電気通信大学の東に接して鎮座する。 当地では古くから布を多摩川にさらして製造し、朝廷へ奉つた、その布を調布といつた。この調布作りにかかわった神社であろう。 もと多摩川のほとりの古天神(元天神とも)に鎮座していたが、洪水の難にかゝり文明9年(1477)現地へ遷祀した。 近世は広福山栄法寺を別当としていた。 |
布多天神社 布多天神社の創建はあまりに古く定かではありませんが、延長5年(927)に制定された「延喜式」という法典にその名を連ねる、多摩地方有数の古社で、社伝によれば垂仁天皇の御代の創建といわれております。文明9年(1477)に多摩川の洪水をさけ、古天神というところより現在地に遷座され、その時に、御祭神 少彦名神(すくなひこなのかみ)に菅原道真公を配祀されたそうです。江戸時代に甲州街道が作られ、上石原、下石原、上布田、下布田、国領の五宿ができ、布田五宿と呼ばれました。当時、布多天神社は布田五宿の総鎮守であり、五宿天神と崇め祀られておりました。そして布田五宿は、明治22年に飛田給、上ヶ給と合併して調布町となり、当社は調布町総鎮守となりました。 ご祭神 少彦名神 少名毘古那神(スクナヒコナノカミ) 神産巣日神(カミムスビノカミ)の御子神であられる。 大国主神(オオクニヌシノカミ)と兄弟神となり、相協力してこの国を作り堅められた。諸国を巡り、人々に多くの知恵や技術を授け、助け導かれた。経営の神、酒造の神、温泉の神、医薬の神として広く崇め祀られている。 当社では古くより虫封じ、病気平癒、健康祈願、商売繁盛の神事が行われている。また、大国主神(大黒さま)と共に恵比寿さまとして知られている。 菅原道真公 (スガワラノミチザネコウ) 承和12年(西暦845年)6月25日、京都菅原院にてご生誕。 幼き頃より秀で、33歳で文章博士になるほどの学者であられた。宇多天皇のご信任を受け右大臣にまで出世された。しかし、藤原氏に怨まれ、太宰権師(だざいのごんのそつ)に左遷された。大宰府では天を怨まず人を憤らず、誠の心をもって罪の晴れる日を待っておられたが、延喜3年(903)2月25日、配所で59歳の生涯を閉じられた。学問、特性ともに高かった菅公は、死後も人々に尊敬され、今もなお学問の神、書道の神、天神さまとして親しまれ、広く仰ぎ祀られている。 公式HP |
布多天神社 布多天神社は、延長5年(927)の「延喜式神名帳」に載る古社で、式内多摩八座のひとつです。調布の名称の発祥にまつわる話が伝えられています。境内で開かれる市の繁栄と商売繁昌を祈願して、氏子と商人が寛政8年(1796)に狛犬を建立しました。このことは、約200年前から、すでに天神の市が開かれていた事を示すものです。今も毎月25日には市がたちます。太閤秀吉の制札と狛犬は市指定文化財になっています。 社頭掲示板 |
布多天神社
市郷土資料(民俗資料) 布多天神社「狛犬」一対 指定年月日 昭和44年11月12日 この狛犬は、布多天神社境内で開かれる市(いち)の繁栄と商売繁昌を祈願して、寛政8年(1796)に建立された市内では最も古い狛犬である。 高さは狛犬50cm、台石上二段40cm、それに後年台石が高くされて全体で約2mとなっている。 願主は「惣氏子中」とならんで「惣商人中」とあるのは、今から200年前、すでに天神の市が境内で開かれていたことを物語る貴重な資料の一つである。 市(いち)は、今も毎月25日に開かれているが、昭和の初めごろまでは古着、古道具をはじめ、農機具、節句雛、鯉幟等、庶民生活と深い関係のある商品が取りあつかわれ、特に暮の市はたいへん賑っていた。 境内にある「橘屋一家功労碑」によりこの市の沿革の大要を知ることができる。 調布市教育委員会 社頭掲示板 |
