熊野本宮大社
くまのほんぐうたいしゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】熊野坐神社(名神大) 紀伊国 牟婁郡鎮座
          (旧地)大斎原

   【現社名】熊野本宮大社
   【住所】和歌山県田辺市本宮町本宮 1110
       北緯33度50分26秒、東経135度46分25秒
   【祭神】上4社
        第一殿 西御前 熊野牟須美大神・事解之男神
        第二殿 中御前 速玉之男神
        第三殿 證証殿 家都美御子大神(主祭神)
        第四殿 若宮 天照大神
       以上は現在地に社殿あり、以下は大斎原の石祠
       中四社
        第五殿 禅児宮 忍穂耳命
        第六殿 聖宮 瓊々杵尊命
        第七殿 児(ちごの)宮 彦穂々出見尊
        第八殿 子守宮 鵜葺屋葺不合命
       下四社
        第九殿 一万宮十万宮 軻遇突智命
        第十殿 米持金剛 埴山姫命
        第十一殿 飛行夜叉 彌都波能売命
        第十二殿 勧請十五所 稚産霊命

   【例祭】4月13-15日 例祭
   【社格】旧官幣大社
   【由緒】崇神天皇65年正月11日創祀
       貞観元年(859)従五位上
       貞観元年(859)5月従二位」
       延喜7年(907)10月2日正二位
       延喜7年(907)宇多法皇御幸
       天慶3年(940)2月1日正一位
       延久4年(1072)9月17日造営
       承元3年(1209)7月26日造営
       仁治2年(1241)6月8日造営
       貞治6年(1367)7月15日御遷宮
       天正18年(1590)関白秀吉名代大和大納言秀長造営
       明治22年6月大水害で大齋原を棄て現在社地に移る
       明治22年国幣中社に列し、
       大正4年官幣大社

   【関係氏族】
   【鎮座地】元は大斎原の地に鎮座
        明治22年6月大水害で大齋原を棄て現在社地に移る

   【祭祀対象】
   【祭祀】
   【公式HP】 熊野本宮大社
   【社殿】本殿熊野権現造檜皮葺
       神門・神饌所・社務所・授与所・宝物殿・拝殿・斎館・瑞鳳殿

   【境内社】別社(中四社下四社合祀)・別社(摂未社合祀)
        産田神社・真名井社・月見岡神社・祓戸天神社


現在大斎原[おおゆのはら]と呼ばれる熊野川の中洲に鎮座していたが、明治22年の熊野川の大洪水にて流失、現社地に遷座した。
 熊野三山では最も古い成立とされ、第十代崇神天皇65年に社殿が創立されたと(皇年代略記)(神社縁起)に記載されているが、もとより定かではない。
 元々の鎮座地は中洲であり、これは本宮への信仰は熊野川の水神への信仰であった事を示す。大斎原へ行くには音無川・熊野川の清流を歩いたのであり、聖地へ入るための「禊ぎ」が自然な形で行われたのである。


由緒

第十代崇神天皇65年に社殿が創立されたと(皇年代略記)(神社縁起)に記載されております。
明治維新の神仏分離により「熊野坐神社」後に熊野本宮大社となりました。明治22年の熊野川の大洪水にて現社地に御遷座申し上げました。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年




