馬見岡綿向神社
うまみおかわたむきじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】馬見岡神社 二座 近江国 蒲生郡鎮座
          (奥宮)大嵩神社

   【現社名】馬見岡綿向神社
   【住所】滋賀県蒲生郡日野町村井705
       北緯35度0分53秒,東経136度15分42秒
   【祭神】天穗日命 天夷鳥命 武三熊大人
   【例祭】5月3日 春季例大祭
   【社格】旧県社
   【由緒】欽明天皇6年始て社を綿向山に建
       天武天皇12年篠谷に移す
       延暦15年(796)に里宮として、現在の地に遷
       嘉応2年(1170年)春季例大祭創設
       明冶9年郷社
       同42年県社

   【関係氏族】
   【鎮座地】当初鎮座の地は綿向山
        延暦15年(796)に里宮として、現在の地に遷

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「日野大宮」「綿向大明神」と称していた
   【公式HP】 馬見岡綿向神社
   【社殿】本殿入母屋造檜皮葺
       拝殿・神輿庫・社務所

   【境内社】村井御前社・安平稲荷神社・富士浅間神社・玉影社
        蛭子神社・神明神社・社日社・笠懸神社・大嵩神社・佐久奈度神社


蒲生上郡の総社、日野の大宮として篤く信仰されてきた。
神武天皇の時代彦健忍雄心命が、出雲より天穂日命を綿向山頂に祀ったのが創祀。
現在は綿向山の山頂に祀られている大嵩神社の里宮とされている。
平安時代の初期の796年(延暦15年)に現在の地に移転されたとされている。


