列し、白河天皇の永保元年二十二社制度に際しては、その一社にに加えられ、明治4年5月14日官幣大社に列せられて居ります。社殿沿革に高倉天皇治承元年神祇伯仲資王が社殿を修理し装束を奉って遷宮を行ったことが日記に見えて居り慶長9年豊臣秀頼により大規模の改築が行なはれ、享保9年には徳川吉宗によって現在の地に御鎮座せられたのであります。現在の本殿は伊勢神宮荒祭宮旧社殿の譲與を受け、昭和31年竣工、昭和37年には拝殿、翼殿、翼廊等新築、昭和38年には御脇殿の新築(いずれも神明造)を見るに至っています。天照坐皇大御神は日の大神と申し上げ、玉殻の種を田畑に植え、養蚕、織物等国民生活に必要な道をお開きになりました高貴の大神であります。又中世には和歌の神として顕はれて大阪の住吉社と共に有名であります。高倉天皇承安2年には広田歌合が行なはれています。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年




広田神社略記

御祭神
天照大御神荒魂
御祭神の御名を撞賢木厳之御魂天疎向津媛命と申し奉る。 
御由緒
当神社の例祭神天照大御神の荒魂の神は、人皇第十四代仲哀天皇の御代、神功皇后三韓御征伐の砌、軍の先鋒となり、軍船を導き給ひて、奇しき霊威を示し給へる大神なり。御鎮座は神功皇后摂政元年(西暦201年)皇后御征韓後新羅より御凱旋の途、海路難波(大阪)に赴かせられんどして務古の水門(西宮付近)に至り給へる時、船海上に廻りて進まず、よって御神慮を問はせ給ひしに「吾が荒魂は皇居に近づかずして御心広田の地に在む」と、天照大御神の御神誨ありたるにより、皇后御神教を畏み奉り、葉山媛命を斎宮として、この地に国土の鎮め、外難の護りとして奉祀せられるものなり。清和天皇貞観10年、神階従一位を奉授せられ、醍醐天皇延喜の制、名神大社に列し、祈年月次相嘗新嘗及び祈雨の幣に預り、白河天皇永保元年、二十二社制定に際し、其の一社に加べられ、明治4年5月14日官幣大社に列せられたり。当神社は阪神間唯一の官幣大社にして、然も兵庫県下第一の古大社なれば、古くより神領多く、歴代天皇の御祈願、勅使の御差遺度々に及びたり。社殿の沿革は高倉天皇治承元年神祇伯仲資王は神殿を修理し御装束を奉りて、遷宮を行ひたること其の日記に見えたり、降って慶長9年豊臣秀頼によりて大規模の改築あり、後徳川吉宗により更に現今の地に奉遷改修せられたり。なお昭和31年本殿改築、昭和37年12月拝殿翼殿、翼廊新築、昭和38年4月脇殿新築完成す。当神社創建当時の社地は、現今の境内より北方に当れる丘陵なりしものゝ如く、後年に至りて参道北端の平地に奉遷したるも、御手洗川の氾濫を真れて、更に中御門天皇享保9年現在の地に遷座し奉りたり。
古く広田五社と称したるは、御主神に縁由深き住吉大神・八幡大神・諏訪大神・高皇産霊神を併せ祀りたる故にして、現今も脇殿として御本殿の左右に四社を並祀せり。
御神徳
天照大御神は大日霊貴とも日神とも称へ奉り、皇室の御遠祖に坐すことは申す迄もなく、ひいては我が国民の御祖神に座し坐すなり、夙に八百萬神を率いて高天原を知食し給ひ霊妙なる御神徳を以て、始めて五穀の種を田畑に植ゑ、或は養蚕の道を始め給ひて、国民生活の根源を開かせ給へる至高至貫なる大神なり、斯くて皇孫瓊瓊杵尊に勅して、我が国家統治の大網を定め給ひ、又三種の神器を授け給ひて、皇祖奉賛の要道を明示し給へり、殊に当神社の例祭神は、進取的活動的なる荒魂の神なれば、国家有事の際には屡々御神異を現はし給へり。即ち神助皇后の三韓征伐に於けるは申すに及ばず、降って弘安の役に於ける御神託、応永年間蒙古襲来に於ける御神験はその一斑たり、されば古来武人の崇敬殊に厚く、寿永三年源頼朝は淡路国広田荘を寄進し、慶長九年豊臣秀頼は社領二千二百五十石を寄進しで崇敬の誠をいたせり。
大正14年に時の皇后陛下が、全国の官国弊社に御奉納遊ぱされたる「神ながらの道」の一節に「伊勢神宮の内宮様の御本宮には天照大御神様、即ち和魂の神様をお祀り申し上げでございます」又一節に「荒魂とは和魂を『実現する魂』でございます」「宮中の賢所は、応神天皇様の御時から天照大御神様として和魂のみを御祀り申し上げ、之に応じ給ふ荒魂は摂津の官幣大社廣田神社に御祀り申し上げでございます」と記されたるを見ても、如何に尊貴の大神なるかを窺ひ知るに足る。
祭日
一 歳且祭  1月1日
一 元始祭1月3日
一 開運祭 自1月1日 至 同3日
一 厄除祭 自1月18日 至同19日
一 紀元祭 2月11日
一 折年祭大祭 2月17日
一 例祭大祭 3月16日
一 春祭 4月16日 神楽奉奏
一 夏祭 7月16日 探湯神事
一 秋祭 10月16日 神楽奉奏
一 新嘗祭大祭 11月23三日 一 大祓 6月30日 12月31日 一 月始祭 毎月1日 一 月次祭 毎月16日 宝物
特に貴重なるもの左の如し
一 剣珠 日本書紀仲哀天皇2年7月の条に、神功皇后長門豊浦の津に泊り海中より如意珠を得らると見ゆるも是なり。
一 菊蒔絵 香炉・香箱 足利義政奉納と伝ふ。
一 源頼朝寄進状
一 後柏原天皇御宸筆御和歌
一 後奈良天皇綸自旨
一 正親町天皇綸旨
一 後水屋天皇御宸筆御和歌
一 孝明天皇綸旨
一 摂関家御教書
境内地
境内総坪数は壱万六千坪にして、後は甲山に接し六甲山を背負ひ、前は西宮市街を瞰下して武庫の海を望み、四時の眺め好く、殊に春四月上旬には約二万株のコパノミツパツツジが境内一帯に咲き、県天然記念物に指定され、参拝遊覧者多し。
古歌
承女2年12月の(西暦1172年)広田社歌合に詠まれる歌。
三河内侍
をしなぺて心広田の神ならばかヽるうき身を恵まさらめや
三位中将実家
昔よりめくみ広田の神ならはさりとも秋のこゝろしるらん
右中将頼実
けふまてはかくて暮しつ行末をめくみ広田の神にまかせん
神祇伯顕広王
昔よりちかひ広田の神なれば祈るいのりもなるをとそきく
伊綱
かこつへき方もなき身の愁をはこヽろ廣田の神そしるらん
智経
世の中におきところなく思ふ身は広田の神を頼むはかりそ