熊野本宮大社

御祭神
上4社
  第一殿  伊邪那美大神(夫須美大神)  
       事解之男神          相殿
  第二殿  伊邪那岐大神
       速玉大神          
  第三殿  本社 家津御子大神(素盞鳴尊)
  第四殿  天照大神
  ―――――――以上は現在地に社殿あり―――――――――――
中四社              
  第五殿  忍穂耳命      
  第六殿  瓊々杵命
  第七殿  彦穂々出見命       別社地(大斎原)に
  第八殿  鵜草葺不合命       石祠を造営し合祀
下四社                 申し上げております。
  第九殿  軻遇突智命
  第十殿  埴山姫命
  第十一殿 彌都波能売命
  第十二殿 稚産霊命
御由緒と御神徳
紀の国音無川のほとりに、鎮ります、熊野本宮大社(旧官幣大社熊野坐神社)は熊野三山(本宮、新宮、那智)の首座として熊野信仰の総本宮と仰がれて居ります。
御祭神は熊野坐大神と申上げ熊野に鎮まります大神と言う広大な意味でありまして、熊野国は現在和歌山県、三重県の両県にまたがり東、西、南、北牟婁郡の四郡を言うのであります。
本社には十四柱の神が御鎮座になりますが、主祭神は家津御子大神(熊野加武呂乃命〕でありまして、大神の御事蹟は、古史に依れば、はじめ海原を治められましたが、出雲の国島根の簸の川上に降り、八岐大蛇を退治され、天叢雲剣を得られ、天照大神に献上され、国土の経営はもとより、遠く大陸をも治められたとあります。紀伊続風土記に「大神大御身の御毛を抜て種々の木を生じ給い、其の八十木種の播生れる山を熊野とも木野とも言えるより、熊野奇霊御木野命(木を生成化育される意味にて家津御子大神と同意〕と称え奉るべし」とあります。植林を全国に奨め、木の国の名、熊野の称はこゝよりおこったのであります。植林の目的に就いては、主に建築材、特に造船の技術を教えられ、貿易を開かれたので、海外発展の思想の根源が古代にあった訳であります、「音無川の水上に立たせ給うは舟玉十二社大明神」と唄われ、舟玉大神と仰がれるわけもこゝにあるのであります、誓約の神として、天照大神と天安河を挾み誓約をされ、古事記に建速須佐之男命天照大神白干我心清明故。我所生之古得手弱女。因之言者。自我勝云而於勝佐備。とありまして、正邪を正すとして崇められ、後世烏文字を用いた熊野牛王神符が誓約ごとに広く用いられ、これが有名な起請文であります。
本地垂跡説が行われてから家津御子大神を阿彌陀如来として熊野大権現と称え、現世、後世二世の守護神として夫婦結の信仰が厚く、死人も白衣をつけて第一に熊野詣をすると云われ、熊野縁起に「大日本六十余州衆生我許参詣者除貧窮与富貴現世安隠後生生善所之証誠阿弥陀如来熊野大権現也」と神言にあり富貴神寿命神として厚い信仰がある。奈良朝の初期から熊野権現として信仰され、本社は上、中、下社の三社よりなり、故に熊野三所権現と言われ、十二殿に御祭神が鎮座ましたところから熊野十二社権現とも仰がれました。
熊野大神の神使は、八咫烏として有名ですが、神武天皇御東征の砌、熊野烏が大和へ無事先導した縁起から交通の守護神として熱烈な信仰があり、成務天皇の御代饒速日命の五世孫九阿斗足厄、社人温泉を発見以後、斎屋(湯屋)を建て熊野本宮の潔斎場となる之が湯峰温泉であり、全国の温泉場には湯野幡現として温泉守護神とあがめられています。
古より男子と生れたものは、先ず熊野へ参詣して初めて一丈夫となると言われ、出世、家門繁栄の守護神として尊崇されている。有名な平清盛もその一人として、平家物語に「平家かように繁昌せられけるも、熊野権現の御利生とぞきこえし、其故は古へ清盛公、いまだ安芸守たりし時、伊勢の海より舟にて熊野へまいられけるに大きなる鱸の舟におど入りたりけるを、先達申けるは「是は権現の御利生なり。いそぎまいるべし。」と申しければ清盛のたまいけるは「昔周の武王の船にこそ白魚は躍り入りたるなれ、是吉事なり。」とて、さばかり十戒をたもちて、精進潔斎の道なれども、調味して家の子、侍どもにくわせられけり、其故にや吉事のみうちつゝいて太政大臣まできわめ給えり。
子孫の官途も竜の雲に上るよりは猶すみやかなり。九代の先蹤をこえ給うこそ目出度けれ。」と物語って居ります。
第一殿に鎮ります夫須美大神(伊邪那美大神〕は、家津御子大神の母神にて、伊邪那岐大神と倶に国土を修理固成し夫婦の道を興して神人万物を育成し、人倫の大本を教えて群品の祖として崇められて居ります。
