豊田市の北端にそびえる三河の名峯猿投山の麓に鎮座する。 社名は鎮座地の土地状況に基く地名から名付けられたものと思われる。サは狡いナゲは薙ぎ落した様に崩れた所の意味と考えられる。 仲哀天皇元年の創始という。 三河国三宮として祭祀は継承されてきている。 猿投神社社殿脇には左鎌をかたどった板が安全祈願と名前が書かれて沢山奉納されている。祭神大碓命がこの地方を開拓された御神徳を慕い、古来より左鎌を奉納して諸願成就を祈願する特殊な信仰がある。左鎌なのは大碓命が左利きであった縁による。 |
由緒 1、創祀・沿革 猿投神社は豊田市の北端にそびえる三河の名峯猿投山の麓に鎮座する古社である。 創始は社伝によれば仲哀天皇元年勅願により現在の地に祀るとある。猿投山の東峯に東宮、西峯に西宮を祀り、本社、東宮、西宮を総称して古くより猿投三社大明神と厚く崇敬されれて来ている。 神階は文徳天皇仁寿元年(851)に従五位下、陽成天皇元慶元年(877)従四位下に叙位している。以後記録は絶え、昇叙について明確なことは判らないが、社蔵神号額(嘉元2年=1304)には「正一位猿投大明神」とあり、三河国国内神名帳にも「正一位猿投大明神」とあるので、正一位に昇叙したことが判る。 社格は延喜の制(967)では国幣の小社(三河国26座、賀茂7座)で、一宮制が施行されるや、砥鹿神社、知立神社についで三河三宮と称された。明治の新制度では、明治5年県社に列し、広沢天神社(延喜式内社)塞神社、小猿投社を合祀した(昭和になり広沢天神社は再び広沢の地で祀られるようになる)。明治中頃より国幣小社昇格を建議し、後年内定したが、大東亜戦争の終息によりその目的は達せられなかった。 神領は織田・豊臣二氏の先規により徳川家康公が776石(神社では三河国1位)の朱印を付し、明治維新まで続いた。此の外の武将も多くの神領を寄進したことが社蔵の寄進状によってしることが出来る。 2、御祭神 主祭神 大碓命 相殿 景行天皇(第12代) 垂仁天皇(第11代) 大碓命は景行天皇の第1皇子で、小碓命(日本武尊)とは同胞双生児である。日本書紀に、「大碓命が東征を欲せられなかった為に、美濃国(岐阜県)へ封ぜられ、三野国造の祖神の娘2人を妃とせられ、2皇子(押黒兄彦、押黒弟彦)を生む」云云とある。社蔵の縁起書(光仁天皇宝亀10年(779)に大伴家持、阿部東人による調査書)に「景行天皇52年(122)猿投山中にて蛇毒の為に薨ず、御年42歳、即ち山上に斂葬し奉る」云々とある。現在、西宮後方に御墓所がある。この地は古くより御墓所として伝えられて来たが、明治8年教部省の実地調査の結果、現在地を御墓所と確定し、以後守部、墓丁が置かれ現在に至っている。 3、大祭 祈年祭(2月17日)初午祭(旧暦2月初午の日)例祭(10月第2土・日曜日)新嘗祭(11月23日) 4、猿投祭と棒ノ手 古来当社例祭に三河、尾張、美濃3ケ国より献馬の事あり。旧暦9月8、9両日、3ケ国186ケ村はそれぞれ合宿をつくり、定められた時刻に境内に於て棒ノ手を奉納した。甚だ勇壮で血を見なければ納まらないとも言うので、ケンカ祭、シノギ祭とも称した。普通には重陽の節句に当たるので「節句祭」と言っている。8日に山上2社と本社の神輿渡御の神事、9日に例祭式典を斉行し、午後神輿還御の神事を斉行する。棒ノ手の起源については、東照軍艦に「天文23年(1554)岩崎城主(現日新町)丹羽勘助氏次の城下に於いて加賀の住人某が此の技を村民に教え、技に熟達した者を募り、軍装して猿投神社に奉納す」と記されている。