社伝によれば、孝安天皇(第6代)の頃、名草郡の治水のために水門神である速秋津日古命を祀るよう託宣があり、それによって祀られたのが鳴神社の創建であるという。 祭神は現在、速秋津彦命と速秋津姫命の二座であるが、この両神が祭神となったのは、享保4年(1719)以降のことである。それ以前に書かれた季梅渓の『南紀名勝志』には、「鳴神社は中郷鳴神村中に在り、其れ何神と為すも未だ詳かならず」とある。『紀伊続風土記』によれば、享保4年にそれまでの神仏習合を廃し、古来に復し日前・国懸・伊太祁曾と柑並ぴうる神社とすべく両殿を作らせたという。この神仏分離に際して祭神の確定がなされ、両神が祭祀されるようになったのである。 |
鳴神社 御由緒 当社は延喜式内名神大社往古紀伊湊を開拓した紀伊忌部氏により創建せられた。 主祭神 天太玉命(向かって左側本殿) 及び祓戸の神速秋津彦命速秋津姫命(向かって右側本殿)を祀る。 平成8年10月 鳴神社 社務所 社頭掲示板 |
三摂社由緒 鳴神社境内 三摂社由緒 香都知(かづち)神社 (俗称逆松さん) 祭神は軻遇突知命(かぐつちのみこと) 境内東端の社殿に鎭座する。 もと鳴神社の東北200m御船ノ芝にあったが明治40年10月鳴神社境内に合祀された。 堅眞音神社(かたまおと) 祭神は神吾田鹿葦津姫命(かむあたしかあしつひめのみこと) 境内東端の社殿に香都知神社と並んで鎭座する。 もと鳴神社の東北300m鳴神惣垣内にあったが明治40年10月鳴神社境内に合祀された。 鳴武神社(なるたけ)(別名壼の御前という) 鳴神社南向側にある。 祭神の鳴武大明神は五世紀ごろ朝鮮百済の国から紀伊国に渡来し始めて酒造技術を伝えた百済国耆閣大王の第四王女である。 もとは神社であったがいまは石祠が建てられ祀られている。同所には百済の国から持ってきた酒壼七箇が埋納されているといわれる。 社頭掲示板 |
鳴神社 当社は紀伊続風土記によれば約1500年前天太玉命(建築家内安全の神)を祭神として創建された古社である。 天正13年(1585)豊臣秀吉の紀州太田城水攻めにさいし社殿神宝のことごとくを失い荒廃したが江戸期に入り紀州藩主徳川頼宣公によって再興された。 そのとき祭神として祓戸の神速秋津彦命速秋津姫命の二神を祀り今日に至った。 このたび奈良県橿原市の天太玉命神社より旧主祭神天太玉命の御分霊を賜り祓戸の神二神とあわせて当社に祭祀することとなった。 旧主祭神の還御を記念し茲に本碑を建立する。 平成8年10月14日 鳴神社 社頭石碑 |
鳴神社 村中にあり一村の氏神なり當社本國式内相甞四社の一にし最尊し三代實録に貞観元(859)年正月27日授紀伊ノ國従五位下鳴ノ神社従四位下ヲとあり後階を加えて正一位ののほり給ふ鎮座の時代詳ならす日前宮の舊記い中世国造家より神領若干を寄附し大禰宣を補任し祭祀等は神官の内行事を代官とす是を鳴神行事といふ其の後天正(1573)前後の事考ふへき事なし慶長(1596)の頃より社僧の如き者兩部習合の祭をなし來れるに享保(1716)年中官命ありて兩部を一洗して古典に復し本殿雑舎に至るまで悉く修造せられ神領五石を寄附し新に神職を命せられるこれより日前国懸伊太祁曽神と相列りていと尊き御神なること再ひ世に知られたり祀神古傳を失へり按するに国造家ノ舊記に鳴神村は舊忌部郷の内とし康富記紀州鳴神社氏人楯桙を造進の事あり本国に上古より忌部氏あり事古語拾遺に詳なり此等に因るに忌部氏の祖神太玉命を忌部郷中嶋といふ地に祀りて氏人奉仕し 朝廷にも殊に尊ひ給ひて相嘗祭に預らせ給ひ祀れる地の名をもて鳴ノ神社と稱し來れるなるへし 紀伊読風土記 |
鳴神社 当神社は、延喜式神名帳名神大社。 相嘗祭に預った古社である。 旧村社。 『紀伊続風土記』によれば、何時の頃からか不明であるが、氏地内での争論、天正13(1585)年豊臣秀吉の紀州攻め、神仏習合等により衰微していた当社は江戸中期の享保4(1719)年に仏色を排除して紀州藩による社殿の再建、又神田5石余の寄進を受けた。 しかし乍らその際に「然るに祀る神を定めらるるに至りて速秋津彦命、速秋津比売命となし本殿を両殿に作らしめ給へり」とあり、現在の祭神は近世に改めて定められたのである。 『延喜式神名帳』名草郡条には本来祭神一座にて、古代忌部郷(紀伊國忌部氏の本拠 彦狭知命は紀伊忌部の祖とされる)に属するところから元来の祭神は忌部氏の祖神である天太玉命と思料される。 忌部氏は朝廷祭祀の他造殿港湾等の技術集団として初期大和政権の発展に大いに貢献した。 当神社は、その遺徳を伝える。 当境内地は忌部(現在の井辺)の出島。 尚、鳴の意は古へ奥宮の存した大日山直水谷の谷水の音。 朝廷の最も尊崇された由縁である。 お火焚祭(節分) 和歌山県神社庁 |