多賀大社
たがたいしゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】多何神社 二座 近江国 犬上郡鎮座
          (摂社)日向神社

   【現社名】多賀大社
   【住所】滋賀県犬上郡多賀町多賀604
       北緯35度13分31秒,東経136度17分27秒
   【祭神】伊邪那岐大神 伊邪那美大神
   【例祭】4月22日 古例大祭
   【社格】旧官幣大社
   【由緒】天平神護2年(766)神封
       康和5年(1103)6月10日遣使奉幣
       鎌倉時代に犬上郡の総鎭守
       元弘3年(1333)5月14日守良親王寄進
       観応2年(1351)8月19日足利尊氏御教書
       正平17年(康安2年=1362)社殿改築
       大永6年(1526)4月4日遣使奉幣
       天正3年(1575)社殿造営
       天正16年(1588)関白豊臣秀吉母大政所の延命祈祷
       元和元年(1615)社殿炎上
       元和5年(1619)徳川秀忠神領三五〇余石寄進
       寛永8年(1631)春日局将軍の代参参籠
       明治10年11月県社兼郷社
       明治18年4月22日官幣中社
       大正3年1月4日官幣大社
       昭和22年1月9日社名を多賀大社と改称

   【関係氏族】犬上君
   【鎮座地】当社はもと杉坂山頂に始まると云う
        その後麓の調宮に遷
        その後田宮とでも言うべき現社地に遷った
        胡宮神社は多賀二座の一つとも伝えられている

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「多賀大明神」「多賀神社」と称していた
   【公式HP】 多賀大社
   【社殿】本殿流造
       拝殿・祝詞舎・表門・幣殿・手水舎・神饌所・祭器庫・神樂殿
       待合所・舞女室・社務所・舞殿・絵馬殿・神馬舎・文庫
       奥書院・儀式殿・参集殿

   【境内社】日向神社・熊野新宮・天神神社・熊野神社・三宮神社・聖神社
        金咲稲荷神社・山田神社・高松神社・愛宕神社・秋葉神社・子安神社
        天満神社・夷神社・神明両宮・祖母神社・楫取神社

   【境内図】 境内図
   【神宮寺】不動院とその配下の観音院・般若院・ 成就院
        天台宗仏教文化の影響が殊のほか強かった


お伊勢参らば お多賀へ参れ お伊勢お多賀の子でござる
お伊勢七たび 熊野へ三度 お多賀様へは月詣り
と、 古くから謡われている。
古事記に「伊邪那岐大神は淡海(近江)の多賀に坐ます」と記されている。
社伝によると神代の昔、伊邪那岐大神は多賀大社の東方4キロの杉坂山(山宮)に老翁の姿で現れ、麓の栗栖の宮(調宮)にしばらくお休みの後多賀の地にお鎮まりになったとつたえている。


由緒

この男女二柱の大神は、はじめて夫婦の道をおこされ、わが国土と万有の神神と、その主宰神としての天照大神をお生みになられましたので昔から、わが日本国の祖神さまと仰がれ奈良時代の初めにできた「古事記」には、すでに淡海の多賀に鎮座という記事が見えています。
そこで早くより朝野尊崇あつく、延命長寿の守護神を信仰されてきました数数の霊験は、社蔵の古文書やご宝物、また境内にのこる寿命石、太閤蔵、文部省指定の各勝「奥書院庭園」などが明らかに物語っております。
4月22日の多賀まつり(古例大祭)は鎌倉時代からの伝統を今に伝える華麗な神幸行列で名高く、節分祭、お田植祭、万灯祭、9月古例祭、講社大祭、豊年講秋祭なども大変にぎわいます。
室町時代以来の由緒をもつ全国各地の多賀講や崇敬会にも加入して神縁を結ばれる人々が年々増加しています。ご本社から廊下つづきの鉄筋二階建ての参集殿では、これらの団体やグループのおこもり(宿泊)、あるいは荘厳な儀式殿において挙式された結婚式の披露宴その他いろいろの集会をお世話しています。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年




