【由緒】 熊野本宮大社は熊野三山(本宮・速玉・那智各大社)の中心、全国に3000社以上ある熊野神社の総本宮です。 延喜式内社熊野坐神社 名神大社 官幣大社 縁起・神話 天火明命あめのほあかりのみことは、古代、熊野の地を治めた熊野国造家の祖神です。天火明命の息子である高倉下たかくらじは神武東征に際し、熊野で初代神武天皇に天剣「布都御魂ふつのみたま」 を献じてお迎えしました。 時を併せて高御産巣日神たかみむすひのかみは天より八咫烏やたがらすを遣わし、神武天皇を大和の橿原まで導かれました。 第十代崇神天皇の御代、旧社地大斎原の櫟いちいの巨木に、三体の月が降臨しました。天火明命の孫に当たる熊野連くまののむらじは、これを不思議に思い「天高くにあるはずの月が、どうしてこのような低いところに降りてこられたのですか」と尋ねました。すると真ん中にある月が「我は證誠大権現(家都美御子大神=素戔嗚尊)であり、両側の月は両所権現(熊野夫須美大神・速玉之男大神)である。社殿を創って齋き祀れ」とお答えになりました。 この神勅により、熊野本宮大社の社殿が大斎原に創建されたと云われています。 熊野本宮参詣曼荼羅第十三代成務天皇の御代には、国々の境が決められました。 熊野国は、紀伊半島の南半分(志摩半島より南)と定められ、初代の熊野国造(長官職)には高倉下の子孫である、大阿斗宿裲おおあとのすくねが就任しました。 このように、熊野国造家は天神地祇の子孫である「神別諸氏」の氏族であり、物部氏の先祖でもあります。熊野本宮大社の神々は大阿斗宿裲以降、千数百年もの間、熊野国造家の子孫によって代々お祀りされてきました。 御由緒・歴史 熊野連山の三千六百峰を形成する、果無山脈。その山間を縫うが如く流れ、太平洋へと続く熊野川は、まさに熊野の大動脈です。この熊野川の中枢に、古代より熊野巫大神の鎮座されるお宮が、熊野本宮大社です。熊野本宮大社は過去「熊野坐神社くまのにいますじんじゃ」と号し、熊野の神と言えば本宮のことを表していたものと推測されます。 熊野坐大神の御鎮座の年代は文献に明白ではありませんが、神武東征以前には既に御鎮座になったと云われており、社殿は崇神天皇65年(紀元前33年)に創建されたと『皇年代略記』や『神社縁起』に記されています。奈良朝の頃より仏教を取り入れ、平安朝以後は仏化により「熊野権現」と称し、神々に仏名を配するようになりました。熊野本宮大社は上・中・下社の三社から成るため、熊野三所権現と呼ばれています。また、十二殿に御祭神が鎮座ますことから、熊野十二社権現とも仰がれています。 平安当時、宇多法皇に始まる歴代法皇・上皇・女院の熊野御幸は百余度に及びました。幾度かの御幸に供奉した藤原定家が『明月記』の中で「感涙禁じ難し」と記しており 、困難な道を歩き御神前に詣でたことが、いかにありがたく、いかに御神徳が高かったかを窺い知ることができます。 1184年、第21代熊野別当に就任したのは、本宮・田辺を拠点とする田辺別当家の湛増でした。 源平二氏の争乱に際し、湛増率いる熊野水軍が源氏側についたことにより、勝敗が決したと云われています。 ※熊野別当・・・熊野三山(熊野本宮大社・熊野速玉大社・熊野那智大社)の統轄にあたった役職 南北朝から室町時代にかけては、皇族や貴族などの上流階級に代わり、武士や庶民の間に熊野信仰が広がりました。身分の貴賤や老若男女を問わず、全ての人を受け入れる懐の深さゆえ、熊野には大勢の人々が競って参詣し「蟻の熊野詣」と呼ばれる現象を起こすまでに至りました。 