横野神社(旧地)
よこのじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】横野神社 河内国 渋川郡鎮座
          (合祀先)巽神社

   【現社名】横野神社(旧地)
   【住所】大阪府大阪市生野区巽西3−9
       北緯34度38分44秒、東経135度32分45秒
   【祭神】
   【例祭】
   【社格】
   【由緒】由緒不詳
       近世社名も失われ、印地宮と通称される池の小祠としてあった

   【関係氏族】
   【鎮座地】この地を旧跡という
        印地宮と通称される池の小祠としてあった
        明治40年、八幡宮へ合祀されて、八幡宮を巽(たつみ)神社に改称

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「印地宮」と称していた
   【社殿】なし
       

   【境内社】

住宅と工場が混在する街中に石碑がある


横野神社跡

当社は、平安時代に記された延喜式内社の神社でもとは印色宮(いんじのみや)と呼ばれ、明治40(1907)年巽神社に合祀されるまでこの地に在りました。
 『日本書紀』によれば、仁徳天皇は仁徳天皇11年に難波高津宮の北に堀江を掘り、旧大和川の水を西へ流す治水や淀川に茨田堤を築くなどして耕地を増やし、大きな功績を挙げたことを伝えています。
 また、仁徳天皇13年にはおそらくこの辺り一帯にあったと思われる『横野堤』を築き、翌年には『つるのはし』を架けたと伝えられ、この横野堤の守護神が横野神社であったといわれています。

大阪市HP



史跡 横野神社蹟

この社地はもと河内国渋川郡大地村の神社で、古来より印地之宮または西之宮と呼ばれ、平安時代の延喜式の古社であった。御祭神は11代垂仁天皇の皇子印色入日子の命で、社地は元々三百坪の境内であった。
その起原は、日本書紀仁徳天皇13年の條に「冬十月横野堤ヲ築ク」という記述があり、昔この付近を流れていた橘川(古平野川)の氾濫を防ぐため巨大な堤防を築かれたと云われ、その堤の安全と河水の穏流を願って造営されたのが当社の始まりと云われている。
又、当地を詠んだ古歌、万葉集に、「紫の根延ふ横野の春野には君をかけつつ鴬鳴くも」
続いて続古今集に、「霜桔の横野の堤風さえて入り汐さえて入り汐遠く千鳥鳴くなり」
と云う歌があり、当時この辺りが海に近かったことが偲ばれるのである。 
神社の変遷
 江戸時代前期延宝年間に至り、社地は荒果て社殿も吹倒されたため同村、大地村八幡宮(現・巽神社(たつみじんじゃ))の境内に御祭神を移したことがあった。
その後、享保年間になって、有名な五畿内志を著した当時の国学者の並河誠所がこの社地をお調べになり、由緒ある旧社である旨を庄屋松久善左衛門に申し聞かせ、これにより享保16年公儀のお許しを得て村民達により立派に再興された。以来、宮座を組んで連綿と神燈を守ってきたが、明治40年の神社合祀令により巽神社(たつみじんじゃ)に合祀され廃社となった。
 正面の碑は大正8年宮座、横野講の人々によって建てられたものである。尚、前方左側の碑は平成4年に建立された万葉碑である。万葉学の大家、犬養孝先生の揮毫になるもので、同年3月31日同氏により除幕された。
平成5年9月吉日
横野万葉会 謹記

社頭掲示板



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