多賀大社

伊邪那岐大神 (いざなぎのおおかみ)
伊邪那美大神 (いざなみのおおかみ)
多賀大社が文献にみえるのは、和銅5年に撰上された“古事記”で、「伊邪那岐大神は淡海の多賀に坐す」とあります。社伝によると、神代の昔、伊邪那岐大神は本社東方の杉坂山に降臨され、麓の栗栖の里でお休みの後、多賀にお鎮まりになったと伝わっています。奈良・平安時代には公家の信仰篤く、鎌倉〜江戸時代には武家からの信仰も集め、その祈願文や寄進の品が多く残されています。
鎌倉時代から広まった神仏習合は明治初期まで続くが、当社に於いても明応3年、天台宗の不動院が建立され、その後、観音院・般若院・成就院の坊人たちの活発な布教により多賀信仰が全国各地に広まりました。大正3年には、皇祖天照大御神の御親神にありますことや崇敬が全国に及ぶ事から官幣大社に列格されました。
伊邪那岐・伊邪那美二柱の大神は、天つ神から「この漂へる国を修理り固め成せ」(このただよえるくにをつくりかためなせ)との詔をいただかれて初めて夫婦の道をひらき、この大八洲国(日本)や多くの祖神をはじめ自然界すべての物をお造りになり、さらには天照大御神をお生みになられました。
莚命長寿のご神徳を伝えるものとして、俊乗坊重源上人(しゅんじょうぼうちょうげんしょうにん)の逸話は有名です。
“そのお話”
後白河法皇より、平重衡によって焼失した南都東大寺復興の命を受けた上人は、すでに齢60を過ぎておられました。この大事業成就のため多賀大社に17日間参籠してひたすら莚命を祈ったところ、満願の暁、柏の葉1枚が上人の前に舞い落ちてきました。みれば『莚』という字の虫食いがありました。
草冠は十を2つ並べて書くことから、上人は20年の寿命を授かったと歓喜し、建久6年に東大寺大仏殿再建を成し遂げました。
爾来、お多賀さんは莚命長寿の神様として、いよいよ広く篤い信仰が生まれ、全国から参拝が絶えません。
  祭  典  名     日  程   祭  典  内  容 
御日供祭
おにっくさい  毎日 午前7時       
月次祭
つきなみさい  毎月 1日 15日 28日     
米寿莚寿祭
べいじゅえんじゅさい  4月 1日 11時 数え年88歳の方の莚寿祭
勧学祭
かんがくさい  4月第1日曜日 11時 氏子新小学生の学業成就と交通安全を祈る
金婚莚寿祭
きんこんえんじゅさい  4月 3日 11時 結婚50年の方々の莚寿祭
古例大祭(多賀まつり)
これいたいさい  4月22日 8時 多くの恒例祭典がある中、春の例祭といわれる最も重大なお祭り
神恩感謝祭
しんおんかんしゃさい  5月 5日 11時 崇敬会会員が日頃の神恩に感謝する祭
御日供講大祭
おにっくこうたいさい  5月第3日曜日 11時 全国御日供講講員の家内安全を祈る
御田植祭
おたうえさい  6月 1日 13時
夏越の大祓式
なごしのおおはらえしき
(茅の輪くぐり)
 6月30日 15時 日頃の罪・穢を祓う
万灯祭
まんとうさい  8月3日 4日 5日
 午後7時一斉点火 湖国夏の風物詩
古例祭
これいさい  9月 9日 13時 秋の多賀まつり
古稀莚寿祭
こきえんじゅさい  9月20日 11時 数え年70歳の方々の莚寿祭
喜寿莚寿祭
きじゅえんじゅさい  9月21日 11時 数え年77歳の方々の莚寿祭
池坊献華式
いけのぼうけんかしき  9月27日 池坊家元による献華式
多賀講講社大祭
たがこうこうしゃたいさい  9月28日 全国多賀講講員のみなさまの家内安全を祈る
抜穂祭
ぬいぼさい  9月28日 稲穂を刈る神事
観月祭
かんげつさい  9月11日 午後7時 中秋の名月をめで、献詠をする