当社御縁起に家津御子大神告給わく、如此吾前を斎い奉らば吾母の御前をも能く祝い奉るべしと。是に於て此の由朝廷に奏し、詔命を受けて有馬村花窟(三重県熊野市有馬町)に鎮ります伊邪那美命を遷座奉り又種々の神宝をも迎え本宮に鎮りますとある。
第二殿に鎮ります速玉大神、伊邪那岐大神、黄泉の国より帰ります時、族負けじと誓い給うに生れました神にて、生成発展を司さどる神と崇敬されている。その他の神々も縁由あり鎮りますことは云うまでもないが、最初は家津御子大神、夫須美大神、速玉大神、三神であると伝えられています。
御神階と社格に就いて
平安時代、清和天皇の貞観元年正月従五位下熊野坐大神に、従五位上を、ついで5月更に従二位を授けられた。醍醐天皇延喜の制には熊野三山のうち唯一の名神大社に列し、祈年の国幣に預かられ、延喜7年10月宇多上皇本社に行幸あるや正二位に陞叙せられ、朱雀天皇天慶3年2月には、承平年中西国海賊平定の御奉幣あり正一位の極位に達せられた。降って明治初年、神祇官直支配社となり、明治4年5月、新たに官国幣社の制により国幣中社に、大正4年11月官幣大社に列せられました。昭和21年大東亜戦の終戦と共に官制は廃され、一宗教法人となりました。
神代から現代までの歴史
熊野坐大神の御鎮座の年代は文献に明白でないが、神武天皇御東征以前には既に御鎮座になったと云われて居り、第10代崇神天皇65年に社殿が創建されたと「神社縁起」「帝王編年記」「皇年代略記」等に初めて記載されています。熊野三山の一つ新宮は景行天皇58年に社殿造営されたと「皇年代略記」「延喜式神名帳」に、那智大社は、仁徳天皇の御代御鎮座と「熊野略記」「古今皇代図」に記載され上古の造営は詳かでないが、中古以後は諸国に造営料地を寄進せられ、造営奉行は三公若しくは将軍又は執権国守等が之に当り、国家的大事業として執り行われました。 
一最近の造営は光格天皇享和二年、本社、第一殿、第二殿、同文化七年第四殿造営将軍徳川家斎公国守権中納言源朝臣治宝卿、奉行享和の年は安藤順輔、久野近江守輝純、文化の年は水野飛弾守忠奇、渡辺主水正載鋼にて御造営がすゝめられたのが現在の社殿であります。
熊野大神を斎き祀ったのは、熊野国造家ですが、この氏族は天照大神の孫、饒速日命(またの名を天火明命)の子孫で物部氏の祖に当たります。饒速日命の孫が味饒田命(=熊野連)に当たり、さらに二世を経て大阿斗足尼が成務天皇の御代に国造を賜っており爾来この子孫が代々大神に奉仕し、近く江戸時代の末に及んだのであります。
奈良朝の頃より熊野に於ては、本地垂跡説が行われ仏教を取入れ、平安朝以後は仏化して熊野三所権現、熊野十二社権現と称して、祭神に、仏名を配する様になり、寛治四年白河上皇初めて熊野行幸の時僧鋼三人供奉した、その一人法印権僧都増誉上人が御導師を勤め、その功に依り初めて熊野三山検校に補せられ、その後諸帝熊野御幸の折には、検校先導役を勤め後世聖護院の兼職となるまで、この職はつづいた。検校の下に熊野別当職を置かれ、三山管理に当り多くの荘園を支配し、熊野権現の御神威を戴き、その権勢は国司、領主をも凌ぎ、最もその権勢があったのは、本宮別当湛増(田辺別当)であり、機略に富み熊野水軍を統卒して源、平の戦に参戦したことは、有名なことである,別当の下に権別当、三味別当、修理別当、少別当、権少別当、寺主、上座、都維那等の僧職を置き法華三昧に従事する三昧僧があった。又この他常住の熊野修験の山伏あり、御師、檀那が出来て御師が発達するに至った。熊野の御師は、伊勢の御師と相並んで、名を知られて居りますが、御祈祷師のことで、檀那は信者のことです。熊野信仰の流布と共に、各地に檀那が生じ、之を教導する御師も一山に数多くそれぞれ地域を分担して、檀那の参拝したときは、拝礼、祈願のことはもとより、宿泊の世話もして、本社の隆盛と共に神人、衆人の数も次第に多く、その結果は、源、平二氏の争乱、承久の役に関係し南北朝時代には熊野別当隆真薬師丸南朝に大いに忠勤を以したが(大平記)南朝滅亡以後は別当の勢力も衰えるに至りました。
熊野御幸に就いては平安朝に入り皇室の御崇敬あり国史に重きをなすに至りました。
