狭投神社
さなげじんじゃ


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【狭投神社】

猿投山・狭投神社とは、弥生後期から古墳時代初期にかけて出てくる三遠式銅鐸生産の文化と密接な関係をもった所で、それゆえに命名された山であり、青銅の神を祀る聖所の一つではなかったのか。そこへ尾張氏及びその系累の金属技術集団や須恵器技術集団が進出定着し、サナギの地名のみが残ったと考えられる。従って、サナギ神社の祭神も青銅の神から、ヤマトタケル伝説に因んだ大碓命や景行天皇に変わり、大和朝廷の権威の証しとして、式内社に列せられたと思われる。
尾張猿投山と狭投神社について
伊東肇


【文化財】

重要文化財(国指定)
太刀 銘行安 附:兵庫鎖太刀拵(ひょうごぐさりたちごしらえ)
黒漆太刀 刀身無銘
樫鳥糸威鎧(かしどりいとおどしよろい)大袖付
古文孝経 1帖 建久6年(1195年)奥書
本朝文粋 巻第二(1冊)、巻第十三残巻(1巻)、巻第十三残巻(1帖)、巻第十三零巻(1巻)
猿投神社漢籍 一括 春秋経伝集解(しゅんじゅうけいでんしっかい)序、隠公第一、桓公第二(1巻)
論語集解 巻第三、第七、第十(3巻) 康安2年(1362年)奥書
論語集解 巻第三(1巻)
論語集解 巻第四(1巻)
史記集解 巻第三十一、第三十三・第三十四、第三十五・第三十六・第三十七・第三十八、第四十(4巻)
帝範 巻上(1巻)
臣軌 巻下(1巻) 元亨4年(1324年)奥書
文選(もんぜん)巻第一(1巻) 弘安5年(1282年)奥書
文選 巻第一(1巻) 正安4年(1302年)奥書
白氏文集(はくしもんじゅう)巻第三(1帖) 貞治2年(1363年)奥書
白氏文集 巻第三(1巻) 貞治4年(1365年)奥書
白氏文集 巻第三(1巻) 貞治6年(1367年)奥書
白氏文集 巻第三(1巻) 観応3年(1352年)奥書
白氏文集 巻第四(1巻) 文和2年(1353年)奥書
白氏文集 巻第四(1巻)

愛知県指定有形文化財
正一位猿投大明神扁額
革製竜頭馬面
猿投神社国書
猿投神社文書

豊田市指定有形文化財
木造千手観音立像
猿投神社御免富興行資料
木造千手観音立像


【猿投神社】

一、創祀、沿革
創祀は、社伝によれば仲衷天皇元年とあり、山麓の本社、東峯の東宮、西峯の西宮を総称し、猿投三社大明神と崇敬されて今日に及ぶ。神階は.三河国神名帳に正一位猿投大明神と記されている。社格は、延喜の制(967年)国幣の小社、明冶の制(1872年)県社。
一宮制が行われるや三河三宮となる。
神領は、織豊時代より明冶維新まで776石の朱印を与えられた。境内外に神宮寺が建てられ猿設白鳳寺と呼ばれ、明冶元年まで神仏混淆の地であつた。
二、御祭神
大碓命(景行天皇第一子、日本武尊と双生児)
景行天皇(第十二代)
垂仁天皇(第十一代)
三、大祭
初午祭(旧暦2月初午の日)
例祭 (10月第二土・日曜日)
四、棒の手(愛九知見無形民俗文化財)
奉納の起源は不詳だが、天文22年(1553)岩崎城主(現日進町)丹羽勘助氏次公が村民に教え、塾達音が奉納したとある。最盛期には三河・尾張・美濃三国より186か村より奉納がり、現在ば愛知県無形民俗文化財に指定されている。
五、宝物
太刀 銘行安 平安時代 国指定文化財
黒漆太刀 無銘 鎌倉時代 国指定文化財
樫鳥糸威鎧 平安時代 国指定文化財
神号額 鎌倉時代 (1304) 県指定文化財
馬面 江戸時代 (1601) 県指定文化財
豊田市教育委員会
社頭石碑