なお残念なことではありますが、明治22年の未曽有の大水害により社殿のうち中・下社が倒壊し、現在地に上四杜のみお祀りすることとなりました。他八社は石祠として旧社地大斎原おおゆのはらにお祀りし、現在に至っております。 参考文献:熊野本宮大社前宮司 九鬼宗隆 熊野三山信仰事典(戎光祥出版) 御祭神 御祭神は、熊野三山(熊野本宮大社・熊野速玉大社・熊野那智大社)に共通する「熊野十二所権現」と呼ばれる十二柱の神々です。 また、奈良時代より神仏習合を取り入れ、御祭神に仏名を配するようになりました。 家都美御子大神/素戔嗚尊 主祭神は、熊野三山の他二社とは異なる家都美御子大神です。 昔は熊野坐神社くまのにいますじんじゃ「熊野にいらっしゃる神」と呼ばれていました。 また、造船術を伝えられたことから船玉大明神とも称せられ、古くから船頭・水主たちの篤い崇敬を受けていました。 上四社(第一殿〜第四殿)にお祀りしている神々 第一殿 西御前:熊野牟須美大神、事解之男神(千手観音) 第二殿 中御前:速玉之男神(薬師如来) 第三殿 證証殿:家都美御子大神(阿弥陀如来) 第四殿 若 宮:天照大神(十一面観音) 明治22年の大水害以降、旧社地大斎原に合祀されている中四社(第五殿〜第八殿) 下四社(第九殿〜第十二殿)の御祭神については、次の表をご覧ください。
公式HP |
【文化財】 重要文化財(建造物) 熊野本宮大社 - 重要文化財(建造物、1995年〈平成7年〉12月26日指定) 熊野本宮大社第一殿・第二殿(西御前・中御前) 熊野本宮大社第三殿(証誠殿) 熊野本宮大社第四殿(若一王子) 上記3棟が国の重要文化財に指定されている(第一・二殿は建物としては1棟)。棟札により、第一・二殿と第四殿は享和2年(1802年)、第三殿は文化7年(1810年)の建立と判明する。第一・二殿は入母屋造平入り、桁行5間、梁間4間で、正面に庇を付し、正面の2箇所に木階を設ける。内部は桁行3間、梁間1間の内陣とし、3室に分け、左右の室に熊野牟須美大神と速玉之男神をそれぞれ祀る。第一・二殿の向かって右に建つ第三殿と第四殿は同規模・同形式で妻入り、正面は切妻造庇付き、背面は入母屋造の特異な形式とする。柱間は桁行(本建物の場合は側面)2間、梁間は正面は1間、背面は中央に柱が立ち2間とする。これらの社殿は明治22年(1889年)の洪水では流出を免れ、現社地に移築されたものである。各建物は入母屋造屋根を用いる点、木割が太く、装飾の少ない簡素な構成とする点に特色があり、床下に連子窓を設けるなど、細部形式にも特色がある。社殿の形式や配置は中世の絵画資料にみられるものと一致し、古くからの形式を保持していることがわかる。 重要文化財(美術工芸品) 木造家津御子大神坐像、木造速玉大神坐像 、木造夫須美大神坐像、附 木造天照大神坐像(1966年〈昭和41年〉6月11日・4躯一括指定)。 鉄湯釜(1983年〈昭和58年〉6月6日指定) - 湯立ての神事に用いる湯釜で、建久9年(1198年)の銘がある。鉄製の湯船としては建久8年在銘の東大寺大湯屋のものが最古であるが、湯釜としては本品が在銘最古の遺品である。 史跡 熊野三山 - 熊野本宮大社境内は史跡「熊野三山」の一部である。当初、本宮大社社地は大斎原(本宮大社旧社地)のみが史跡「熊野参詣道」の一部として史跡として指定を受けていたが、2002年(平成14年)12月19日、熊野三山が熊野参詣道から分離・名称変更された際に、現社地が追加指定された。 |