小野道風神社
おののとうふうじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】小野神社 二座(名神大) 近江国 滋賀郡鎮座
          (本社)小野神社

   【現社名】小野道風神社
   【住所】滋賀県大津市小野
       北緯35度8分59秒,東経135度55分16秒
   【祭神】小野道風
   【例祭】5月3日 篁・道風神社例祭
   【社格】
   【由緒】宝亀3年(772)4月史書記載あり『続日本紀』
       承和元年(834)2月記載史書記載あり『続日本紀』
       承和3年5月従位下
       貞観4年(862)従四位下(三実實録)

   【関係氏族】小野氏
   【鎮座地】移転の記録はない

   【祭祀対象】氏祖
   【祭祀】
   【公式HP】 小野道風神社
   【社殿】本殿
       

   【境内社】樹下神社・文殊神社・八坂神社

小野神社境外末社となっている。
当社の南には、唐臼山古墳があり、小野妹子の墓に比定されている。


小野道風神社本殿

重要文化財建造物
  小野道風神社本殿
 神社本殿は、大別して11種類であるが、全国的に遺構の多い三間社流造に対して切妻造に向拝を設けた本殿が当地に3棟残っているのは一種の地方色であろう。
 この本殿は、暦応4年(1341)の棟札銘により建立の様子がわかり、形式手法は小野篁神社本殿とよく似ている。向拝廻りは江戸時代に取替えられ木鼻や蟇股など建立時の形式を伝えていないが唐草彫刻の優秀な手挟は完存再用されており、側面中央柱上の肘木と共に南北朝時代の建築彫刻を知る好資料である。
 小野道風(894〜966)は、平安時代中期の書家。小野篁の孫にあたり、日本三蹟の一人である。和様の書の創始者ともいわれ、当時の書の第一人者である。道風が柳の木に飛付く蛙の姿を見て発奮努力したという話は、有名である。

社頭掲示板



小野神社

重要文化財
小野神社境内社篁神社本殿
明治40年8月28日指定
小野神社は、小野妹子の出生地とみられ、篁神社は小野篁を祀る。
現在の本殿は、室町代前期に建られ、形式は三間社の切妻造に一間の向拝が付く。切妻造平入りの本殿は遺構が少なく貴重な建物である。
重要文化財
小野神社飛地境内社道風神社本殿
明治40年8月28日指定
道風神社は、祭神に小野道風を祀る。現在の本殿は暦応4年(1341)に建てられ、形式は三間社の切妻造に一間の向拝が付く。篁神社本殿より規模はやや小さいが、重量感のある優れた本殿である。
昭和63年3月
滋賀県教育委員会

社頭掲示板



小野道風神社

重要文化財建造物
小野道風神社本殿
神社本殿は、大別して11種類であるが、全国的に遺構の多い三間社流造に対して切妻造に向拝を設けた本殿が当地に3棟残っているのは一種の地方色であろう。
この本殿は、暦応4年(1341)の棟札銘により建立の様子がわかり、形式手法は小野篁神社本殿とよく似ている。向拝廻りは江戸時代に取替えられ木鼻や蟇股など建立時の形式を伝えていないが唐草彫刻の優秀な手挟は完存再用されており、側面中央柱上の肘木と其に南北朝時代の建築彫刻を知る好資料である。
小野道風(894〜966)は、平安時代中期の書家、小野篁の孫にあたり、日本三蹟の一人である。和様の書の創始者ともいわれ、当時の書の第一人者である。
道風が柳の木に飛付く蛙の姿を見て発奮努力したという話は、有名である。
重要文化財 小野神社飛び地境内 道風神社本殿 一棟
明治40年8月28日指定
桁行三間、梁間二間、一重、切妻造
向拝一間、桧皮葺、南北朝時代
祭神 小野道風
寸法
身舎
桁行柱真々間 14尺6分    (4.424m)
梁間柱真々間  9尺6寸    (2.909m)
棟高     21尺3寸5分  (3.460m)
軒高     11尺1寸2分  (3.369m)
向拝 
桁行柱真々間  7尺5分    (2.136m)
梁間出柱真々間 8尺5分    (2.439m)
軒高      9尺4寸    (2.848m)
平成2年3月
志賀町教育委員会

社頭掲示板



道風神社本殿

重要文化財建造物
小野神社飛地境内社道風神社本殿
 神社本殿は流造(ながれづくり)の形式が多い中、小野神社飛地境内社道風神社(とうふうじんじゃ)本殿は全国的にも稀な切妻造(きりづまづくり)、平入(ひらいり)の本殿で、県内の重要文化財では、小野神社境内社篁(たかむら)神社本殿と近隣の天皇神社(てんのうじんじゃ)本殿を合わせて3棟を数えるにすぎません。建物の規模は、正面(桁行(けたゆき))三間、側面(梁間(はりま))二間で、全面に一間の庇(向拝(こうはい))を付けます。
 小野神社は『延喜式(えんぎしき)』に名神大社として記載されますが、道風神社は小野神社から南に500mほど離れた飛地に鎮座します。棟札の写から、南北朝期の歴応4年(1341)の建築であることがわかります。
 平面は、前方一間を外陣(げじん)、後方一間を内陣(ないじん)と内々陣(ないないじん)として3室に区切っています。切妻破風(きりづまはふ)や桁隠(けたかくし)の懸魚(けぎょ)、軒の茅負(かやおい)、向拝廻りの部材と縁、脇障子廻(わきしょうじまわり)、外陣正側面の建具等は後世の改造を受けていますが、内部は建立当初の姿をとどめ、唐草彫刻をもつ向拝柱上の手挟(たばさみ)も当初の材となります。
 祭神の小野道風(おののみちかぜ/とうふう)(894〜966)は、平安時代中期の書家で、小野篁(おののたかむら)の孫にあたります。藤原佐理(ふじわらのすけまさ)、藤原行成(ふじわらのゆきなり)とあわせて「三蹟(さんせき)」と呼ばれ、和様の書の基礎をきずいた人物として、よく知られています。
  平成22年7月 大津市教育委員会

社頭掲示板



小野道風神社

西暦894年〜966年、平安中期の書家、小野篁の孫。父は太宰大弐をつとめた葛絃(くずお)。醍醐、朱雀、村上三朝に歴任。柳に飛び付く蛙の姿(当摂社の入口にはこの作り物が作られている)を見て発奮努力して、文筆の極地に達せられ、藤原佐理(すけまさ)、藤原行成(ゆきなり)と共に日本三大文筆、三蹟の一人として文筆の神として崇められている。
六十六歳の時に天徳詩語合の清書をして「能書之絶妙也、義之再生」と賞賛されている。祭神道風の書風はこれまでの中国の書風を離れ穏やかな整った和様、日本的な書の典型として長く後世まで尊ばれている。真跡として「屏風土代」「玉泉帖」などがある。
 また、祭神は菓子の体形を創造された事により匠守の称号を賜わられ、菓子業の功績者に匠、司の称号を授与する事を勅許されていた。匠、司の免許の授与は現在は絶えているが、老舗の屋号に匠、司が使用される事は現在もその名残として受け継がれてきている。匠、司の称号が祭神からでている事を鑑みても、遠く祖神が餐(しとぎ)をつくられた小野一族からの継承が窺える。
 小野神社の祭神が日本の文化、特に菓道、華道の創世発展に永い歴史の上において、如何に努力されてきたかを知ることができる。建物は旧国宝、現在重要文化財。

公式HP



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