明治22年(1889年)8月の水害時まで熊野本宮大社は熊野川・音無川・岩田川の3つの川の合流点にある「大斎原(おおゆのはら)」と呼ばれる中洲にあった。 かつての本宮大社は、およそ1万1千坪の境内に五棟十二社の社殿が立ち並び、幾棟もの摂末社もあり、楼門がそびえ、神楽殿や能舞台、文庫、宝蔵、社務所、神馬舎などもあり、現在の8倍もの規模を誇っていた。 江戸時代まで音無川には橋が架けられず、参詣者は音無川を草鞋を濡らして徒渉しなければならなかった。これを「濡藁沓(ぬれわらうつ)の入堂」といい、参詣者は音無川の流れに足を踏み入れ、冷たい水に身と心を清めてからでなければ、本宮の神域に入ることはできなかった。 東石祠には流失した中四社・下四社を祀っている。 西石祠は、もとの境内摂末社を合祀した別社である。この中には旧村社である底海神社(底津綿津見命・中津綿津見命・上津綿津見命)、御戸開神社(天手力神)も含まれる。 |
大斎原 旧社地「大斎原(おおゆのはら)」 太古より熊野牟婁郡音無(くまのむろごおりおとなしの)里(本宮町本宮)ここ大斎原(おおゆのはら)に鎮まり、第十代崇神天皇の御代に至り、社殿が創建されたとあります。史上有名な中世における「熊野御幸」は当聖地で宇多上皇より亀山上皇に至る迄、歴代上皇、法皇、女院の行幸啓は百数十度に及び、奈良朝の頃より本地垂迹説が行なわれ、仏教をとり入れ、御祭神に仏徳を仰ぎ奉り「熊野三所権現、又熊野十二社権現」と証われて隆盛を極め、その後も公卿武門、一般庶民に至るまで朝野の参詣絶ゆることなく繁栄を続け、時宗の開祖一遍上人もここ証誠殿にて熊野神勅を授かり成道したと伝えられています。時宗歴代の上人(今日まで七十三代》は、宗門を継ぐ際は必ず当大社に参拝奉告、時宗護法の神と崇めて、今日に及んでいます。 不幸にして明治22年の大水害にて八神殿は倒壊、石祠にお祀り申し上げ、主神の四神殿をここより上流700mの高台にお遷し申し上げ、今日に至っております、右の通り又と得がたい聖地ですから左記厳守し後世に伝え度く存じます。 社頭掲示板 |
大斎原 旧社地「大斎原」 ここは、大斎原と称して、熊野本宮大社の旧社地明治22年夏、熊野川未曾有の大洪水にて、上、中、下各四社の内、上四社を除く中下社の八社段二棟が非常なる災害を蒙り、明治24年、現在地(ここより西方700mの高台)に御遷座申し上げ、今日に至っております。中四社、下四社並びに摂末社の御神霊は旧社地に、仮に石碑二殿を造営し、西方に、中、下各四社を。東方に、元境内摂末社(八咫烏神社・音無天神社・高倉下神社・海神社他)をお祀りしています。 中四社 第五殿 忍穂耳命 第六殿 瓊々杵命 第七殿 彦穂々出見命 第八殿 鵜草葺不合命 下四社 第九殿 軻遇突智命(火の神) 第十殿 埴山姫命(土の神) 第十一殿 弥都波能売命(水の神) 第十二殿 稚産霊命 社頭掲示板 |