傘寿莚寿祭
さんじゅえんじゅさい 10月 1日 11時 数え年80歳の方々の莚寿祭
神嘗祭当日祭
かんなめさいとうじつさい 10月17日   
献茶式
けんちゃしき 10月21日 10時 裏千家家元のよる献茶式
明治祭
めいじさい 11月 3日  明治の御代を偲び皇室の安泰を祈る
神酒講大祭
しんしゅこうたいさい 11月 4日 11時 全国酒造会社の商売繁盛と醸造繁栄を祈る
金咲稲荷神社例祭
かなさくいなりじんじゃれいさい 11月 8日  全国金咲稲荷講講員の商売繁盛を祈る
大宮祭
おおみやさい 11月15日 春山から里に神を迎え、秋には山にお送りする古代の信仰を今に伝える
新嘗祭(豊年講秋祭)
にいなめさい 11月23日 11時 新穀をお供えし五穀豊穣に感謝する祭
県下豊年講講員多数が参列する。
御煤祓式
おすすはらいしき 12月20日 早朝 新年を迎えるにあたって本殿以下境内全ての大掃除
天長祭
てんちょうさい 12月23日 11時 今上陛下の御誕生日をお祝いするとともに国家の安泰を祈る
大祓式
おおはらえしき 12月31日 15時 1年間の罪・穢を祓う
除夜祭
じょやさい 12月31日 1年間の無事に感謝し新しい年を迎える準備のお祭り
歳旦祭
さいたんさい  1月 1日 午前0時 新年を祝い、その年の五穀豊穣・国家国民の安泰を祈る
翁始式
おきなはじめしき  1月 3日 10時過ぎ 年の始めに神を迎える神事芸能
節分祭
せつぶんさい  2月 3日 午前11時
        午後 2時 還暦の年男・年女300名が境内特設舞台で豆まきを行う。
紀元祭
きげんさい  2月11日 10時 日本の建国を偲んで祭典に併せて奉祝式典・武道大会が行われる。
祈年祭(豊年講春祭)
きねんさい  3月17日 11時 その年の五穀豊穣を祈る
このたび30数年ぶりに御本殿以下諸殿舎の御屋根の葺替えを中心とした『平成の大造営』を開始いたしました。多賀大社御造営の歴史は古く、大神御鎮座にまで遡りますが、天平神護元年(765年)から宝亀2年(771年)にかけて“神封”(奈良時代の末、国家が崇敬する神々に田地とその耕作者)が寄せられ、それ以来数々の歴史を刻み、特に記録さるべきは江戸時代徳川将軍家の篤信を受けて『寛永の大造営』が寛永11年(1163年)から15年にかけて進められ、多賀大社は目を見張るばかりの偉容を整えました。
しかし、明治維新による神仏分離をむかえた明治初期、境内の仏色は全て排除され、神社境域の荒廃は著しく、永年培われてきた多賀信仰の基盤が損なわれる状況を呈するにいたりました。その復興事業として明治40年に舞殿を再建、さらに大正4年に現存する拝殿が造営されました。
昭和の大造営は官幣大社としてさらなる御神徳の発揚を願ったもので、大正10年以降昭和11年の事業完了まで実に15年に及ぶ歳月を費やし、先に建築された拝殿を中心として、本殿・幣殿・祭器庫をはじめ授与所社務所等の諸建物を新築する境内全般に及ぶ大造営でありました。
戦後、昭和第二次の御造営が御本殿以下諸舎殿の御屋根の葺替えに併せて、多賀講員の参拝・接遇の拠点を確立する為に昭和40年代に進められ、参集殿の新築が行われました。
爾来星霜30数年、御本殿以下の桧皮屋根の損傷著しく、建物への影響を考慮し、このたび『平成の大造営』と相成りました。神社の役員・総代各位と度重なる協議の末、事業総額20億円という巨額の予算となりましたが、この際老朽化した祈祷控殿全面改築し、さらに20数年仮設で凌いでいた神楽殿を本格建築にて拝殿と合体させ、社殿の構成美を整えます。

