小野神社
おのじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】小野神社 二座(名神大) 近江国 滋賀郡鎮座
          (境外末社)小野道風神社

   【現社名】小野神社
   【住所】滋賀県大津市小野1961
       北緯35度9分11秒,東経135度55分12秒
   【祭神】天足彦国押人命 米餠搗大使主命
   【例祭】9月5日 例大祭
   【社格】旧郷社
   【由緒】宝亀3年(772)4月史書記載あり『続日本紀』
       承和元年(834)2月記載史書記載あり『続日本紀』
       承和3年5月従位下
       貞観4年(862)従四位下(三実實録)
       元亀兵乱で神領を没収
       近世比叡山の支配下に在つて存続
       明治24年2月郷社
       大正15年9月神饌幣帛供進神社


   【関係氏族】小野氏
   【鎮座地】移転の記録はない

   【祭祀対象】氏祖
   【祭祀】
   【公式HP】 小野神社
   【社殿】本殿三間社流造
       

   【境内社】

古代氏族である小野氏の居住区域の中心で、 小野妹子の出生地と考えられている神社。


由緒

小野神社は小野一族の祖であると共に餅及菓子の匠・司の始祖である第五代孝昭天皇の第一皇子天足彦国押人命と同命から数えて七代目の米餠搗大使主命の二神を祀る。
今から一千年前の延喜式の神名帖に滋賀郡大三座の内小野神社二座、名神大社(官幣大社の意)とある古社である。
古事記によれば天足彦国押人命は孝昭天皇と尾張国の連(むらじ)の娘余曽多木比命との間にお生れになった第一皇子で春日、大宅、栗田、小野、栃木、大阪、安濃、多岐、羽栗、都怒山、伊勢、飯南、一志、近江、の国造の祖であると記されている。 又、日本書紀には大和和邇(やまとわに)の祖であるとも記されている。
大和朝廷成立以前この地において、今の大阪府、京都府、奈良県、三重県、愛知県、滋賀県の広い地域を統治されていた王族であり、諸国に多い小野の地名、氏族の発生地、祖神でもある。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年




小野神社

小野神社は、延長5年(927)完成の「延喜式」神名帳に「小野神社二座名神大」とあり、日吉神社と並ぶ官幣大社であった。現在の社殿は、江戸時代に再建されたと伝えられている。
祭神は、明治時代にできた「小野神社明細帳」によると、第五代天皇孝昭天皇の第一皇子、天足彦国押人命とその七世の孫、米餅搗大使主命である。
米餅搗大使主命は、応神天皇の頃に日本で最初に餅をついた餅作りの始祖といわれ、現在ではお菓子の神様として信仰を集めている。
この神社は、小野妹子、小野篁、小野道風などを生んだ古代の名族小野氏の氏神社である。推古天皇の代に小野妹子が先祖を祀って創建したと伝える。
平安時代、小野篁(802〜852)のときに、同族が小野神社に集まって氏神を祀ったことは、「続日本後記」にくわしく載っている。

社頭掲示板



小野神社

祭神
大足産国押人命(あまたらしひこくにおしひとのみこと)
米餅搗大使主命(たがねつきおほおみのみこと)

由緒
小野神社は小野一族の祖であると共に餅及菓子の匠・司の始祖である第五代孝昭天皇の第一皇子大足彦国押人命と同命から数えて七代目の米餅搗大使主命の二神を祀る。
今から一千年前の延喜式の神名帖に滋賀郡大三座の内小野神社一座、名神大社(官幣大社の意)とある古社である。古事記によれば大足彦国押人命は孝昭天皇と尾張国の連の娘余曽多木比売との間にお生れになった第一皇子で春日、大宅、栗田、小野、栃木、大坂、安濃、多岐、羽粟、都怒山、伊勢、飯南、一志、近江、の国造の祖であると記されている。又、日本書紀には大和和迩の祖であるとも記されている。大和朝廷成立以前この地において、今の大阪府、京都府、奈良県、三重県、愛知県、滋賀県の広い地域を統治されていた王族であり、諸国に多い小野の地名、氏族の発生地、祖神でもある。
外交・華道の祖神 小野妹子神社(祭神・小野妹子命) 推古朝の廷臣、妹子は遣隋使として外国に行かれた先駆者である。西暦六○七年聖徳太子が中国の隋朝と外交を開くに当り、遣隋使となり国書をもって渡海する。それには「日出ずる国の天子日没する国の天子に書をいたす」と記され、大国隋へ対等の外交交渉を拓り開き日本の力を海外に示された外交史上有名な神徳の高い祭神である。今も神社へは外交官、駐在員の参拝が多い。又、妹子は華道の創設者として、今も華道家元「池の坊」によって免許の投与が受け継がれている。社殿は古墳上にあり、境内からは琵琶湖が一望できる景勝の地にある。