馬見岡綿向神社

馬見岡綿向神社
本殿:滋賀県指定有形文化財
馬 見 岡 綿 向 神 社
滋賀県蒲生郡日野町村井 705番地
TEL 0748−52−0131
FAX 0748−52−0226
馬見岡綿向神社(うまみおかわたむきじんじゃ)
滋賀県蒲生郡日野町村井
  【御 祭 神】
  ●天穂日命(あめのほひのみこと)
  ●天夷烏命(あめのひなどりのみこと) 
  ●武三熊大人命(たけみくまうしのみこと) 
綿 向 山
【御 由 緒】
当神社の起りは、 近江国の東方に連なる鈴鹿山脈の南端に、気高く聳える霊峰『綿向山』の頂上に、神武天皇の御宇、出雲国の開拓の祖神を迎え祀り、欽明天皇6年(西暦545年)その頂上に祠を建てたのが始りと伝える。
その後、平安時代の初期延暦15年(796年)に里宮として現在の地に遷し祀られたという。以来、延喜式神名帳にもその名が見え、蒲生上郡の総社、日野の大宮として、何時の時代も当地の産土神と、人々の信仰の中心となってきた。殊に鎌倉時代から安土桃山時代にかけて、この地の領主であった蒲生氏一族は、氏神として尊び庇護し、更に江戸時代に全国に名をはせた近江商人の内の日野商人達の巨万の財力に支えられ、出世開運の神として崇敬が集められ、明冶 9年郷社に、同42年県社に列せられた。そして今の世も氏子人等の心の拠り処と崇め親しまれている。
その始めを嘉応2年(1,170年)とする春季例大祭(5月2・3・4日)は日野祭と称し、3人の神稚児や3社の神輿、16基の曳山車を中心に、古式ゆかしく絢爛豪華に繰り広げられる祭礼は県下にも有名で、県の無形文化財に指定されている。
なほ、綿向山山頂(標高1,110米)に祀る奥之宮(大嵩神社)は古来より 20年毎に社殿を建て替える式年遷宮の祭事が、今も絶えることなく続けられている。
境内正面
本  殿
拝  殿
滋賀県指定有形文化財 馬見岡綿向神社本殿一棟
指定年月日    平成10年6月19日
現在の本殿は宝永 4年(1707)に再建されたが、大正6年(1917)に内陣を改造昭和58年(1983)に屋根を桧皮葺から銅版葺に改めた。平面は桁行(正面)梁間(側面)ともに三間で切目柵を廻し、正面に浜縁をつくる。屋根は入母屋造で正面に千鳥破風、軒唐破風造の向拝を付け、前面に向唐破風造の拝所を設ける。
この本殿は周囲に頭貫・内法長押を同高で廻す形式であるが、内部は内陣と外陣に分け、外陣の床を一段低くし開放的な建具とする。これは県下に遺構の多い前室付の三間社流造本殿に類似する。また建物の木割が太く成が高いこと及び装飾的彫刻の意匠も優れていることなどが特色である。
馬舎
神楽殿
絵馬殿 
手水舎
社務所
神輿蔵
主な祭礼・神事
 1月   1日   元旦祭(大戸開き)  6月 30日  大祓
      3日 元始祭         10月 1日 秋季例大祭(郷社祭)
      5日 カンジョウ縄吊り       18日 鉄火祭
     14日 どんど焼き       11月 3日 お火焚祭
     24日 御田植祭           25日 新嘗祭
 2月   3日  節分星祭       12月  31日 大祓・除夜祭
 2月  21日 祈年祭    
 4月  20日 (奥宮)大嵩神社例祭    
 5月   2日  毎月    1日 月首祭
      3日 春季例大祭(日野祭)       16日 月次祭 【 境内社】
 @村井御前社 
 A八幡宮    
 B榊御前社   
 C社日社     
 D猿田彦之神   
 E安平稲荷神社
 F富士浅間神社
 G竃之社     
 H稲置三麿神社
 I玉椿神社   
 J池之社・出雲神社
 K琴平神社   
 L神明神社   
 M天満宮(北野神社)
 N玉影神社(祖霊社)
 O蛭子神社    
 P大将軍神社  
【境外社】
 Q大嵩神社 〔綿向山頂〕
 R佐久奈度神社 〔綿向山の麓〕
 S笠懸神社 〔里宮 参道〕 
名所・旧 跡 な ど
◆千両松
 江戸時代の後期、日野商人の豪商の中で、伊豆の三島で醸造業を営んでいた辻惣兵衛は、儲けたお金を故郷の日野に持ち帰る為に、度々と三島と日野の間を行き来していたが、この頃街道を大金を持って往来することは、山賊などの危険にさらされ、至難のわざであった。そこで惣兵衛は考えた末、この大金を松の盆栽の鉢の中に隠し、故郷日野の本宅に無事帰ることができた。これは氏神様である綿向大神のご加護のお陰と感謝して、神社の境内にこの五葉松の木を植えた。現在も境内にその木が残っており、『千両松』と呼んでいる
◆若松の杜
 日野に生まれた戦国の武将 蒲生氏郷公は後の天正18年(1590)に会津黒川城主となった時、縁起をかついだ氏郷公は黒川の名前を変えようと考え、故郷日野町で蒲生 氏の氏神と崇めた綿向神社参道の「若松の杜」からその名をとり、「会津若松」と改称した。古文書によれば、江戸時代中期の明和年間に松が枯れ、伐り除かれてその後人家が建ったようである が、「会津若松」の呼び名は今も用いられ、その名ごりを残している。
◆祭礼大絵馬
 絵馬殿に掲げられた多くの絵馬の中に、畳4枚分程とひときわ大きな絵馬には、天正年間の祭礼のお渡りの様子が細やかに描かれている。 蒲生氏郷公が生まれられたお祝いとして殊に盛大に行われた祭礼を、後の世の文化9年(1812)に日野の代表的か画家である谷田輔長が描いたものである。奉納者は全国にその名をはせた日野の豪商中井家であり、この絵馬を奉納せんが為に、絵馬殿を寄進したと伝えられている。このほか境内にある拝殿・馬舎・水舎など中井家の一建立である。
◆御前桜
 昔、綿向の森を「置目の森」と称した。すなわち顕宗天皇に仕えた村井御前(置目)を祀った社〔境内末社参照〕のある故である。綿向神社は当時篠谷の馬見岡という処に鎮座していたが、延暦15年(796)その地より突如として白雲が舞い上がり、その中には2羽の雁がおり、雲とともに置目の森のこの桜に舞い降りた。この奇瑞によってその時より綿向神社をこの地に遷し祀ったと伝えられている。この故事により綿向神社の御神紋は「雲に二羽雁」となり、桜樹は「御前桜」と呼ばれ、幾代目かの樹が、今も春には八重の花をつける。
◆石灯籠 日野商人奉納 
  境内には形の異なる大小多くの石灯籠がある。最古のものは、鎌倉時代の様式を伝え、重要美術品にも指定された価値あるものである。御本殿前に据えられた石灯籠は、元禄11年(1698)日野出身で上州で商いをしていた商人中で 奉納したものであ り、また御手洗川岸にある大灯籠は文化9年(1812)建立されたが、地震で倒壊した為、文政2年(1819)に123名の篤志者によって再建されている。このほかにも日野商人などの名が刻まれたものが沢山あ り、日野商人の信仰の歴史を見ることができる。
◆石灯籠 国指定重要美術品 (鎌倉時代)
 当神社の最古の現存品とも云うべきものが、この石灯籠である。年代は刻まれていないが、鎌倉時代の様式をよく残している。