公式HP



多賀大社

御祭神 伊那那岐大神(いざなぎのおおかみ)
    伊那那美大神(いざなみのおおかみ)
鎮座地 滋賀県犬上郡多賀町多賀604
境内社 日向神社・子安神社・神明両宮・蛭子神社・天神社・金咲稲荷神社・熊野神社・熊野新宮・三宮神社・聖神社・竈神社・年神神社・天満神社・愛宕神社・秋葉神社
境内にこれらのお社があります。それぞれご神徳が記されています。ご巡拝下さい。
御由緒 多賀大社が文献に初めてみえるのは和銅5年(712年)に撰上された「古事記」という古物の中に、「伊那那岐大神は淡海の多賀に坐ます」とあります。社伝によると神代の昔、伊那那岐大神はご本社の東方4キロの杉板山に老翁の姿となってお現れになり、麓の栗栖の宮に暫くお休みの後多賛の地にお鎮まりになったと伝えます。
遠く、奈良時代や平安時代にかけては、公家の崇敬が特に篤く、鎌倉より戦国江戸時代には武家の寄進や祈願が文献に数多く記されています。また、奈良時代の頃より広まった神仏習合の勢いは、その後全国に広がり、以後明治初期まで統くのですが、近江の地も例外ではなく、天台宗仏教文化の影響が殊のほか強く、明応3年(1494)に創建された不動院とその配下の観音院・般若院・成就院の活動により従来の犬上郡内の総鎮守にとどまらず全国的に信者を有する大社へと発展していきました。近世になるとご祭神が皇祖天照大御神の御両親にまします事や崇敬者が全国に及ぶ規模などから、大正3年(1914年)1月官幣大社に列格されました。現在の御本殿以下諸建物は、昭和7年秋境内整備と共に竣工したものですが、その御神威は、悠久の昔と変わりなく近江国は言うに及ばず広く全国に及んでいます。
御神徳 伊那那岐・伊那那美二柱の大神は天つ神から「この漂へる国を修理リ固め成せ」との詔をいただかれ、初めて夫婦の道をひらき、この大八州国(日本)や多くの氏々の祖神をはじめ自然界のあらゆる物をお造りになり、さらには、天照大御神をお生みになられたと古典はしるしています。伊那那岐・伊那那美二柱の大神がお互いに誘い合って行われた「国生み」の大業は我国の全ての源であることから「寿命の神様」まだご夫婦の遣をひらかれたことから「縁結びの神様」としての信仰が生まれたのです。
当社で最も著名な伝えは俊乗坊重源上人の話です。
平重衡が奈良の東大寺を焼き打ちしたので、後白河法皇よりその復興の命を受けた重源は、齢六十を退ぎていてこの大業の成就は覚束ないと当社に十七ケ日参籠して寿命を祈ったところ、満願の暁に神殿より柏の葉が一枚風に吹かれて上人の前に落ちてきました。見てみると、蓬という文字の虫くいがありました。蓬と言う文字は二十延と書きます。重源は、二十年の寿命をあたえられたと歓喜の思いで、ついに建久6年3月大仏殿建立を成しとげ報恩感謝の参詣をしたと、古書は記しています。爾来多賀の神様は「延命長寿の神様」としてそのあらたかなる御霊徳は広く信仰を集めているのです。

