【由緒】 ご祭神 伊邪那岐大神いざなぎのおおかみ 伊邪那美大神いざなみのおおかみ この男女二柱の大神は、はじめて夫婦の道をおこされ、わが国土と万物の神々と、その主宰神としての天照大神をお生みになられましたので昔から、わが日本国の祖神さまと仰がれ、奈良時代の初めにできた「古事記」には、すでに淡海の多賀にご鎮座という記事が見えています。 そこで、早くより朝野の尊崇あつく、延命長寿、縁結び、厄除の霊神と仰がれ、元正天王や俊乗坊重源、太閤秀吉の母大政所の延命祈願、武田靖信(信玄)の厄除祈願など数々のご社伝が伝えられております。 4月22日の多賀まつり(古例大祭)の騎馬四十頭に及ぶご神幸は天下に名高く、他にも節分祭、お田植祭、万灯祭、九月古例祭、七五三なども大変なにぎわい見せます。 室町時代以来の由緒をもつ全国各地の多賀講はあまりにも有名ですが、更に近年は崇敬会に加入して神縁を結ばれる人々も増加しています。 ご本社の左奥にある参集殿では、これらの人々のお食事、あるいは結婚式の披露宴なども行われています。 又、春の枝垂れ桜、秋の紅葉、国の名勝である奥書院庭園も見事で、年間と通じ約百七十万人の参拝者を数えております。 社頭掲示板 |
【由緒】 伊邪那岐命 伊邪那美命二柱を奉齋し古来より寿命長久、病気平穏 縁結びの神として全国に広く崇敬者を有している。鎮座年代は『古事記』上巻に「伊邪那岐大神者、坐淡海之多賀」と見え、古事記が撰進された年代からして鎮座は8世紀以前といえる。『延喜式』巻十に「多可神社二座」と見え、伊邪那岐命、伊邪那美命の2神共に国幣に預かられた事がわかる。鎌倉時代には神官権御家人による衆議制により神社が運営された。後醍醐天皇のとき五辻宮守良親王が朝敵誅伐を祈請せられ多賀庄半分を社領として寄進、室町末期従前の衆議機関に代って神宮寺である別当不動院が台頭し守護職佐々木一統、後には信長、秀吉の擁護も会って坊人達の活躍は目覚しく、諸国に御神札を配し民衆にその後神徳を広めた。特に秀吉は天正16年生母大政所の病気平穏、延命の祈願を寄せ、その御礼として米1万石を寄進された事は有名。元和15年徳川秀忠より350石の神領の寄進を受け、寛永15年には不動院大僧都慈性が徳川幕府の助力によって本殿以下諸堂社、末社に至るまで大造営がなされた。降って慶安4年井伊家より150石の神領が加増された、明治10年県社兼郷社、同18年官幣中社、大正3年官幣大社に昇格、昭和5年より8年にかけ昭和の大造営が行われ社頭の面目を一新した。近年では中世以来の信仰を受け継いだ多賀講を始め、崇敬会、豊年講、養蚕講等の崇敬者を中核として東海、近畿を始め全国に多くの崇敬者を有している。尚本社の他摂社、日向神社(祭神 瓊々杵尊)山田神社(祭神 猿田彦大神)は式内社である。 滋賀県神社庁 |
【文化財】 重要文化財 紙本金地著色調馬・厩馬図 六曲屏風 名勝 奥書院庭園 滋賀県指定有形文化財 奥書院 一の鳥居・常夜灯 - 彦根市高宮町 寛永12年(1635年)に建立。1965年8月9日に滋賀県指定文化財に認定。本殿より約3km離れた高宮郵便局の脇にある。 紙本著色三十六歌仙絵 六曲屏風 梵鐘 大太刀 - 2件 鉄黒漆塗二十八間筋兜 多賀大社文書 - 136通 町指定有形文化財 そり橋 多賀大社建造物 11棟 |
【多賀大社奥書院】 県指定有形文化財 多賀大社奥書院 昭和42年9月29日指定 当社の創立は、古く「古事記」や「延喜式」にも見られる。 奥書院は、江戸時代当社の別当不動院の建物と伝えられ、規模は桁行14.05m、梁間8.96m、一重、寄棟造、南面および西面庇付、桟瓦葺である。 現状の平面は、床、袋棚を備えた八畳の主室と十畳の次の間が名勝庭園に面し、その南面に三室を並べて、全体は六室構成になっている。当初は主室側に西端より八畳、四畳、十畳の三室一列の中央部西側にも部屋をもつT字形の平面であったことや、その後の変遷も昭和51年の半解体修理で明らかになった。後世に、床、棚の設置と共に平面も大きく変り、更に南、西側の縁が増設されているが、主要部には当初材が残る。 時代的な風格をもち、庭園と一体をなす重要な建物である。 平成4年3月 滋賀県教育委員会 社頭掲示板 |