【狭投神社】

創祀は、社伝によれば仲哀天皇元年とあり、山麓の本社、東峰の東宮、西峯の西宮を総称し、猿投三社大明神と崇敬されて今日に及ぶ。
神階は三河国神明帳に正一位猿投大明神と記されている。社格は、延喜の制(967年)国弊の小社。
明治の制(1872年)県社。一宮制が行われるや三河三宮となる。
神領は織豊時代より明治維新まで七七六石の朱印を与えられた。境内外に神宮寺が建てられ猿投白鳳寺と呼ばれ、明治元年まで神仏混淆の地であった。
祭神:大碓命(景行天皇第一子、日本武尊と双生児)
景行天皇(第十二代)
垂仁天皇(第十一代)
ご祭神の大碓命は日本武尊(小碓命)の兄で双生児である。東征を欲せられなかったので、美濃国に封ぜられ、三野国造の祖神の美しい娘二人を妃とする。美濃やこの地の開拓に尽くされた。
猿投山山中で毒蛇に?まれ亡くなられた。猿投山西峯にある西宮の背後に御墓所がある。
祭礼:毎年10月の第2土・日曜日に行われる。祭礼の際に奉納される棒の手は、棒や刀、槍、鎌などを打ち合わせる勇壮な郷土芸能です。
歴史は古く、中世末から近世初めにかけて、村々で組織し行われる合宿によって、献馬(馬の塔、オマント、ダシ)の形態が整えられていった。
一八世紀末から明治初期の最盛期には、三河・尾張・美濃から十余の合宿、百を超える村々が祭礼に参加し、それぞれの豪華な馬道具などで飾り立てた献馬が奉納されました。

公式HP



猿投神社

一、創祀、沿革
創祀は、社伝によれば仲哀天皇元年とあり、山麓の本社、東峯の東宮、西峯の西宮を総称し、猿投三社大明神と崇敬されて今日に及ぶ。神階は、三河国神名帳に正一位猿投大明神と記されている。社格は、延喜の制(967年)国幣の小社。明冶の制(1872年)県社。
一宮制が行われるや三河三宮となる。
神領は、織豊時代より明治維新まで776石の朱印を与えられた。境内外に神宮寺が建てられ猿投自鳳寺と呼ばれ、明治元年まで神仏混淆の地であった。
二、御祭神
大碓命(景行天皇第一子、日本武尊と双生児)
景行天皇(第十二代)
垂仁天皇(第十一代)
三、大祭
初午祭(旧暦2月初午の日)
例祭(10月第二土、日曜日)
四、棒の手(愛知県無形民俗文化財)
奉納の起源ぱ不詳だが、天文22年(1553年)岩崎城主(現日進町)丹羽勘助氏次公が村民に教え、塾達者が奉納したとある。最盛期には三河、尾張、美濃三国より一八六力村より秦納があり、現在は愛知県無形民俗文化財に指定されている。
五、宝物
太刀 銘行安 平安時代 国指定文化財
黒漆太刀 無銘 鎌倉時代 国指定文化財
樫烏糸威鎧 平安時代 国指定文化財国指定文化賜
神号額 鎌倉時代(1304年) 県指定文化財
馬面 江戸時代(1601年)県指定文化財
豊田市教育委員会

社頭掲示板



左鎌奉納の由来

御祭神大碓命がこの地方を開拓された御神徳を慕い古来より左鎌を奉納して諸願成就を祈願する特殊信仰がある。言い伝えによれば、双生児の場合、一方が左遣いであり、大碓命が小碓命(日本武尊)と双生児であるので命が左遣いであられた縁によるとも、また災難を断ち切り、豊作・病気平癒等の祈願成就を祈ったともいわれるが、起原は定かでない。
現在は職場交通安全を祈る会社関係の奉納が盛んである。

社頭掲示板



猿投神社

さなげじんじゃ 愛知県豊田市猿投町。
旧県社。祭神は大碓命・景行天皇・垂仁天皇を祀る。三河国の三の宮で、俗に猿投宮といわれている。本社(下の宮)と猿投山頂の東の宮・西の宮の三社を総称して猿投神社という。創建は景行天皇の皇子である大碓命が景行天皇52年に猿投山に登った際、毒蛇のために42歳で薨じた。命の墓は猿投山西麓にある。のち第14代仲哀天皇元年、熊襲の乱を鎮めるにあたり、大碓命を祀つたのが始まりと伝えられる。
『文徳実録』仁寿元年(851)従五位下を授けられ、『三代実録』貞観6年(864)従五位上、同12年正五位下、元慶元年(877)従四位下を授けている。『延喜式神名帳』に列した。嘉元2年(1304)8月源有忠によって書かれた「正一位猿投大明神」の扁額はいまも残されている。当社は西三河地方第一の名社として崇敬が篤く、江戸時代(1603−1868)には社領776石を有し、別当寺も16を数えられた。例祭10月10日。神前では棒・真剣・槍・鎖鎌などを使って演ずる武技の「棒の手」が奉納される。この「棒の手」は豊田市棒の手保存会によって伝承されている。社宝には樫鳥威鎧・黒漆太刀・行安銘の太刀・猿投神社漢籍(20点)や建久6年(1195)に書写された古文考経が重要文化財に指定されている。

神社辞典






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