水尾神社
みおじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】水尾神社 二座 (並名神大月次新嘗) 近江国 高島郡鎮座
          (北本殿旧地)北本殿旧地

   【現社名】水尾神社
   【住所】滋賀県高島市拜戸716
       北緯35度18分23秒,東経135度59分19秒
   【祭神】磐衝別命
   【例祭】5月3日 例祭
   【社格】
   【由緒】磐衝別命の御子磐城別王御父命を奉齋
       応神天皇の御子隼総別王社殿を再興
       天平神護元年(765)9月7日封十三戸
       延暦3年(784)8月従五位下
       貞和5年(838)社領安堵の論旨を受ける
       貞観5年(863)閏6月従四位下
       嘉元2年(1304)の記録にあり
       康永2(1343)年光嚴上皇院宣執達状にあり
       元亀2年(1571)織田兵災で焼失
       明治15年郷社
       大正4年県社

   【関係氏族】三尾氏
   【鎮座地】昭和45年台風に倒れた北本殿をここへ遷

   【祭祀対象】氏祖
   【祭祀】江戸時代は「河南社」「河北社」と称していた
   【社殿】本殿一間社流造
       神饌所・社務所・拝殿・中門・神輿庫

   【境内社】比盗_社・八幡神社
   【別当】後嵯峨天皇の皇子鎌倉將軍宗尊親王の姫宮、この地に禅智院を開き、
       爾後代々伏見宮姫宮院主として本神社の別当を兼ね、
       明治初年に至るまで社務一切を支配した


天平神護元年(765)の創建と伝えられる。祭神は、垂仁天皇の第十皇子磐衝別命と継体天皇の生母振姫を祀っている。社域は広大であったようで、音羽の大炊神社は、炊殿跡、安曇川町の今宮神社、太田神社は御旅所の跡と伝えられ繁栄を物語っている。古来歌枕として有名な背後の三尾山には、拝戸古墳群があり、三尾君の祖の墳墓と伝えられる皇子塚がある。
水尾神社は二座で、南北両本殿を持つていた。南本殿を河南社あるいは河内社として祭神は猿田彦命、北本殿を河北社として祭神を天鈿女命とする説もある。
北本殿は伊勢湾台風で倒壊後南本殿に遷座され、その趾に社標が立つていた。
玉垣の中には昭和45年台風に倒れた北本殿をこゝに移して新しい小祠として祀つている。
北本殿の社号標はその後圃場改良のため、神社裏参道直下の、道路反対側に移設された。


由緒

水尾神社は水尾川(今の和田内川)を隔てて河南(かうなみ)社と河北(かうほく)社(現在は河南社境内に遷座)の二社有り、河南社本殿の御祭神は人皇十一代垂仁天皇の第十皇子磐衝別命。また河北社本殿の御祭神は人皇二十六代継体天皇の御母君振姫命であります。
磐衝別王は猿田彦命の天成神道を学ぶため猿田彦を祀る当地に来住され、朝夕猿田彦命を祀る三尾大明神(今の永田村の永田神社)を遥拝されたので、この地を拝戸と称し、その御住居を土地の人は拝戸御所と云っていました。
磐衝別王は当地で亡くなったので、その御子の磐城別王は背後の三尾山の中腹杣山に葬り、父君を奉斎する水尾神社を当地に創建されました。
それから約百年後に、人皇十五代応神天皇の第十一皇子速総別王も天成神道を学ぶため拝戸に来住されて、その四世の孫彦主人王は磐城別王の五世の孫振姫を迎えて妃とし、振姫は当社の拝殿を産所として天迹部王、男迹部王、太迹部王の三児を同時に安産されました。太迹部王は後の人皇二十六代継体天皇であります。
河北社は三児出産の時、父の彦主人王が北の仮社を建てて北極星に安産を祈られた仮社跡に、天迹部王が両親を奉祀する三重生大明神を創建されたもので、後年これが河北社として比盗_(振姫命)のみを祀る社となりました。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年




水尾神社

滋賀県高島郡高島町拜戸716
祭神 磐衝別命 比盗_
例祭 5月3日
由緒
本神社創建は不詳であるが既に天平神護元年(765)には神戸十三戸の奉充があった。
延喜式内の古社で東山道の官幣大社五座の中の二座(河南社・河北社)を占め、社域は現在より相当広大であった。
本殿(元河南社)には垂仁天皇の皇子である磐衝別命を祀り、河北社(現在は本殿脇の小祠)には継体天皇の生母振姫を祀っている。
磐衝別命はこの高島の地を本拠として栄えた三尾君の祖であることは古事記日本書紀に明らかである。姫宮である振姫は高島の別業高島宮に居られた彦主王の妃で越前三国より迎えられ当社拝殿を産所として三児を出産されたと伝えられる。この皇子の一人男大迹王が後の継体天皇となる。
江戸期には八代将軍吉宗が神輿一基を奉納、九代家重公は社殿を再建共に現存している。
境内には鎌倉中期の石灯籠や供養塔の残欠が数多く残っている。
又、当社背後の杣山(三尾山)は古来より歌枕としても有名で万葉集をはじめ数々の歌が詠まれている。
五月雨になほ川音も高島や
 水尾の杣山雲もなかれむ  草庵集頓阿
宮司謹書