景行、応神、仁徳、天智、天武の諸帝の御崇敬あり、宇多法皇より亀山上皇迄歴代の上皇、女院の熊野行幸は百余度の多きに達し、宇多法皇一度、花山法皇一度、白河上皇十度、鳥羽上皇二十一度、崇徳上皇一度、後白河上皇三十四度、後鳥羽上皇二十八度、後嵯峨上皇三度、亀山上皇一度等明らかなもの実に百度の多きに及び他社にその例をみません。熊野御幸の内にも本宮のみ御参拝になり帰られたことも度々でありました。斯くの如く熊野御幸のあったことは、厚き御崇敬と御信仰によるものであります。女院鳥羽后待賢門院、同妃美福門院、後嵯峨后大宮院の熊野御幸を始め平清盛、平重盛、源実朝、北条政子、藤原定家、徳大寺実能、藤原師通、和泉式部等の外権門勢家の参詣も数多く挙げるにいとまがありません。その他庶民も全国から参詣絶えず、文覚上人、西行法師、又時宗の開祖一遍上人も参詣しています。一遍上人は文永11年夏、本宮の大前(証誠殿)で神宣を受けて開教の契機を得たと伝えられています。この因縁で、相模遊行寺(藤沢の清浄光寺)の歴代の上人は、継嗣の時は特に本宮に参詣して、奉告の式を行い御加護を祈請され、当社を護法の神として尊崇されている。
鎌倉時代には、集団的な庶民の信仰が盛となり、地方にある熊野先達による土豪一族の熊野詣の風習、更に全国的な熊野講の組織化など後世まで続きました。蟻の熊野詣の古諺、伊勢に七度、熊野に三度の俚謡によりましても、天下万民が信仰を捧げたことが伺えられ、明治維新に神仏分離が行われ、今日に至って居ります。
例祭
4月13日 湯登神事、宮渡神事。
4月14日 船玉祭、抜戸天神祭、前夜祭。
4月15日 本殿祭、神輿渡御祭、御田祭。
特殊祭典並特殊神事
祭典・神事 月日
開寅祭    元旦午前2時〜4時
八咫烏神事  1月7日 午後5時〜
お粥祭    1月15日 午前7時〜
木苗祭    4月29日(みどりの日)
萬灯祭    8月15日 午後5時〜
月見岡 神社祭(大日山)  旧正月28日早朝より
             旧5月28日早朝より
             旧9月28日早朝より
御竈木祭   12月10日 午前7時〜
摂末社
神社 御祭神 
産田社   伊邪那美命荒魂
滝姫神社  瑞津姫命
八咫烏神社 武角見命
大国主神社 大国主命
須勢理姫神社 須勢理姫命
祓戸天神社 天児屋根命
海神社   底津綿津見命
      中津綿津見命
      上津綿津見命
高倉下神社 高倉下命・穂屋姫命
御所開神社 天手力男命
市杵島神社 市杵島姫命
真名井社  天村雲命
月見岡神社 天照大神
      月読命
音無天神社 少彦名命
社地の移転
太古より熊野牟婁郡音無里(本宮町本宮)大斎原に鎮りましたが明治22年熊野川未曽有の大洪水の際、上中下各四社の内上四社を除く外非常なる災害を蒙り、明治24年3月現地に遷しまつり、従来の地を別社地と称し、其所に仮に石祠二殿を造営し、西方に中四社下四社、東方に元境内摂末社を合祀申上げて居ります。
神宝及文書
熊野に関する文学書、文書、記録は、正史を始めとして多いが、御本殿に蔵せられた古文書、宝物等の多かったことは、想像に難くない。社蔵の宝物目録によっても、旧神宝の多かったことが、知られますが寛正、永録、明和年間の三度の大火及び明治二十二年熊野川の大洪水に、殆んど焼亡流失し、今日蔵する古文書、記録、宝物類の少ないことは、甚だ遺憾であります。
九十九王子社と分社
有名な熊野九十九王子は、京都より摂津和泉を過ぎ当国に入り田辺より近露を経て当地に至る沿道に諸王子社あり、古くは、末社と称せられたが、後世諸王子社の多くは、衰微して、僅かに地名のみその遺蹟を止めている現状であります。
全国に分布する熊野神社の分社は、五千社余ありますが、勧請せられた原因は次の三つであると云われます。
一、当社全国の神領に勧請せられたもの。
二、祠官(しかん)の移住によって勧請せられたもの。
三、熊野信仰によって勧請せられたもの。
熊野本宮大社日本第一大鳥居
世界が新しい時代を迎え“今”まさに、人心が神と自然から離れつつある今日、当社の最も危惧とするところは、“命脈の維持”であり、当社にては、“社頭の維持”であります。
神代の時代、素盞鳴尊が大地の荒れ果てているのを嘆かれ御自ら木を御手植えになられて「木の国=紀の国」と名付けられました。
皇紀二千六百六十年を迎えた日本国にとって大なる節目になることは無論の事、この節目に当たり「日本人の精神(心)の蘇り・生命の尊さ(一人一人)・日本経済の再生・熊野の山々より環境の大切さの再認識、国内は基より世界人類平和」を確固たる事を祈念し、今こそこの壮大なる熊野の山・川は申すまでもなく大齋原を発信基地として熊野の大神の広大なる御神徳を得て、神と自然と人が共にある様、皇紀二六六一年にも熊野大神の御神徳が発揚且つ千木高く厳然として鎮まりますよう平成十二年五月十一日に建立致しました。
(高さ)約34m (幅)約42m