布多天神社
市郷土資料 太閤の制札 指定年月日 昭和46年9月8日 布多天神社所蔵の太閤の制札は、豊臣秀吉が小田原の北条氏を攻略したおり、当地方の人心を安堵させるため天正18年(1590)4月、郷中に下したものである。 近世以前には布田の地名を補陀と書いたことなどがわかり、本市域における近世以前の唯一の制札として貴重な資料である。 大きさは縦39cm、横68cm、厚さ1.5cmで、材質はけやきである。 禁制 武蔵国多東郡補陀郷 一、軍勢甲乙入等濫妨狼籍之事 一、放火之事 一、対地下人百姓非分乏儀申懸事 右、条々堅令停止訖若於違犯輩者速可被処嚴科者也 天正18年4月日 御朱印 調布市教育委員会 社頭掲示板 |
布多天神社 市重宝(建造物) 布多天神社本殿 一棟 附棟札 一枚 指定 平成10年12月25五日 本殿は覆屋内にあり、外から見ることはできないが、一間社流造で、桁行一間、梁間一間の身舎(しんしゃ)の前に向拝の付く小社である。向拝の柱頭に象鼻や獅子頭を飾る。 軒は二軒(けん)、本繁垂木(ほんしげたるき)。屋根はこけら葺きである。 当本殿は、小粒ながら装飾等に江戸時代中期の特色が見られ、社蔵する宝永3年(1706)の棟札から、建立年代が明らかであることも貴重である。 平成12年12月1日建之 調布市教育委員会 社頭掲示板 |
布多天神社 桓武天皇延暦18年(799)、木綿の實始めて渡りしなれど、いまだ布に製することをしらず、其時多磨川邊に菅家の所縁にて、近国に名を顯はせし廣福長者といへるものあり、天神の社へ七昼夜参籠して、不思義に神の告を蒙り、布を製するの術を得て、多磨川にさらして、これをとゝのへ奉りぬ、是乃本朝木綿の初なりとかや、帝御感淺からず、即ち其布を調布とのたまへり、それより此邊武州調布里といへり、後に廣福長者の末孫菅原を修して、原永法となのり、この処にありしに、後菅神の肖像を造立して、布多天神に配祀せり、永法後に発心して、永法房と改め、草庵を結て両社の守りをなし、年月を送ける所に、永延年中に院號を下されて、廣福山常行院永法寺と號し、別当となしたまひしといふ。 『新編武蔵国風土記稿』貞応2年(1223)撰述の縁起 |
布多天神社 「布多」は調布(たづくり)(手作)と関係のあることばと考へられる。思ふに、「布」は太布(たふ)を意味し、その太布が多く産出される地といふことで、それが「布多」といふ地名となり、やがて社名となつたのではなからうか。したがつて、「布多天神社」とは布多(太布の多く産出する土地)にます立派な神社との意味であらう。 ちなみに、萬葉集巻十四の東歌に、「玉川に晒す調布、さらさらに、何ぞこの児の、こゝだかなしき」とある歌は、この地を詠んだものといふ。 式内社調査報告 |
布多天神社 当神社は延喜式神明帳[第六十代醍醐天皇の延長5年(927)につくられた書物]にも記されている。多摩郡でも有数の古社である。もと多摩川畔の布天神というところにあったが文明(1469-87)年間多摩川の洪水を避けて、現在地に遷座された。そのとき祭神少彦名命に菅原道真公を配祀したと伝えている。 また往古広福長者という人が、当社に七月七日参詣して神のお告げをうけ、布を多摩川にさらし調えて、朝廷に献った。これが本朝における木綿の初めという。帝この布を調布と名づけられ以来、この辺りを調布の里とよぶようになったといわれる。 ちなみに本殿宝永3年(1706)覆殿昭和40年幣殿拝殿向拝は昭和60年の造営にかかる。(社殿約170u) 七月二十五日の例祭日には奉納神楽があり、境内は市がたち参拝者で賑わう。末社に大鳥神社、金刀比羅神社、祓戸神社、御嶽神社、厳島神社、稲荷神社、疱瘡神社がある。( 社頭掲示板 |