流派は起倒、見当、鎌田、夢想の4流があり、その後門人によって34の流派を生じ、3ケ国に広まって行った。表、裏の両型があり、表型は棒、木刀を用い、裏型は真剱、槍、長刀、鎌、鎖鎌等の刃物を用う。かく盛大に行われた猿投祭も明治末頃より次第に各合宿よりの献馬も少なくなったが、昭和32年に棒ノ手が県の無形文化財(現在は無形民俗文化財)に指定され、各地に棒ノ手保存会が結成され、漸時盛大になってきている。 5、宝物 (1)太刀 銘行安(平安時代末期)、黒漆太刀 無銘(鎌倉時代) (2)樫鳥糸威鎧 付鎧櫃(平安時代) (3)古文孝経 建久6年(1195)の写本 (4)漢籍1帖19巻 白氏文集等の漢籍 (5)神号額 嘉元2年(1304) (6)馬面 慶長6年(1601)その他古文書・典籍等有する。 6、神宮寺 神宮寺の開創は社伝によれば、「天武天皇白鳳年間に勅願によって白鳳寺を建立、猿投山白鳳寺と言う」とあり、現在境内に白鳳寺塔心礎と言い伝えられているものが残存している。本社に阿弥陀如来、東宮に薬師如来、西宮に観世音菩薩を本地仏としていた。神宮寺には多くの僧坊(最盛期16坊)があったが、明治元年神仏分離令により一切の寺刹は破却され、現在は跡地のみ存して居る。神社が多年隆盛を保ち得たことについて社僧の功績を忘れることは出来ない。 7、建造物 本殿、祝詞殿、中門、祈祷所、回廊、神饌所、四方殿、拝殿、太鼓殿、神輿殿、宝物庫、手水舎、総門、鳥居等が立ちなんでいる。これらは嘉永6年(1853)の大火によって殆ど鳥有に帰し、以後50有余年の年月を費やして再建されたものと、伊勢湾台風後に新築されたものとである。 8、左鎌の由来 古来より左鎌を奉納して祈願する特殊な信仰がある。其の由来については記録がないので判然としないが、古老の言い伝えによれば双生児の場合には一方が左遣いの名手であるという。祭神大碓命は小碓命とは双生児であるので左遣いであらせられ、当時左鎌を用いて此の地方を開拓せられた御神徳をしたって諸願の成就を祈るときに左鎌を奉納する。現在は職場安全・交通安全を祈る会社関係の奉納がさかんである。 9、猿投山とサナゲの語義 社蔵縁起書に「景行天皇53年天皇が伊勢国へ行幸、常に猿を愛し王座に侍せしむ。猿の不祥あり。天皇憎みて伊勢の海に投げ給ふ。其の猿、鷲取山に入る。日本武尊東征の時、壮士三河国より来たりて従う。平定の後、尊に曰く、先に慈恩を蒙れる猿なり。勅恩に報ずる為、扈従し奉ると言い終って鷲取山に入る。猿投山の称、是より起こる」とある。標高629米。山中に天然記念物「菊石」がある。又、団九郎岩屋、御船石、蛙岩、屏風岩、御鞍石等の伝説豊かな巨岩もある。サナゲの語義似ついて、文徳実録・延喜式神名帳には共に「狭投」と記し、三河国国内神明帳・神号額には「猿投」とある。従来の諸説を挙げてみると(1)前記縁起書にある猿を海に投げたより起こった。(2)山容が鐸ににているから。(3)鐸を木の枝につけて祭祀を行った。(4)大碓命薨去を悲しみ真歎山が猿投山となった、等の諸説があるが断定はし難い。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
左鎌奉納の由来 祭神大碓命がこの地方を開拓された御神徳を慕い古来より左鎌を奉納して所願成就を祈祷する特殊信仰がある。 言い伝えによれば、双生児の場合一方が左利きであり、大碓命が小碓命(日本武尊)と双生児であるので命が左利きであられた縁にもよるとも、また災難を断ち切り、豊作・病気平癒等の祈願成就を祈ったともいわれるが、起源は定かでない。 現在は職場・交通安全を祈る会社関係の奉納が盛んである。 社頭掲示板 |