由緒書



熊野本宮大社

縁起
熊野国造家の開祖は天孫邇邇藝命(ニニギノミコト)の御兄君天火明命(アメノホアカリノミコト)です。 その子孫に当たる高倉下(タカクラジ)は熊野本宮大社の村に在って神武天皇に天剣布都御魂(フツノミタマ) を献じてお迎えし、時を併せて高御産巣日神(タカミムスヒノカミ)は天より八咫烏(ヤタガラス) を遣わし大和の橿原まで導かれました。
第十代崇神天皇は大和民族の旨は神を祀ることとお考えになり、 時を前後して神宮(伊勢)や本宮(熊野)が奉祀されました。
第十三代成務天皇の御代には国々の境(国境)が決められ、紀伊半島の南半分(志摩半島より南)が熊野の国 と定められ初代の熊野国造(長官)には高倉下の子孫大阿斗宿裲(オオアトノスクネ)が就任しました。
この様に熊野国造家とは天津神の子孫で、物部氏の先祖に当たり、特に天神地祇の子孫に当たる氏の事を 神別諸氏といいます。
神代の時代、この熊野の地を治めた天孫系神別諸氏の日神信仰によって創立したのがこの本宮で、 それは熊野の大神の神遣が太陽の化身「八咫烏」であることも本宮祭神の始元が日神であったことを物語って います。
熊野信仰とは一言で云えば太陽の黄泉返りを願う祭礼です。
その御本宮は千数百年に渡り熊野国造家の子孫によって代々お祭りされることになります。
御由緒
紀伊半島を縦断する果無山脈は熊野連山の3600峰を形成し、この間(奈良、三重、和歌山の三県)を縫うが如く流れる熊野川は太平洋に流出るし、 熊野の大動脈です。
この熊野川の中枢に古代より熊野巫大神の鎮座されるお宮が熊野本宮大社であります。
第十代崇神天皇65年に社殿が創建されたと(皇年代略記)(神社縁起)に記載されています。
奈良朝の頃より仏教を取り入れ、平安朝以後は仏化して、熊野権現と称し、仏名を配する様になり、 倹校の下に熊野別当職を置き、その権勢のあったのは本宮別当湛増でした。
源平二氏の争乱に関し、熊野の加担に依り勝敗が決したと云われています。
熊野御幸は宇多法皇より亀山上皇迄歴代に上皇女院、百余度の多きに及び他社にその例をみません。

