溝咋神社
みぞくいじんじゃ


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【由緒】

創建は不詳。社伝では、第10代崇神天皇の頃に創建されたとしている[2]。当社は祭神節にあるように三島溝咋耳一族を祀っており、『古事記』『日本書紀』の諸伝承との関係が指摘される。
『古事記』神武天皇段では、大物主神が勢夜陀多良比売(玉櫛媛)を見染め、丹塗矢に化して比売の陰部を突く。そして比売は驚いたが、その矢を床に置いたところたちまち壮夫となり、比売との間に富登多多良伊須須岐比売命(媛蹈鞴五十鈴媛命)が生まれたという。
『日本書紀』神代巻では、媛蹈鞴五十鈴媛命が大三輪神の子と記すとともに、事代主神が八尋熊鰐となって三島溝?姫(玉櫛媛)のもとに通い、生まれた媛蹈鞴五十鈴媛命が神武天皇の后になったと記す。『日本書紀』神武天皇即位前庚申年8月16日条にも同様の記載があり、ここでは玉櫛媛は三島溝?耳(溝咋耳命)の娘と記されている。
当地には平城天皇皇子・阿保親王の位田があったという。そして天長年間(824年-834年)の旱魃の際、親王は奏請して鏡を賜り、雨乞いを行なったところ大雨が降ったという。現在も残る神宝の「暁の御鏡」(二神二獣鏡)がその時の鏡だと伝わる。
古くは、東北約500mの位置(高槻市学園町)に「上の宮」があって媛蹈鞴五十鈴媛命が祀られており、現在の境内は「下の宮」として玉櫛媛命が祀られていたという。分かれた時期は明らかでないが、室町時代の嘉吉元年(1441年)の古文書には上宮・下宮の地名が見える。下宮が元々の式内社と考えられているが、以後明治42年の合祀まで2宮で祭祀が行なわれていた。志賀剛氏は『式内社の研究』で、上代は上社の溝咋耳命に仕えたのが下社の祭神玉櫛姫であったのが、五十鈴姫が神武天皇の皇后となったので母神の方が有力となり、下社が式内社に昇格したとしている。


【大阪の建築/まちあるき】

 田畑が開発され街が形成される様子は、景観から考えれば望ましくなく、市街地の発展から考えれば望ましいことである。茨木市中心市街地の東側、昭和後期に開発された住宅に挟まれた形で突如として松並木の路が一本現れる。そこは馬場先と呼ばれている溝咋神社の参道である。現在では保存樹林となっているが、それ故に残っているのではなく、神の通る道、信者が通る道として開発の波を潜り抜けて残っていると考える。
 馬場先の入口には石造の鳥居と石碑が建っており、松並木は凡そ150m。終点には小さいながらも整然と並んだ溝咋神社の拝殿・本殿と幾つかの摂社・末社が佇む境内がある。境内は一目では小さく感じられるが、思った以上に大きい。敷地の入口に建つ朱塗りの鳥居は、白木造りの社殿群と対照的で、一際目に映える。
 溝咋神社は延喜式にも記載されている式内社で、農業神であると言われている。元々上の宮と下の宮に分かたれており、上の宮には溝咋耳・五十鈴媛が、下の宮には玉櫛媛が、別々の場所で祀られていた。溝咋神社は下の宮で、現在では上の宮に祀られていた神々は溝咋神社に合祀されている。因みに祀られていた五十鈴媛と玉櫛媛の名前はこの地区の街の名前「五十鈴町」「玉櫛」として現在でも呼び習わされている。
 現在の拝殿・本殿は寛保2年(1742年)に両替商米屋喜兵衛或いは、殿村平右衛門と石崎喜兵衛の二人によって再建されたとされている。社殿は入母屋造り本瓦葺きの拝殿と切妻造り銅板葺きの本殿で構成されている。本殿の屋根は銅板で本瓦風に造られており、詳細に見なければ瓦葺きと見紛う。拝殿は平入り、本殿は妻入りとなっており、拝殿の正面に付けられた唐破風と千鳥破風が当該建物を特徴付けている。拝殿は漆喰塗の壁、本殿は板壁。拝殿には彫刻が施され、本殿には彫刻の様な装飾は見当たらない。細部の意匠は何処を採っても江戸中期から後期の様式漂う造りとなっている。   ( 神保 勲)
http://www.aba-osakafu.or.jp/chiiki-gr/mishimano/kenchikujin/mishimano_osaka0812.pdf





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