【奥書院・庭園】 奥書院(県指定有形文化財) 奥書院は多賀大社に残る最も古い建物で、江戸時代中期(安永12年)再建の不動院書院跡。不動院は明応3年(1494)近江国守護佐々木高頼の命により開基された別当・神宮寺のひとつ。 建物構造は、一重寄棟造・桟瓦葺で鶴の問・歌仙の間や茶室・脇の間などから成っている。また、狩野派の絵師による襖絵(町指定文化財〉は金地を基調とした濃彩画で、唐獅子牡丹図や花鳥図など金欄豪華な中にも江戸期の書院様式をよくとどめている。 庭園(国名勝指定) 奥書院から見下ろすように築かれた安土桃山時代の池泉観賞式の庭園。広さは約二百坪。正面に守護石を据え、左右に鶴と亀の岩島を配し、大きな自然石を渡して橋としている。 社伝によれば、天正16年(1588)豊臣秀吉がその母大政所の病気平癒を祈願して奉納した米一万石をもとに築造されたと伝える。 全体的に桃山時代の豪放な特徴がよく表現されており、昭和10年国の名勝庭園に指定された。 多賀大社パンフレット |
多賀大社 たがたいしゃ 滋賀県犬上郡多賀町大字多賀。旧官幣大社(現、別表神社)。伊邪那岐命・伊邪那美命の二柱を祀る。当社の創祀は、明かでないが『古事記』に「伊邪那岐大神は、淡海の多賀に坐すなり。」と見える古社である。天平神護2年(766)に、神封6戸が寄せられた。当社は、古来より特に延寿司命の神として、歴代皇室の尊崇及び武門庶民の崇敬篤く、元正天皇御不予の御平癒を初めとして、明治初年に至るまで、禁中の勅願所であった。延喜の制では小社に列せられている。元弘の事変に際しては、亀山天皇が賊徒の平定を祈願され、神験があったといわれ、室町中期以降は坊人の活動とともに、命の神としての尊崇はいよいよ広まり、「お伊勢七庶熊野へ三度、お多賀様へは月参り」という俚謡を生ぜしむるに至ったという。戦国時代に於ては、豊臣秀吉の尊崇特に篤く、生母大政所の病平癒の祈願、一万石を寄進するとともに社殿を造営した。その時の祈願文の追書に「尚以命之儀、三ケ年、不成者二年、実実不成者、三十日にても延命候様に被頼思召候」とあり、信心の程がうかがえる。その後も豊臣秀吉により社領等がたび免び寄進されている。江戸時代に入り、元和元年(1615)には、社殿が炎上した。寛永5年(1628〉将軍秀忠より三五〇石の朱印領が寄進され、慶安4年(1651)、彦根藩より一五〇石の黒印領が付せられた。寛永10年(1633)には、幕命により社殿の大造営が始まり、寛永15年(1638)には、境内外末社にいたる全造営工事が終った。 安永2年(1773)4月には、社殿再び炎上し、ことごとく焼失、彦根藩主より仮普請助成として玄米一〇〇俵の寄進があるととも、同年、社殿再建のため将軍家より諸国勧化及び大阪において一〇力年間富銀の興行が許可された。天明2年(1782)にも火災があり、寛政元年(1789)には将軍家より銀100枚の寄進があり、同3年暴風のため再建の社殿が倒潰するに際し、彦根藩より玄米100俵の寄付があり、享和3年(1803)には木材300本が寄付された。 明治に至り、10年に県社兼郷社に列せられ、同18年4月には、官幣中社、大正3年(1914)には、官幣大社に昇格した。昭和になって、4年に本殿改築が始まり、7年に完成、本殿遷座祭が行われた。例祭4月22日。多賀まつりとも馬頭人の祭礼とも呼ばれ、鎌倉時代を再現した祭り絵巻がくりひろげられる。この祭は、その年の正月三日に、主役たる「馬頭人」と御使殿が任命され、神事が始まる。馬頭人は各地の名望家の中から一失妻が、「御使殿」は氏子の子弟の中から選ばれる。祭の当日は、約五〇頭の馬に乗った人と約100人の奉仕者による神輿渡御があり、馬頭人と御使殿は別方向に行き、最後に両行列が合流、諸種の神事が行われる。その他六月に御田植祭、八月には万灯祭、11月の大宮祭等、数多くの神事が行われる。 神社辞典 |
多何神社 二座 多何は假字也、和名抄、(郷名部)田可、○祭神伊弉諾尊、伊弊冊尊、○多賀郷多賀村に在す○永万記、田呵社、 古事記上に、伊邪那岐大神者、坐淡海之多賀也、」神書抄曰、日之少宮者、近江國犬上郡多賀大明神是也、近江在艮方、日之所初出也、故曰日之少宮、出雲杵築宮在乾方、故曰、日隅宮、日之所入也、(神社考) 社領 高350石 神社覈録 |