公式HP



熊野本宮大社

当宮は熊野三山(本宮・新宮・那智)の首位を占め、全国に散在する熊野神社の総本宮で、熊野大権現として、広く世に知られています。
 御主神は家都美御子大神即ち素戔嗚尊と申し、樹木を支配される神であり、紀国(木ノ国)の語源もここから起こっております。b  大神は植林を御奨励になり造船の技術を教えられて外国との交通を開かれ人民の幸福を図られるとともに生命の育成発展を司られた霊神で第十代崇神天皇の御代に熊野連が当地に社殿を造営して鎮祭したと伝えられています。
 奈良朝のころから修験の行者が頻繁にここに出入りして修行し、ますます神威が広まりました。延喜7年(約千年前)宇多法皇の御幸をはじめ約300年にわたり法皇、上皇、如院の御幸は実に百数十回に及びました。
 これと前後して当時の神仏習合によって御主神を阿弥陀如来といって尊び、日本一といわれた霊験を仰ごうとする参詣者は全国各地から熊野の深山幽谷を埋め「蟻の熊野詣」とか「伊勢に七度熊野に三度どちらが欠けても片参り」などとうたわれるとともに全国に御分社を祭り、その数は現在約五千数社を数えています。
 その後源平の争乱、承久の変、南北朝の戦乱とさまざまの変災の渦中にありながら人心の信仰はますます高まり当宮の神威は熊野牛王(おからす様)の神符とともに全国に伝播して明治時代にいたりました。
 現在の社殿は享和2年徳川家斉将軍の命によって紀州侯治宝卿が音無里(現本宮町大斉の原 指定文化財)に建立されましたが明治22年の大出水にあって現社地に修造して遷座されたものであります。
 この社殿のつくり方を「熊野造」と申し上げます。
 なお旧社地は別社地と呼び石祠二殿を仮宮として西方に中四社、下四社を東方に元境内摂末社を合祠してあります。

社頭掲示板



熊野本宮大社

全国熊野神社の総本宮である熊野三山の一つ。
創祀は第十代崇神天皇の御代と伝えられている。
 本宮は、紀伊半島を縦断する紀和果無山脈から流れ出る熊野川・音無川・岩田川の合流点の中州である大斎原に古より鎮座していた。
 熊野は奈良時代から平安時代にかけて、仏教・密教・修験道の聖地になり、自然崇拝に根ざしていた熊野の神々は仏たちと習合していった。
平安時代後期になるとますますその結び付きは強固となり、証誠殿に鎮まる家津御子大神は阿弥陀如来と同一視され、極楽往生を約束した。
 平安時代末期から鎌倉時代にかけて熊野への信仰が急速に高まり、法皇・上皇の熊野三山に参拝する熊野御幸は百余度を数えた。
彼らが歩いた道が熊野九十九王子を祀る熊野参詣道である。
 鎌倉時代になると、熊野御師や熊野先達・熊野比丘尼らによる布教活動によって、武士をはじめとする様々な階層の参拝が盛んになり、その範囲も全国に及び、この群れなす参拝者を称して「蟻の熊野詣」の語が生まれた。
 鎌倉新仏教の一派時宗の開祖一遍は熊野の神からの「信不信を選ばず、浄不浄を問わず布教せよ」との託宣を受けて悟りに至ったとされる。 江戸時代中期に現在みられる社殿が造築された。
しかし、明治時代の熊野川の大洪水によって、社殿の大部分が流失したため、十二社のうち上四社を西の丘陵に遷座し、中四社・下四社の神々を大斎原の石祠に合祀した。
 平成16年7月熊野・吉野・高野の霊場及びこれを巡る参詣道は世界文化遺産に登録された。
(例祭)年中行事多き中に4月13日同15日を大祭とす。
社伝に「一山本宮始め社家社人一統、湯峯にて潔斎神が降られた様を再現し五穀豊穣を願う、4月13日から15日にかけて行われる春祭。
 13日午前湯峯神事。
神職・楽人・稚児らが湯峯温泉で潔斎・斎食をした後、大日山を越えて湯峯王子社・月見岡神社と巡拝する行事。
夕刻宮渡神事。
神職・稚児・付人・総代らが行列を組み、神歌を唄いながら本社大斎原真名井社と巡拝する行事。
 15日午前本殿祭。
午後から渡御祭。
「遷御祭」の後、神輿を中心に神職・修験者・舞巫女・稚児らが挑花を奉じ、真名井社での祭典を経て、大斎原にて大和舞・巫女舞・御田植神事などを奉納する中「斎庭神事」、続いて修験者による護摩焚きの後、本社にて「還御祭」。
 なお、本殿祭を除く祭典の終盤において、楽人の笛や太鼓の演奏の中、総代の「あがりやそう」「さがりやそう」という掛け声と共に、稚児(2、3歳の男子)たちが左三回・右三回・左三回と廻る「八撥神事」が執り行われる。
 これは4月13日に湯峯温泉で潔斎をした稚児に、熊野の神たちが宿った様子を表現したものといわれている。

社頭掲示板



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