三宮神社
さんのみやじんじゃ 所在地 社名

















   【延喜式神名帳】伊加保神社(名神大) 上野国 群馬郡鎮座
          (現在地)伊香保神社
          (旧地)若伊香保神社

   【現社名】三宮神社
   【住所】群馬県北群馬郡吉岡町大久保1
       北緯36度26分22秒、東経139度0分49秒
   【祭神】彦火火出見尊 豐玉姫命 少彦名命
   【例祭】10月9日 例祭
   【社格】
   【由緒】天平勝宝2年(750)創祀
       嘉永元年(1848)本殿改築

   【関係氏族】
   【鎮座地】伊賀保大明神の里宮の中心であった
        平安末期以降に現在の地(伊香保町)に遷

   【祭祀対象】
   【祭祀】
   【社殿】本殿
       拝殿・舞殿・社務所

   【境内社】

伊加保神社は渋川市有馬の若伊香保神社の地に創立され、吉岡村大久保字宮の三宮神社の地に遷し、さらに平安末期以降に現在の伊香保町の地に遷という。
伊香保神社の里宮にあたると考えられている。
近世以降の三宮神社は衰微し、詳細は明らかでない。対して山宮は伊香保温泉とともに発展し、近世まで「湯前大明神」と称していたが、明治6年(1873年)に「伊香保神社」と改称している。現在では、里宮・山宮の間に祭祀関係はない。


三宮神社

町指定重要文化財 三宮神社
指定年月日 昭和63年2月22日
所在地 吉岡町大字大久保字宮1番地の1
当社は、天平勝宝2年(750)の勧請と伝えられ、また「神道集」(14世紀頃の天台系説話集)に「女体ハ里へ下給テ三宮渋河保ニ御座ス、本地ハ十一面也」とあり、伊香保神社の里官とする説がある。
総欅造り銅板葺の本殿は、嘉永元年(1848)の改築で明治以降その他の社殿も増改築された。
御神体は一木彫りの十一面観音橡で、像長90cm、右手は施無畏(せむい)に作り、左手には宝瓶(ほうびょう)を持つ丸木彫りの地方的素朴なもので室町時代の作と推定されるが、江戸末期に塗り変えられて極彩色である。
例祭には、獅子舞、太々神楽が奉納され、大祭には大久保の各町内から屋台が曳出(ひきた)されて賑う。
昭和63年10月
吉岡町教育委員会

社頭掲示板



三宮神社

三宮神社由来記
吉岡村大字大久保字宮の地に鎮座する三宮神社は天平勝宝2年創祀の伝承をもつ古名社で彦火々出見命豊玉姫命少彦名命の三柱の神を奉斉している。当社を三宮と称する所以は三柱の神を祭るためでなく上野国三之宮であったことによる。九条家本延喜式神名帳には上野国三之宮は伊賀保大明神とあり当社はその里宮の中心であったと考えられる。抑古代当地方の人々は榛名山を伊賀保山と称しその山頂を祖霊降臨の聖地と崇め麓に遥拝所をつくり里宮とした。上野国神名帳には伊賀保神が五社記載されてありその中心の宮を正一位三宮伊賀保大明神と記している。当地三宮神社が伊賀保神を祭る中心地であったため三宮の呼称が伝えられたのである。近くに大古墳群の存在はそれを裏付ける。当社を伊賀保神とする由縁はその祭神にもよるが本殿に安置される十一面観音像のあることがこれを証する。南北朝時代の延文年中編と推定される神道集所収の上野国三宮伊賀保大明神の由来には伊賀保神は男体女体の二神あり男体は伊賀保の湯を守護する薬師如来で女体は里に下り十一面観音となるとある。当社は古来十一面観音像を御神体として奉安してきたのである。慶應4年神仏分離令が発せられると全国各地で神社内の仏教関係遺品が破却された。当地の先人は古来三宮神社の御神体として奉安してきた十一面観音像を秘仏として密かに遺し今日に伝えたのである。昭和60年秋の関越高速自動車道開通に伴い当社境内地の一部も道路編入の止むなきにいたりこの機会に氏子一同相計り社殿および境内の整備につとめ由緒ある当社の由来を後世に伝えんとし石碑に刻んだ次第である。
昭和61年9月吉祥日
群馬県史編纂委員 近藤義雄撰文
三宮神社氏子一同 建之

社頭石碑



溝祭三宮神社獅子舞

町指定重要無形文化財
溝祭三宮神社獅子舞
指定日 平成15年5月22日
天正年間(1573年頃)からあったと伝えられる獅子舞で、頭が毛獅子で作られているのが特色である。
この獅子舞は稲荷流佐々良獅子と言い、毛獅子三頭で舞い、氏神三宮神社の祭典に奉納されてきたものである。又、日照り続きの時には雨乞い獅子として、船尾滝(ふなおたき)に登り雨乞い祈願をした事でも知られている。
春秋の神社の祭には、笛の音で白足袋姿の前獅子・中獅子・後獅子が腰に太鼓を付けバチで打ちながらカンカチを交えて舞う。演目も「宮廻り」や「剣の舞」など十数種の舞がある。
平成17年3月
吉岡町教育委員会

社頭掲示板



三宮神社

伊香保風 
吹く日
吹かぬ日
ありといへど
吾が恋のみし
時無かりけり
萬葉集巻第十四上野国歌
伊藤信吉書
(石碑)

万葉集のこの歌がうたわれた時代(1400年前)は、榛名の二ツ岳の噴火がくり返されて、榛名山は恐ろしい怒りの山で怒ツ穂(イカホ)と呼んで、神として恐れあがめ信仰の対象としていました。この里宮として三宮神社(イカホ神社)がおかれてました。この歌の伊香保風は榛名山からふき下す空っ風です。
 ここで行われた歌垣でうたわれた歌として祖先への敬愛の念をこめて石に刻みます。
揮毫者の伊藤信吉氏は前橋市元総社町出身の詩人・評論家です。
(説明文)

歌碑



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