神輿渡御神事 現在は、観音堂(旧神宮寺の千手観音像並に菩薩立像を安置する)がお旅所となつているが、元來は猿投山上に神輿をあげ、山上のお旅所から本社に渡御されたもので、渡御の折旧神宮寺と本社の間を流れる小流の傍にある鸚鵡石(現在は河川工事により境内に在る)前から本社迄御練りが行はれた。大場磐雄博士は、この御練りが、猿投山の神霊を随所に招き下して奉齋した磐座の名残りを留める痕跡とみておられ、(『猿投神社誌』)興味深い。 |
狭投神社 狭投は佐奈氣と訓べし〇祭神大碓命、(頭注)〇高橋庄狭投村狭投山に在す、(私考略)例祭 月 日 〇頭注云、人皇十二代景行帝第一皇子大碓命也、母播磨稻日大郎姫、 神位 文徳実録、仁寿元年10月乙巳、参河國狭投神、授從五位下、三代實録、貞観6年2月19日丙子、授参河国從五位下狭投神從五位上、同12年8月28日戊申、授参河國從五位上狭投神正五位下、同18年6月8日癸丑、授参河國正五位下狭投神正五位上、元慶元年閏2月26日戊戌、授参河國正五位上狭投神從四位下、国内神名帳云、正一位狭投大明神、 社領 三河國二葉松云、社領七百七十六名 神社覈録 |
縣社 猿投神社 祭神 大碓命 景行天皇 垂仁天皇 俗に猿投宮と称す、創立年代詳ならず、但古縁起に、 「忍代別天皇皇子大碓皇子、五十二年登狭投山、中蛇毒薨、(42歳)則葬山上、十六代仲衰天皇元年、熊襲又叛、于時依在勅願於大碓皇子、祠狭投山下焉、今猿投本社是也、四十代天武天皇白鳳年中祠末社十五神、云云、各大碓尊之兄弟也、于今為当社宮仕、子孫不断絶矣、云々、 と見えたり、延喜式内社にして、文徳実録に「仁寿元年冬10月1日乙巳、授参河國狭投神從五位下、三代実録に「清和天皇貞観6年2月19日丙子、授参河国從五位下狭投神從五位上云々、同12年8月28日戊申、授参河国徒五位上狭投神正五位下云々、同18年6月8日癸丑、授参河國從五位上狭投神正五位下云々、「陽成天皇元慶元年閏2月26日戊戊、授参河國正五位上狭投神從四位下」と見え、國内神名帳に「正一位猿投大明神」と見え、当社中門の勅額に「正一位猿投大明神、嘉元2甲艮8月1日辛巳書之、左近衡権中將源朝臣朝忠」、と見えたり、古来当国有数の大社にして、上下の崇敬頗る厚く、三川雀に、足利尊氏公神職証文ありとて左の交書を載せたり。 「足利尊氏神職深見別当職事、所補任恒之也、早任亡父貞之例、専神事可令勤仕神役之状、如件、 文和元年11月28日」 又、和漢三才図会に、9月9日祭礼、自近国引粧鞍馬供奉、甚美麗也云々、」と見え、官社考集説に「中古に社僧十六坊ありしが、今わずかに七院あり、七院の惣号を猿投山自鳳寺と称す」と見え、其の社頭の壮麗祭禮の盛観諸書に見えたるが、社領の如きは実に七百七十六石を有せり、諸社御朱印写に云く、 「猿投大明神社領、参河国加茂郡猿投神郷七百七十六石事、并山林竹木諸役等免除、任慶長7年6月16日、元和3年7月21日。寛永13年11月9日、先判之旨、永不可有相違者也、仍如件。 寛文5年7月11日」 猿投一村悉神領にして、守護不入の地たりしと、明治5年9月縣社に列せらる。 社殿は本殿、勅額門、勅使殿、拝殿、太鼓殿、御輿殿、御供殿、廻廊、社務所等を具備し、境内地實に5919坪(官有地第一種)あり、老檜古杉森々として陰をなし、猴多く棲めり、登臨の道二條あり、一を男坂といひ、一を女叛といふ、男坂は路頗る険阻にして、攀つる人まれなり、因みに当社祭神につき東海道名所図会は「古事記岐美二尊の御子に、頬那芸神あり、狭投と訓む、若此神ならんか」と見え、古事記傳は、猿投を、ナギと訓まれたり。 明治神社誌料 |