公式HP



馬見岡綿向神社

御祭神  天穂日命・天夷鳥命・武三熊大人命 当社の起こりは、東方に気高く聳える綿向山の山頂に、仲哀天皇の御宇出雲国の開拓の祖神を迎え祀り、欽明天皇6年(545)その頂上に祠を建てたのが始まりと伝える。その後、平安時代の初期、延暦15年(796)に里宮として、現在の地に遷し祀られたという、以来、延喜式神名帳にもその名が見え、蒲生上郡の総社、日野の里の大宮として、何時の時代も当地の土産神と、人々の信仰の中心となってきた。殊に鎌倉時代から安土桃山時代にかけて、この地の領主であった蒲生氏一族は、氏神として尊び庇護し、更に江戸時代に全国に名を馳せた近江商人の内の日野商人達の巨万の財力にも支えられ、出世開運の神として崇敬が集められ、明治9年郷社に、同42年県社に列せられた。そして、今の世も氏子人等の心の拠り所と崇め親しまれている。
その始めを嘉応二年(1170)とする春季例大祭(三月2.3.4日)は日野祭と称し、三人の神稚児や、三社の神輿、十六基の曳き山車を中心に、古式ゆかしく絢爛豪華に繰り広げられる祭礼は県下にも有名で、県の無形文化財に指定されている。なお、綿向山頂に祀る奥之宮は古来より21年目毎に社殿を建て替える式年遷宮の祭事が今も絶えずに行われている。

社頭石碑



馬見岡綿向神社

御祭神  天穂日命・天夷鳥命・武三熊大人命
御由緒の概要
天穂日命は天照大神の第二皇子であられ二柱の命はその御子であらせられる。
出雲国の開拓の祖神であり国造の祖神である。今この神を此処に祭るのは命の後裔が此地にも又移住し繁栄したことによる。欽明天皇6年(545)綿向山頂に祠を建て天穂日命を御祀いて以来蒲生上郡の総社として一つに大宮とも申し当地方の産土神として尊崇されてきた。
延暦15年(796)四時の祭事に不便のため現在地に社殿を道営し奉った。その後御神徳高大に御霊験顕著にましまして後白河天皇を初め歴代の皇室武将の尊信篤く特に此地方を400余年に亘り領していた蒲生一族は産土神と崇め奉り守護してきた。
承元3年(1309)大永2年(1522)永禄6年(1583)、文禄5年(1595)の兵火及び戦火に遭い現在の本殿は寛永4年(1707)氏子が建立したものである。
天正12年(1584)蒲生氏郷勢州桜島へ転封の後は徳川将軍の庇護もあり日野商人の守護神とされ出世開運神又、養蚕祖神として神明の御加護をいただいている。
その初めを嘉応2年(1170)とする毎年5月2日3日4日に斉行される春の大祭は日野祭と称し県の無形文化財に指定されており、渡御祭典は芝田楽・三社の神輿・16輌の曳山車を中心として古式もゆかしく絢爛豪華を湖国の春に誇る。
綿向山(標高120m)の頂上に祀る奥之宮(大高神社)は古来21年目毎に此の地方の榧の木をもって建替られ正遷宮が行われる。

