【公式HP】 廣田神社の御祭神と御創祀について 御祭神 天照大御神之荒御魂 御脇殿 住吉大神 八幡大神 諏訪建御名方神 高皇産霊神 御主神の御名は撞賢木厳之御魂天疎向津媛命(つきさかきいつのみたまあまさかるむかつひめのみこと)と申し奉り、即ち伊勢の神宮の内宮に御鎮座の天照坐大神の御荒御魂に坐しまし、神功皇后御征韓の時御霊威を示し給える大神なり。又御脇殿奉祀四社は御主神に尤も縁由深き神々にして古くは併せて廣田五社と称せり。 廣田神社由緒記より抜粋 神社御創祀の概略について 廣田神社は、神功皇后摂政元年(西暦201年)、国難打破の道を示し、皇子(第15代應神天皇)のご懐妊を告げ、安産を守り、軍船の先鋒となり導き、建国初の海外遠征に大勝利を授けられた天照大御神の御神誨を受けた神功皇后(第14代仲哀天皇のお后・右の出陣図参照)により、御凱旋の帰途、武庫の地・廣田の国(芦屋・西宮から尼崎西部)に大御神の『荒魂』を国土の鎮め外難の護りとして鎮め祭ったと、『日本書紀』に記されている兵庫県第一の古社です。 |
【旧社地】 六軒新田の上高隈ノ原: 室町以前までの鎮座地は、当社から御手洗川をはさんだ北方(約500m)の五月ヶ丘・六軒町の辺りと思われる。 馬場先の地: その後何時の頃にか(元久元年(1204)とする)、現今の社地の東方馬場先正面のところに遷座した。 現境内入口から南へ伸びる参道(松並木)を500mほど行った先・木製鳥居が立つ 辺りで、旧鎮座地・馬場先正面とは、その松並木の参道を北へ上り現境内入り口を越え、御手洗川(西岸)に突き当たった辺りの低地だったらしい。 この地は平坦であるため、曲回している広田川(御手洗川)の水害をうけること再三におよんだ。 現在地: 享保9年(1724)4月5日、現今の位置に遷座した。 |