由緒書



広田神社

御祭神
御本殿
天照坐皇大御神の荒御魂
伊勢の神宮に坐す天照坐皇大御神の勇猛果敢で活動的進取的な霊験灼たかな御魂
御脇殿
住吉三前大神、八幡三所神、諏訪建御名方大神、高皇産霊大神
御創祀
神功皇后摂政元年(西暦201年)、国難打破の道を示し、八幡大神の御懐妊を告げ安産を守護し、軍船を導き、建国初の海外遠征に勝利を授けた、廣田大御神の御誨により、御凱旋の帰途、御心・廣田の國に国土安泰・外難の守護として御創祀されたことが、我が国最古の国史書『日本書紀』に記されています
御沿革
大同元年(806)封戸四十一戸、貞観10年(868)従一位昇叙、延喜年間(901〜923)官幣名神大社・相嘗祈雨の奉幣に列し、全国神社に冠たる二十二社に先立ち正暦2年(991)十九社の一社に加えられ、朝廷より恒例・臨時の奉幣枚挙たることが古記録に残り、明治4年(1871)の社格復興の折には県内で唯一官幣大社に列格しました(明治18年には淡路・伊弉諾神宮が官幣大社に昇格)明治4年には境内地を分割譲与し末社の戎宮総本社・西宮神社を独立させています
「伊勢大神宮御同体」の兵庫県下第一の御社格御由緒の大社として広く崇敬を集め、中世には「西宮参拝」と称して国家の神事を司った神祇官の歴代長官や公家・五山の僧侶たちが度々に亙って参詣し、物語や和歌・今様・漢詩に多々その痕跡を残しています
武家の崇敬も篤く、源頼朝は平氏討伐を祈願し淡路・廣田の庄を寄進、豊臣秀頼は末社・戎社(現西宮神社)と共に大規模な改築を行い、徳川吉宗は現今の地に遷宮しました
御社殿は、伊勢神宮戦後初の式年遷宮に当たり荒祭宮旧社殿の譲与を受け、昭和31〜38年(1956〜63)に神明造にて造営がなされました
御神徳
国民の総親神である天照皇大神は、八百万神々の中でも最高至貴なる、生活の基の衣食住を整えられた祖神にして、特に荒御魂の廣田大御神は、勝運合格・開運厄除・子授安産・交通安全・立身出世などに霊験高き神として万民の崇敬をあつめています
廣田大御神は和歌文学歌謡の神としても崇敬され、勅撰和歌集の撰者である藤原俊成や源俊頼は和歌に詠み、後白河法皇撰録の『梁塵秘抄』にも廣田神社やその所管社を謡い込んだ今様(当時の流行歌舞)が多数収録され、文学に関わる先賢たちが神恵を受けました

