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遠景竹藪の手前50mにあった。台風で潰滅後碑を建てたが、その碑は本社の裏参道直下、この旧地を望める地に移転した。農地改良事業で景観は一変した。 現在は本社本殿右脇に小祠として祀られている。 |
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水尾神社の北本殿(比盗_) 醍醐天皇の延喜式の制に、水尾神社は東山道の官幣大社五座の中の二座を占むとあり、水尾川の南に河南(かうなみ)社、北に河北(かうほく)社があり、南本殿の御祭神は磐衝別命であることは前述の通り明瞭であるが、北本殿の御祭神は比当スとのみあって何れの記録にも御祭神名がなく、ただ特選神名帳に磐衝別命の御夫婦を祭れるにやあらんとあるのみである。しかしながら御夫婦なら一箇所にあるべきであるのに南北二箇所にあって、しかも別々に官幣大社であったと云うことは解せない。 案ずるに振姫が三王子を御出産の時、姫は神社の拝殿を産所とし、夫の彦主人王はこれより三百六十歩離れた処に仮社を建て、北極星に安産を祈られたとあり、且つその北の仮社跡に彦主人王と振姫を祭る三重生(みえなり)大明神を建て、継体天皇がこの社に毎年勅使を差遣されたとあるから、北本殿はもと三重生大明神で彦主人王と振姫を祀ってあるものと思われる。従って比盗_と云うのは振姫命のことであろうと推察される。かく考えると継体天皇の御両親であるから南本殿の磐衝別命とは別側に官幣大社であっても不思議ではない。従って水尾神社官幣大社二座と云うことになる。 それでは現在の三重生神社、三重生(みおう)の地名、牛彦王墓は離れ過ぎているではないかと反問されるであろう。しかし筆者は、これは彦主人王の墓を何かの関係で現在地に設け葬ってあったので、後世の人が三重生(みえなり)大明神をその近くに移祀し、その地を三重生と称したものと思う。三重生を三重生(みえなり)と云わず現在三重生(みおう)と云っているのはそのためと思われる。 なお、現在河南社と河北社の間は約一粁あり、彦主人王は三百六十歩離れた処に北の仮社を建てたとあるが、この三百六十歩は直距離であり、凡その三百六十歩離れた処と云うことで、両者の距離は先づ一致するのではなかろうか。地名や神社名が変ったり移動した実例はいくらもあるので以上のことは不可解なことではなかろうと思う。 北本殿(河北社)は伊勢湾台風で倒壊し再建困難なので、昨四十五年十二月南本殿玉垣内向って右側に小社を新築して遷座、北本殿趾は田圃と化し、水尾神社の石の社標のみが立っている。 「高島地方の古代史話 水尾神社の縁起解明 」昭和46年水尾神社発行 |