由緒書



関連ある社

胡宮神社(このみや)
 多賀駅から約2q南の緩やかな丘に、静かにたたずむのが胡宮神社です。 祭神は伊邪那岐・伊邪那美・事勝国勝長狭の三神で敏達天皇の勅願によりつくられたといわれ、また、多賀二座の一つとも伝えられています。 古くは、背後の青竜山の巨石「磐座」崇拝を起源とし、鎌倉時代には天台宗敏満寺の鎮護の神として栄えました。 多賀胡宮とも称せられ、多賀大社の別宮として篤い信仰を集め、授子・授産の神、鎮火の神として崇敬され、僧侶や歌人をはじめ多くの人々が祈願に訪れています。
 多賀神社に於いては、中世の頃より胡宮を末社と称し、寛政年中(1789〜1800)に入り、胡宮側よりこれを否定して奥宮と主張したため紛争を生ずるに至ったことさえあります。 奥宮伝説がおきた事由として、両社における祭り行事の関係があるのです。
 多賀大社祭礼に先立ち、御使殿と称し7日間宮籠り、さらに毎日胡宮へ社参。 そして、胡宮祭礼の後、胡宮の神輿は敏満寺丘陵を下って神輿多賀社へ渡卸、明けて午の日(22日)が多賀社の年中一度の大祭を行うを例としています。 かように例祭に先立つ神幸が繰り返されてきたのを見ても、相互の間にただならぬ関係を思わせています。
胡宮の磐座(いわくら)−胡宮神社の石版より−
一、青龍山の頂上に大きな岩がある。 大昔からこの岩を磐座とよび深く信仰して龍宮を祭り、長寿、豊作、雨乞い、の祈願をした。 これを原始信仰と云い、麓から遙拝するため社殿を造ったのが胡宮である。 磐座は胡宮の奥宮であり、多賀大社の奥の院と呼んだ時代もある。 一、頂上付近の神聖な場所を境界(いわき)と呼び一般の人は立ち入らせなかった。 「お池」で身を清め、供物を洗い、祭典の広場で春秋の祭りの式典を行った旧跡もある。
一、胡宮磐座は社殿信仰以前の原始信仰の姿を見せてくれる神体山である。 滋賀県内でも数少ない山岳信仰の聖域である。

社頭掲示板



多賀大社

町指定定文化財
多賀大社の「そり橋」
太閤秀吉が当社に寄せた信仰から「太閤橋」とも呼んでいるが、実際は「太鼓橋」である。
築造は、江戸初期宝永十五年に徳川幕府の助成もあつて、大僧正慈性によつて本殿以下諸堂社の造営が行われた。
「寛永年間多賀大社絵図并指地図」に「そり橋」も記載されていることから、この大造営の際に築造されたものである。
この「そり橋」は神橋であつて、例祭にはお神輿が渡られる。昭和7年の造営には、「そり橋」の附近が改修され現在に至つている。お多賀さんの表玄関にふさわしい重厚な橋である。
平成3年11月吉日
多賀町教育委員会

社頭掲示板



廃仏毀釈

多賀大社では明治の廃仏毀釈が最も過激と言われる形で行われた。 「遂に明治4年の事件を惹起し、社家側をして断然たる処置を以て、旧社僧側に臨むに至らしめた。不幸當時の記録散逸して、その模様を詳細にするを得ないが、古老の口説によれば、同年5月以前社家側は、附近の土民と共に不動院及び他の三院に乱入し、暴力を以て社僧側を排撃し、佛像を始め佛具類を投棄した。之を見た土民等は、争うて宝物・什器類を奪ひ、甚しきは、襖絵をも切取り、さしも近世に威を振つた多賀大社別当寺をして橦花一日の榮と化せしめた。此際本地仏は、本地堂より搬出して表門附近の露天に遺棄せられ、誰一人顧るものも無い有様であつた。漸くにして5月中旬頃、多賀村眞如寺より保護方を願出て、同寺の本堂に安置した。然るに同下旬に至り、氏子総代より本地仏並に仏具類の譲與を願出て、社家側に於ても異論なかつたが、彦根縣庁に於て売捌に決した、尤も本地仏及び附屍仏具類のみは眞如寺の懇願もあつたため、借用の形式を以て、一先づその保管を依託することとなり、今日に及んでゐる。」

式内社調査報告



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