安威川の西岸に鎮座する。 古くは、東北約500mの位置(高槻市学園町)に「上の宮」があって媛蹈鞴五十鈴媛命が祀られており、現在の境内は「下の宮」として玉櫛媛命が祀られていたという明治42年合祀した。 社名は溝杭が本来の文字で、田畑の水利に必要な溝に立てる杭を意味している。 この地と関係の深い三島溝咋一族を祀る。 溝咋神社に「暁の御鏡」という古鏡があって、この神鏡を神前に供えて祈る時は必ず雨が降ると伝えられており、神社には江戸時代の水天の画像も祀られている。 |
由緒 延喜式の古社であって、祭神は、五十鈴姫命、玉櫛媛命を主神とし、相殿に三島溝咋耳命、天日方奇日命、速素盞命尊、天児屋根命を祀っている。 日本書紀神武天皇記の本文には、五十鈴媛命は、わが国初代の神武天皇皇后になられたと記されている。また玉櫛媛の父は三島溝咋耳命であって、古代において広くこの地方を統裁しておられた方である。 元来溝というのは水か生命で、農業にとって欠くことの出来ないものである。その溝を構成する杭も大切である。耳とは古代では長を表す、したがって溝咋耳はは農業神を意味した。溝咋耳神がこの地方においていかに信仰されたかは、今日立派な松並木をもった馬場先が残っているのからも察せられる。神社に伝わる「暁の御鏡」は天長年間の旱魃の際に祈雨して霊験のあったことを伝えている。現在の社殿は、寛保2年(1742)地元出の両替商米屋喜兵衛が達営したものといわれている。 茨木市教育委員会 社頭掲示板 |
溝咋神社 祭神 溝咋耳命 玉櫛媛命 媛蹈鞴五十鈴媛命 天日方奇日方命 素盞嗚命 天児屋根命 由緒 第10代崇神天皇のころご祭神のゆかり深き当地に創建された、平安時代延喜式内社、昭和16年府社になる。当社の社殿は室町時代に領主溝咋兵庫介が改築し安土桃山時代に領主長谷川式部少輔が再建、江戸中期に殿村平右衛門石崎喜兵衛が二度目の再建をなし昭和61年信者の寄進によって修復される。 旧上宮 もと五十鈴媛命、溝咋耳命、天日方奇日方命、などが(現在学園町)にまつられていたのを明治42年に現在の社に合祀される。 祭礼 春祭 5月5日 秋祭 10月14日 社頭掲示板 |
溝咋(みぞくい)神社 溝咋神社は延喜式内(えんぎしきない)の古社で、五十鈴媛命(いすずのひめみこ)と玉櫛媛命(たまくしのひめみこ)を主神(しゅしん)としています。現在の社殿は、寛保2年(1742年)地元の両替商の米屋喜兵衛(こめやきへい)が造営したものといわれています。 溝咋神社はもともと、上の宮と下の宮に分かれていましたが、現在あるのは下の宮で、上の宮は、安威川を隔てた北側にありました。 日本書紀神武天皇記によると、主神の一人である五十鈴媛命は、わが国初代天皇である神武(じんむ)天皇の皇后になられた人と記されています。また、玉櫛媛命は五十鈴媛命の母で、父は、この三島溝咋耳命(みしまみぞくいみみのみこと)で、広くこの地域を治めていた人です。 元来、溝とは“水”が命であり、耳は“長”を表すことから、溝咋耳とは、農業神の意味を持っています。 この溝咋耳神が、いかに信仰されたかは、今も立派に残されている松並木の馬場先を見ても明らかです。 茨木市HP |
溝咋神社 鍬靫 溝咋は美曽久比と訓べし○祭神溝杭姫命○溝杭荘馬場村に在す○日本紀神代巻上、(霊剣出現段) 一書曰、事代主神化為八尋熊鰐、通三島溝杭姫、或云玉櫛姫、(按国造本紀、溝杭命九世孫小立足尼定賜都佐國造、」古事記、三島溝咋に作る) 神社覈録 |