社頭掲示板



延喜式内社 水尾神社

鎮座地 滋賀県高島郡高島町大字拝戸716番地
御祭神 磐衝別命
振姫命 垂仁天皇第十皇子
継体天皇御母君
例祭日 5月3日
由 緒 当社は、延喜式内社(平安時代)東山道の大社三百八十二座の中の、特に官幣大社五座の内二座を占め、祈年、月次、新嘗、例祭の年四回天皇より奉幣があり、又名神大社として臨時の大祭にも奉幣がありました。
当社の御祭神磐衝別命は、当地の土俗神猿田彦命の天成神道を学ぶ為に来住され、当地でなくなった為その御子磐城別命が背後の三尾山に葬り、父君をお祀りする水尾神社を創建されました。それから約百年後に応仁天皇の御子速総別命も来住され、その四世孫彦主人王は、磐城別命の五世孫振姫を三国より迎えて妃とし、振姫は当社拝殿を産所として天迹部王、男迹部王、太迹部王の三児を安産されました。太迹部王は後の継体天皇であります。当社は高島郡の総社として、又歴代の将軍家の尊崇を得、統治者、政治家、経営者等、出世の神として霊験あらたかであると共に、安産、子授け、厄除けの神として古来有名であります。

社頭石碑



拝戸古墳群

拝戸古墳群は、6世紀に築造された群集墳で直径10m前後の墳丘と、その内部に横穴式石室を持つ円墳群である。石室は通路に当る羨道と棺を安置する玄室とからなり、数体から時には二十数体が順次埋葬された。
石室には鉄鏃や刀などの武器類、金環、勾玉などの装身具類、飲食物を入れた須恵器や土師器などの土器類が供えられた。
6世紀になると、拝戸古墳群のような群衆墳した円墳が各地に造られるようになったが、これは、これまでの首長の支配下にあった民衆が生産力と社会的分業の発展により、家族ごとに次第に成長して築造していったことを意味している。
昭和61年10月
高島町教育委員会

社頭掲示板



水尾神社

滋賀県高島郡高島町拝戸鎮座
御祭神 南本殿 磐衝刷の命(垂仁天皇の第十皇子)
北本殿 比咋神(継体天皇の御母君振姫命)
上拝戸鎮座の北本殿は台風のため劇壊したので昭和46年12月南本殿の向って右側に小社を建て遷座串し上げました。
神紋 菊
境内社 
神明神社、天照皇大神、豊受大神
八幡神社、応神天皇、速総別命(応神天皇の第十一皇子)
  速総別皇子当地に来住して深く水尾神社を尊崇あそばされたので、後ち皇子の御座所(水尾御所)跡に社殿を造営して天皇と皇子を  奉祀したもので、後年現在地に遷座されました。
秋葉神社、火結命
  大正15年丁亥年遠州秋葉山本宮より勧請創祀されました。
以上の三社は境内に各別棟でありましたが、明治44年2月14日一棟に纒められ現在地に奉祀してあります。
境内建造物
本殿(流造り)、中門、玉垣、拝殿、神輿庫、社務所、社標、一の鳥居、二の鳥居
境内坪数 2281坪
水尾神社の由緒
延喜式所載の式内社
水尾神社は水尾川(今の和田内川)を隔てて河南社と河北社(現在は河南社境内に遷座)の二社あり、河南社本殿の御祭神は人皇11代垂仁天皇の第10皇子磐衝別命。また河北社本殿の御祭神は人皇26代継体天皇の御母君振姫命であります。
磐衝別王は猿田彦命の大成神道を学ぶため猿田彦を祀る当地に来住され、朝夕猿田彦命を祀る三尾明神(今の永田村の長田神社)を遙拝されたので、この地を拝所と称し.その御住居を土地の人は拝所御所と云っていました。
磐衝別王は当地で亡くなったので、その御子の磐城別王は背後の三尾山の中腹杣山に葬り、父君を奉斎する水尾神社を当地に創建されました。
それから約百年後に人皇15代応神天皇の第11皇子速総別王も大成神道を学ぶため拝戸に来住されて、その四世の孫彦主王は磐城別王の五世の孫振姫を迎えて妃とし、振姫は当社の拝殿を産所として大迹部王、男迹部王、太迹部王の三児を同時に安産されました。太迹部王は後の人皇26六代継体天皇であります。
河北社は三児出産の時、父の彦主王が北の仮社を建てて北極星に安産を祈られた仮社跡に、天迹部王が両親を奉祀する三重生大明神を創建されたもので、後年これが河北社として比盗_(振姫命)のみを祀る社となりました。
水尾神社の御神威
当社の創建年支は不詳でありますが、既に奈良朝時代、称徳天皇の天平神護元年(西紀765)に神封十三戸(神田)を作る氏子十三戸の奉充があり、桓武天皇の延暦2年に従五位下に叙せられました。これは近江の神社として叙位の正史に出た最初の神社であります。その後度々昇叙が行われ、醍醐天皇の延喜式の制には東山道の大社382座の中の、特に官幣大社5座の中の2座(河南社、河北社)を占め、祈年・月次・新嘗・例祭の年四回名神大社として臨時の大祭にも奉幣がありました。
更に霊元皇は神号の扁額を、光格天皇は神輿用御戸帳を、仁孝天皇は傘鉾を、孝明天皇は神輿用鈴及び鈴緒を夫々献納せられ、また八代将軍吉宗は神輿を奉納し、九代将軍家重は社殿を再興し、共に現存しています。
当社は維新後社運が開けず昔日の面影はありませんが、約2km南方の大溝町音羽の県道沿い川中の礎石は当社の一の鳥居跡であり、同字の氏神大炊神社も当社の神供の炊殿跡と伝えられていますなど、その社域の如何に広大であったかを窺い知ることが出来ます。また祭典も厳粛且つ広汎に行われて、東北方約5kmの安曇川町西万木の今宮神社並に、青柳村新宮神社(今の太田神社)は、共に当社神輿渡御の御旅所跡と伝えられていて昔の盛儀が推察されます。

由緒書



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