学問・使節の神 小野篁神社(祭神・小野篁命)
平安前期(西暦802年−852年)、参議吟守の子、漢学著、歌人。西暦834年遣唐副便を命じられ、836年に出発。しかしこの度は暴風雨にあって遣唐使の目的を断念する。838年再度、遣唐副便に任じられたが大使藤原常嗣との折合いが悪くなり渡唐をとりやめる。この時「西道謡」を作って遣唐の役を風刺した為、嵯峨上皇によって篁は隠岐島へちっ居される。三年後許されて帰京、昇進を重ねて参議、従三位となる。「参議」は大政官の官名、政務審議の構成員で大、中納言につぐ要職である。篁は漢詩文にすぐれ勅を奉して「令義解」の撰進に参加している。篁の詩は「経国集」「和漢朗詠集」「扶桑集」「本朝文粋」に収められ、和歌は「古今集」に六首、「篁日記」は後人の作で、篁の歌を中心とした歌物語である。野相公、野宰相ともよばれている。百人一首に わたのはら八十島かけてこぎいでぬと 人には告げよあまのつりぶね の歌がある。社殿は祭神の古墳上にある。建物は旧国宝、現在重要文化財である。

書道・学間の神 小野道風神社(祭神・小野匠守道風命)
西暦894年−966年、平安中期の書家、小野篁の孫。父は太宰大弐をつとめた葛絃。醍醐、朱雀、村上三朝に歴任。柳に飛付く蛙の姿を見て発奮努力して、文筆の極地に達せられ、藤原佐理、藤原行成と共に日本三大文筆、三跡の一人として文筆の神として崇められている。66歳の時に大徳詩合の清書をして「能書之絶妙也、義之再生」と賞賛されている。祭神道風の書風はこれ迄の中国の書風を放れ穏やかな整った和様、日本的な書の典型として長く後世迄尊ばれている。真跡として「屏風土代」「玉泉帖」などがある。又、祭神は菓子の体型を創造された事により匠守の称号を賜わられ、菓子業の功績者に匠、司の称号を授与する事を勅許されていた事を知る人は少ない。菓子の匠、司の免許の授与は現在は絶えているが、老舗の屋号に匠、司が使用される事は現在もその名残りとして受け継がれてきている匠、司の称号が祭神からでている事を鑑みても、遠く祖神がしとぎをつくられた小野一族からの継承が窺える。小野神社の祭神が我が国の文化、特に菓道、華道の創生発展に、永い歴史の上において、如何に努力されてきたかを知る事ができる。建物は旧国宝、現在重要文化財。

古式大祭 しとぎ(字形=次の下は食)大祭のいわれ
米餅搗大使主命は延喜式の神名帖より古い新撰姓氏録(1160年前)によれば応神天皇の時我が国で初めて菓子、餅、の元である(しとぎ)を作られたので、米餅搗(たがねつき)の姓を賜わったと記されている。今も神社では1200年来伝承している古式しとぎ祭が11月2日に行なわれている。同じく10月20日には国内の菓子業界代表者によるしとぎ奉賛会奉仕のしとぎ大祭が行なわれる。この春祭には新穀の新米を前日より水に浸しておき、生のまま木口で搗き堅め藁の「ツト」に納豆の様に包んだ「しとぎ」を中心に、竹馬の酒と称して青竹に入れた酒、青竹に入れた蜂蜜、山の菓と称して栗、水の菓と称して菱が献供される。又、毎年5月10日は神社の境内の神田(通称浮ヶの谷)に於いて、しとぎの餅米を作る御田埴祭が斎行され、10月2日にはぬき穂祭が執り行われる。この御田埴祭は現在日本各地で行なわれている御田植祭の最も古い形のものである。
▼しとぎについて
しとぎと言う言葉が歴史の上に現われてくるのは今より三千年の昔、中国の周朝廟の神饌品中に出てくる。然しこのしとぎは只のウルチを飯に炊き飯を捻り堅めた団子であり、餅の元祖ではない。餅の品種は小野の祭神がウルチより品種を改良創り出されたものである。新米はウルチと全然異った品種である。沃度反応も反対。アミノペプシン百%の純粋のもの。細胞組織も反対の網の目の様な構造である。現在でもわざとウルチを加えた餅を神の名であるタガネの名を冠してタガネ餅と称している。又、祭神はこれ迄湿地々帯にのみ限られて栽培された為に収穫の少なかった原始農法による米作を、古代氏族のタガネ族といわれた一族のもつ石垣積みの技術を導入して、近代的な農業に創出されて広い日本の全土に新種の米を栽培され、主食の王座になる程取穫が出来る様に生産高を上げられた。
又、栗や菱と餅及び蜂蜜を使って現在の菓子の元を作られた。