社頭掲示板



広田神社

御祭神天照大神荒魂は日本書紀巻九に神功皇后摂政元年(西暦201年)皇后新羅より御凱旋の途海路難波に向かわんとして務古の水門(西宮)に至り給うたとき船海上で廻り進まず御神慮を問われ給ひ「我が荒魂は皇后に近づく可らず 當に御心廣田の國に居らしむべし」との天照大神の御神誨により葉山媛を齋宮としてこの地に國土の鎮め外難の護りとして奉祀せられた。

社頭石碑



廣田神社

廣田神社 名神大月次相嘗新嘗
廣田は比呂多と訓べし、和名鈔、(郷名部)廣田、(假字上の如し)○祭神天照大神荒魂○廣田荘廣田村に在す○式二、(四時祭下)相嘗祭神七十一座、廣田社一座、(坐摂津国)」同三、(臨時祭)名神祭二百八十五座、摂津国廣田神社一座、』祈雨祭神八十五座、(並大)云々、廣田社一座、○江家次第云、祈年穀奉幣、廣田、○廿ニ社注式云、下八社、廣田、(幣数一本)
鎮座
日本紀神功皇后巻、伐新羅之明年條に、天照大神誨之曰、我之荒魂不可近皇居、当居御心廣田國、即以山背根子之女葉山媛令祭、
神位
文徳実録、嘉祥3年10月乙巳朔辛亥、授摂津国廣田神從五位下、」三代実録、貞観元年正月27日甲申、奉授摂津国從三位勲八等廣田神正三位、同10年12月16日乙亥、進摂津國正三位勲八等廣田神階、加正二位、
官幣
三代実録、貞観10年閏12月10日己亥、遣使於摂津国廣田生田神社奉幣、告文曰、天皇我詔旨止、廣田大神乃廣前爾申賜倍止申久、大神乎彌高彌廣爾供奉牟止所念行須、而間爾摂津国解良久地震乃後爾小震不止、因卜求之牟礼波、大神乃布志己利賜天、所致賜激奈利止申利、又先日爾祷申賜布事毛有介利、因今從一位乃御冠爾上奉利崇奉留状乎云々、
生田神社告文亦同焉
社領
著聞集一に、後三條院ノ御時、國ノ貢物廣田ノ御前ノ換ニテ多ク入海ノキコエクリケレバ、宣旨ヲ彼社ニ下サレテ貢物ヲ全フセラレヌ由逆鱗アリケルニ、社ノ辺ノ木一夜ニ枯ニケリ、主上聞召シオドロカセ玉テ宥メ申サレケレバ、木モトノゴトクニサカエニケリ、其後舟モ入海セザリケリ、』扶桑見聞泓記三十一に、寄進廣田社神領事、在淡路國廣田領一所、右為増神威、殊存祈祷寄進如件、元暦元年4月28日、正四位下源朝臣、」同三十三に、元暦元年10月27日ニ、梶原平三景時彼庄ニ乱入シテ貢ヲ妨ルコトヲ禁ズル文アリ、』伯資宗王記に貞応3年10月28日辛酉、家司取廣田社年賀解文、祝部神奴有益解文也、
雑事
式廿一、(玄蕃)凡新羅客入朝者、給神酒、其醸酒料稻、摂津国廣田社、五十束、送生田社、(全文大和国葛上郡高鴨神社の條見合ずべし)○著聞集五に、嘉応2年住吉社ノ歌合ノ事ヲ、廣田大明神海上ヨリ渓セ給フ由、両三人同様ニ夢ニ見奉リケリ、道因其山ヲ聞テ、又人々ノ歌ヲ乞テ合セケリ、(按るに、承安2年10月17日廣田社歌合あり、)」後崇光院御記に、応永26年6月25日、抑大唐蜂起事有沙汰云々、出雲大社震動流血云々、又西宮荒戎宮震動、又軍兵数十騎廣田社ヨリ出テ東方へ行、其中二女騎之武者一人如大将云々、神人奉見之、其後為狂気云々、自社家令注進、伯二位馳下尋實否云々、異国襲來瑞想勿論歟、

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