社頭掲示板



馬見岡綿向神社

滋賀県指定有形文化財
馬見岡綿向神社本殿一棟
所有者 馬見岡綿向神社
所在地 蒲生郡日野町大字村井
指定年月日 平成10年6月19日
馬見岡綿向神社は、綿向山頂に祠を建て天穂日命を祀ったことに始まる。平安時代初期、この地を里宮として社殿を造営し、中世から近世初期にかけて蒲生氏代々の庇護を受け、江戸詩代には日野出身の商人たちの崇敬を集め、社殿が整備されたと伝えられる。
現在の本殿は、宝永4年(1707)に再建されたが、大正6年(1917)に内陣を改造、昭和58年(1983)に屋根を桧皮葺から銅板葺に改めた。平面は桁行(正面)、梁間(側面)ともに三間で、周囲に切目縁を廻し、正面に浜組をつくる。屋根は入母屋造で、正面に干鳥破風、軒唐破風造の向拝を付け、前面に向唐破風造の拝所を設ける。
この本殿は、周囲に頭貫・内法長押を同高で廻す形式であるが、内部は内陣と外陣に分け、外陣の床を一段低くし、開放的な建具とする。これは県下に遺構の多い前室付の三間社流造本殿に類似する。また建物の木割が太く、成が高いこと及び装飾的彫刻の意匠も優れていることなどが特色である。
平成11年3月
滋賀県教育委員会

社頭掲示板



馬見岡綿向神社

社伝に神武天皇の時、彦健忍雄心命が出雲国より天穂日命に供奉し来り綿向山に鎮祀した。欽明天皇6年、蒲生稲置三磨山部連羽咋に託宣ありて創めて祠を造営す。天武天皇12年、篠谷川厩上の地に奉遷す。此地に天夷鳥命の祠がありて合せて祀る。更に延暦15年現在の地に遷座する。延喜式神明帳に祀する馬見岡神社の論社である。其後、後白河天皇勅願の事あり、又高倉天皇は安元2年勅額を奉納され、治承2年中宮建礼門院御安産の祈願等社伝に記されている。文治元年、後鳥羽天皇勅願あり。神主出雲宿禰の家は上古より連綿と奉仕し新撰姓氏録左京神別に出雲宿禰天穂日命子天夷鳥命之後也と見え出雲家が古くから奉仕していた。遠孫出雲貞尚の時北朝の戦禍あり建武5年五辻宮守良親王足利氏に抗す、貞尚は志を親王に通ず。康正3年蒲生貞秀は神田畠三箇所を免税とし毎年神共を献じている。弘治3年蒲生定秀は祭礼を再興し、蒲生氏の一族及び家臣郎党領内120人郷の郷土を集め再興した。天亀2年蒲生賢秀の協力を得て社殿を造営す、天正12年羽柴秀吉剣一口を奉納す。同15年社殿を修造する。蒲生氏郷の援助を得る。慶長8年徳川家康より社領十石を寄附す。以来社領十石の寄進を受ける。将軍家光のとき朱印状を受け代々の将軍より社領安堵の朱印状を受けた。寛文3年神主重信の時に神仏分離を行い社僧を廃す。宝永5年徳川綱重の代官竹田喜左衛門政為は社殿を修造する。享保18年宝鐘寺宮理豊尼公御不例に際し当社に祈願あり、後菊花紋章の提燈を寄附される。享和3年氏人中井良祐光武拝殿を造営す、是より先天明4年光武の子尚武舞殿を寄附す。文化6年更に絵馬殿を造営す。現在の本殿は宝永4年蒲生家の家臣勝長半兵衛なる者が、宮奉行となり氏子中の寄進により建立されたものである。明治9年郷社に列し、19年内務省より保存資金百円を下賜、同26年有栖川宮熾仁親王神号の額を揮毫、同40年県社に列す。

滋賀県神社庁



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