主な祭典
歳且祭 1月1日
析年祭 1月18日
小野道風、篁神社例祭 5月5日(両神社二基の神輿渡御神幸祭)
御田植祭 5月10日(古式に則った御田植祭)
小野妹子神社例祭 8月第一日曜日(小野妹子命が遣隋使として派遣された記念日)
小野神社例祭 9月5日
しとぎ奉賛大祭 10月20日(小野神社しとぎ奉賛会の菓子業界の大祭)
しとぎ祭 11月2日(小野地区に於いて1200年来つづいてきている祭典)
新嘗祭 11月28日
大祓式 12月28日

由緒書



小野篁神社本殿

重要文化財
小野篁神社本殿
切妻造平入の本殿は、主国的に遺構が少なく、県下の重要文化財では天皇神社を加えて3棟にすぎない。
この本殿は、道風神社本殿と同しく暦応4年(1341)頃の建築と考えられ、規摸は3棟中最も大きく、木割が太く量感畳がてある。船肘木は母屋隅柱上だけに置き、側面中央柱上の大斗肘木の絵模様彫刻や外陣の小組各天井はよく当時の様式を示しているが、向拝部分の柱、組物、手峡、蟇股およひ軒先材料まで江戸時代の取替え材になってしまったのは惜しまれる。
小野篁(802〜852)は、平安時代前期の公卿・文人・最高位が参議であったため、野宰相と呼ばれた。少年時代は、乗馬にのみ専心して字問を顧みなかったが、後に学問に専心して漢詩文で名をあげた。
重要文化財 小野神社境内小野篁神社本殿 一棟
明治40年8月28日指定
桁行三間、梁間二間、一重、切妻造
向拝一間、桧皮葺、南北朝時代
祭神 小野篁
寸法
身舎
桁行柱真々間 16尺5寸6分 (5.018m)
梁間柱真々間 10尺1寸  (3.060m)
棟高     20尺2寸  (6.121m)
軒高     11尺3寸  (3.424m)
向拝
桁行柱真々間  7尺1寸  (2.151m)
梁間柱真々間  8尺2寸  (2.484m)
棟高      9尺9寸  (3.000m)
平成2年3月
志賀町教育委員会

社頭掲示板




小野神社

重要文化財
小野神社境内社篁神社本殿
明治40年8月28日指定
小野神社は、小野妹子の出生地とみられ、篁神社は小野篁を祀る。
現在の本殿は、室町代前期に建られ、形式は三間社の切妻造に一間の向拝が付く。切妻造平入りの本殿は遺構が少なく貴重な建物である。
重要文化財
小野神社飛地境内社道風神社本殿
明治40年8月28日指定
道風神社は、祭神に小野道風を祀る。現在の本殿は暦応4年(1341)に建てられ、形式は三間社の切妻造に一間の向拝が付く。篁神社本殿より規模はやや小さいが、重量感のある優れた本殿である。
昭和63年3月
滋賀県教育委員会

社頭掲示板



小野神社

明細書によれば創立年代不詳であるが、社記によると当社は延喜式名神大社で、御祭神天足彦国押人命は孝昭天皇の第一皇子で、近江国造の祖である。また米餅搗大使主命はその七世の孫でもとの名を日布礼大使主命と呼んだ。応神天皇の時代にはじめて餅を作ったことから、日本餅造の始祖とされる。推古天皇の時代に小野朝臣妹子がこの地に住んで氏神社として奉祀したと伝えられる。明治24年郷社に加列。境内社の小野篁神社は平安初期の漢学者で詩人、歌人としても名の高かった小野篁を祀った神社で、社殿は暦応3年に佐々木六角により建立されたと伝えられる、三間社流造で重文である。また飛地境内社の小野道風神社は、小野道風を祀り、社殿は同じく三間社流造であり興国2年鎮座と伝えられる。

