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【篁卿の御歌】 篁卿の御歌 百人一首十一番 文科功労者・芸術院会員、日比野光鳳書 和歌山県近藤清一氏寄贈 承和6年正月「京なる人につかはしける」小野篁(38才) 『わたの原 八十島かけて漕ぎ出でぬと 人には告げよ 海人の釣船』 ※大海原に隠岐島へ配流されるが、私は晴天白日であるから漁師の釣り船の如く悠然として身も心も達者であることを都の人々に伝えよ。 研究家によると、小町は父である篁に次の答歌をしている。 小野小町の答歌 承和6年正月「おきのみやこでしま」小野小町(15才) 『おきをいて みをやくよりも わびしきは みやこでしまの わかれなりけり』 ※燠火で(隠岐と燠の懸詞)身を焼くように悲しく、侘しく心細く、不安であるのは都と島の別れです。 この贈答歌は文学的手法を超えた切実さがあり和歌史上の傑作で小町においては歌壇でのデビュー作であろうか。 社頭掲示板 |
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【小野小町】 小町は平安前期の女流歌人で史料の乏しさと伝承の混乱があるが本名は小野吉子とする研究家がある。 系図によれば小野篁の孫とされるが年齢的に篁の娘とする学者もある。 生没年は天長3年(826年)〜昌泰3年(900年)年頃と考えられるが詳しいことは不明。 篁が隠岐島配流から召還され本位に復した承和9年(842年)17歳で宮中に入り、文徳天皇の更衣であったとする説がある。当時の有名歌人らと親交があり上級女官として長年宮中に仕えたとされる。 寛平8年(896年)71歳で正四位上に叙任し昌泰元年(898年)5月73歳の時に醍醐天皇の宣旨により雨乞い歌を献歌した二年後に没したとされる。 彼女の歌は後の紫式部ら王朝女流文学の草分けとなった。 小町はこの歌からも美女であった事がうかがえる 『花の色は移りにけりないたづらに我が身世にふるながめせしまに』 社頭掲示板 |
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小野篁神社 学問・使節の神 小野篁神社(祭神・参議小野篁命) 平安前期(西暦802年〜852年)、参議岑守の子、漢学者、歌人。西暦834年遣唐副使を命じられ、836年に出発。しかしこの度は暴風雨にあって遣唐使の目的を断念する。838年再度、遣唐副使に任じられたが大使藤原常嗣との折合いが悪くなり渡唐をとりやめる。この時「西道謡」を作って遣唐の役を風刺した為、嵯峨上皇によって篁は隠岐島へちっ居される。三年後許されて帰京、昇進を重ねて参議、従三位となる。「参議」は太政官の官名、政務審議の構成員で大、中納言につぐ要職である。 篁は漢詩文にすぐれ勅を奉じて「令義解」の撰進に参加している。篁の詩は「経国集」「和漢朗詠集」「扶桑集」「本朝文粋」に収められ、和歌は「古今集」に六首、「篁日記」は後人の作で、篁の歌を中心とした歌物語である。野相公、野宰相ともよばれている。 百人一首に『わたの原八十島かけてこぎいでぬと人には告げよあまのつりぶね』の歌がある。 社殿は祭神の古墳上にある。建物は旧国宝、現在重要文化財である。 社頭掲示板 |
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小野神社 おのじんじゃ 滋賀県滋賀郡志賀町小野。旧郷社。天足彦国押人命。米餅搗大使臣命を祀る。天足彦国押人命は孝昭天皇の弟一皇子で近江国造の祖であり、米餅搗大使臣命は天足彦国押人命七世の孫であり、ともに小野氏の祖神である。『新撰姓氏録』に小野妹子がこの小野村に住んだことから氏としたとある。このことから同族の人がその祖神を祀ったものであるとうかがわれる。光仁天皇宝亀3年(772)4月小野社木を採って西大寺の塔を造ったところが、神崇があったので本郡の戸二姻をあて、神意を慰めた。仁明天皇承和2年(836)5月に遣唐使小野篁の奏請によって無位小野神に初めて従五位下が授けられ、清和天皇貞観4年(862)に従四位下となり、延喜の制名神大社に預かり、以後領主藩主の篤い崇敬をうけた。例祭9月5日。なお境内の小野篁神社本殿は国宝建造物に指定されている。 社頭掲示板 |
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郷社 小野神社 祭神 天足彦國押人命 米餅搗大使臣命 按ずるに祭神天足彦押人命は孝昭天皇の皇子に座まし、米餅搗大使臣命は彦國押人命の御子(又御孫とも云ふ)彦姥津命五世に坐まして、共に小野氏の氏神なり(姓氏録、古事記、本社創建年代は詳ならずと雖も、推古天皇の朝遣隋大使となりて世にその名高き大徳小野妹子は、即ち此の小野村に住し、因つて以て氏とせる由姓氏録に見えたるを思ふに、同族の人の其の祖神を祀りたるものなること明らかなり、一説に本社祭神を伊弊諾、伊弊冉の二神となすものあれど(近江與地志略)信じがたし、光仁天皇の宝亀3年4月己卯西大寺の塔大に震ふ、之をトするに、当小野神社の神木を採つて其塔を造るが故なりといふ、因つて当郡の二戸を神領に充て、神意を慰め奉り(続日本紀)仁明天皇承和元年2月辛丑勅して、当社春秋の祭祀には、小野氏の人五位以上のものは官符を持たずして当社に往還するを許され、同3年5月庚子、初めて当社の神に從五位下を授け給ふ、之れ遣唐使小野朝臣の奏請に依つてなりと、同4年2月癸卯勅して、大春日粟田二氏の五位以上の者に、当社春秋の祭には、官符を待たずして当社に往来する事小野氏の如くなるを許さる、大春日粟田両氏も小野氏と同祖なればなり(続日本後紀新撰姓氏録)、尋いで清和天皇貞観4年12月22日、正五位上小野神に從四位下を授け給へる由三代実録に見えたり、蓋し其の以前に從五位より正五位に進ませ給ひしなり、醍醐天皇延喜の制二座并に名神大社に頂りたり(延喜式)明治6年郷社に列す。 境内1193坪(官有地第一種)、社殿は本鍛、拝殿等の建物を具へ、地は琵琶湖を距る事遠からず、当村の西部丘陵の上に在りて、登臨の美甚だ賞すべきものあり。 明治神社誌料 |