滋賀県神社庁



小野神社

祭神   天足彦国押入命
  (あまたらしひこくにおしひとのみこと)
 米餠搗大使主命
  (たがねつきおほおみのみこと)
由緒
 小野神社は小野一族の祖であると共に餠及菓子の匠・司の始祖である第五代孝昭天皇の第一皇子天足彦国押人命と同命から数えて七代目の米餠搗大使主命の二神を祀る。
 今から一千年前の延喜式の神名帖に滋賀郡大三座の内小野神社二座、名神大社(官幣大社の意)とある古社である。
 古事記によれば天足彦国押入命は孝昭天皇と尾張国の連(むらじ)の娘余曽多木比売との間にお生れになった第一皇子で春日、大宅、粟田、小野、栃木、大坂、安濃、多岐、羽栗、都怒山、伊勢、飯南、一志、近江、の国造(くにのみやつこ)の祖であると記されている。
 又、日本書紀には大和和邇(わに)の祖であるとも記されている。
 大和朝廷成立以前この地において、今の大阪府、京都府、奈良県、三重県、愛知県、滋賀県の広い地域を統治されていた王族であり、諸国に多い小野の地名、氏族の発生地、祖神でもある。
 後裔の小野道風が菓子業の功績者に匠、司の称号を授与する事を勅許されていた事を知る人は少ない。
 菓子の匠、司の免許の授与は現在は絶えているが、老舗の屋号に匠、司が使用される事は現在もその名残りとして受け継がれてきている。遠く祭神が餐(しとぎ)をつくられ、小野一族からの継承が窺える。

社頭掲示板



小野神社

小野神社は小野一族の祖であると共に餅及菓子の匠・司の始祖である第五代孝昭天皇の第一皇太子天足彦国押人命と同命から数えて七代目の米餅搗大使主命の二神を祀る。
 今から1100年前の延喜式の神名帳に滋賀郡第三座の内小野神社二座、名神大社(官幣大社の意)とある古社である。
 古事記によれば天足彦国押人命は孝昭天皇と尾張国の連(むらじ)の娘余曽多木比売との間にお生まれになった第一子皇子で春日、大宅、粟田、小野、柿本、大坂、安濃、多岐、羽栗、都怒山、伊勢、飯高、一志、近江の国造の祖であると記されている。
 また日本書紀には大和朝廷成立以前にこの地において、今の大阪府、京都府、奈良県、三重県、愛知県、滋賀県の広い地域を統治されていた名族であり、諸国に多い小野の地名、氏族の発祥地、祖神でもある。

公式HP



小野神社二座 名神大

小野は哀能と訓べし○祭神小野氏祖、(其神号詳ならず)〇和邇庄小野村に在す、(考証に、二社相並と云り、)○式三、(臨時祭)名神祭二百八十五座、近江國小野神社二座、
類聚國史、弘仁4年10月丁未、從四位下左中弁兼摂津守小野朝臣野主等言、援女之興、國史詳矣、其後不絶、今猶見在、又緩女養田、近江國和邇村、山城国小野郷、今小野臣和邇部臣等、既非其氏、被貢援女、熟捜事緒、二氏之中、貧人之利田、不顧恥辱、拙吏相容無加督察也、云々、』類聚三代格、援女之養田、在近江國和邇村、山城國小野郷、云々、」姓氏録、(左京皇別下)小野朝臣、大春日朝臣同祖、彦姥津命五世孫米餅搗大使主命之後也、大徳小野臣妹子、家于近江國滋賀郡小野村、因以爲氏、」又云、、大春日布留栗田、又云、和邇部臣、和邇部朝臣、」古事記、(孝徳段)天押帯日子命者、小野臣之祖也、』続日本後紀、承和元年2月辛丑、小野氏神社在近江国滋賀郡、敕、聴彼氏五位以上、毎至春秋之祭、不待官符、永以往還、同4年2月癸卯、敕、聴大春日、布瑠、栗田三氏五位以上准小野氏、春秋二祠時不待官符、向在近江國滋賀郡氏神社
類社
(欠く)
神位
続日本後紀、承和3年5月庚子、授无位小野神從五位下、依遣唐副使小野朝臣篁申也」三代實録、貞観4年12月22日丙辰、近江國正五位上小野神、授從四位下、
封戸
続日本紀、宝亀3年4月己卯、震西大寺西塔、ト之、採近江國滋賀郡小野社木、構塔爲崇、充当郡戸二姻、

神社覈録



詳細ボタン


近江国INDEXへ        TOPページへ


学校統廃合