横野神社[巽神社に合祀]
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   【延喜式神名帳】横野神社 河内国 渋川郡鎮座
          (旧地)横野神社(旧地)

   【現社名】巽神社
   【住所】大阪府大阪市生野区巽南3-17-19
       北緯34度38分29秒,東経135度33分14秒
   【巽神社祭神】応神天皇
       (合祀)印色入日子命 伊弉册尊 天常立尊 天照大神 天児屋根命 菅原道真

       横野神社の祭神は印色入日子命

   【巽神社例祭】10月14日 例大祭
   【社格】
   【由緒】仁徳天皇13年冬10月是月築横野堤
       延喜の古社廃退して記録に残らなかつた
       印地宮と通称される池の小祠としてあった
       享保16年2月18日印地宮を横野神社と定め祭神も印色入日子命とした
       明治5年(1872)村社
       同40年八幡宮へ合祀されて、八幡宮を巽(たつみ)神社に改称

   【関係氏族】
   【鎮座地】大阪府大阪市生野区巽西3−9に旧址の碑があり

   【祭祀対象】堤の守護神
   【祭祀】江戸時代は「印地宮」と称していた
   【巽神社社殿】本殿流造
       拝殿・祝詞殿・神饌所

   【境内社】

現在は巽神社に相殿合祀されている。
仁徳天皇13年にこの辺り一帯にあったと思われる『横野堤』を築き、翌年には『つるのはし』を架けたと伝えられ、この横野堤の守護神が横野神社であったといわれている。
茨田郡の茨田堤築堤の由縁をもつ「堤根神社」の社名由来と同様の由縁をもつ神社であろう。
史料に記載無く延喜の古社が徳川期まで廃退し、印地宮と通称される池の小祠としてあった。
享保16年2月18日、この印地宮を横野神社と定め祭神も印色入日子命を祀った。
明治40年4月27日、八幡宮へ同郡巽村の四條天神社、同矢柄熊野神社、同伊ケ賀天神社、同西足代天照大神社と共に合祀されて、八幡宮を巽(たつみ)神社に改称して今日に至つている。
旧地に碑がある。


横野神社

当社は、平安時代に記された延喜式内社の神社でもとは印色宮(いんじのみや)と呼ばれ、明治40(1907)年巽神社に合祀されるまで少し高台のこの地に在りました。
『日本書紀』によれば、仁徳天皇は仁徳天皇11(320) 年に難波高津宮の北に堀江を掘り、旧大和川の水を西へ流す治水や淀川に茨田堤を築くなどして耕地を増やし、大きな功績を挙げたことを伝えています。
また、仁徳天皇13(322) 年にはおそらくこの辺り一帯にあったと思われる『横野堤』を築き、翌年には『つるのはし』を架けたと伝えられ、この横野堤の守護神が横野神社であったといわれています。




伝説

かつて大池村に村民の語り傳へる話がある。それは、「昔、この印地(いんじ)宮のあたりに、狭山池から流れる川があり、ある時大雨が降つてその大水で上流から御幣の入つた湯桶が流れ來り、その桶に式内横野神社と書かれた神符があり、附近の住民が、これこそ我々が村に與へられた神だとして、相争つて奪いあつたが、結局、大地、四條、田嶋の三ケ村のくじ引きで決めることになり、大地村が勝つて、流れついた場所に小祠を建立したのが、この横野神社といわれている」



巽神社由緒記

巽神社略歴
鎮座地  大阪市生野区巽南3丁目824番地
御祭神  主神(中央)応神天皇(品陀別名命)
     相殿 印色入日子命
     同  伊弉冊尊
     同  天常立尊
     同  天照大神
     同  天児屋根命
     同  菅原道真公
御由緒
当社は旧河内国渋川郡大地村にあって八幡神社と言い創立年代は明らかでないが当地の地名を大地と称えるのは和名類聚抄に邑智の事は明らかである。
和名抄巻の六に河内国渋川竹淵邑智余部賀美とある。
元来日本の国の風習として昔から人が住めば必ず始祖神(氏神)を祀る。それで人皇第六十二代(紀元1607年)の御時編さんせられた和名抄に当地名が記載せられてあるのを以って見れば当時既に神社の祀られて居つことは疑う余地がないのである。
延喜式神明帳は人皇第六十代醍醐天皇の御時編さんせられたものであって和名抄の編さんとは僅かに数十年前である。故に邑智の名称は延喜の頃すでに河内五郷の一として盛大な村落であつたことは明らかである。
それで延喜式編さん当時に八幡神社が存在して居つたが神明帳に洩れたものであろう。式に洩れた社を式外と言い有名な社もその間に多くある。
沿革
当社には式内横野神社があり、人皇第十一代垂仁天皇の第二皇子印色入日命を祀る。昔神威輝き享保の頃まで衰退して居ったが同十六年再興せられたのである。その都度八幡神杜の境内へ移した事があったと言う。
明治5年7月村社に列らなり、同40年4月27日付を以って次の五社を合祀の許可(政府)を得て村の名をとって巽神社と改称する。
一、大地字印地   横野神社
二、伊賀ケ字伊賀ケ 天神杜
三、西足代字葭の内 天照皇大神社
四、矢柄字宮の前  熊野神社
五、四条字山小路  天神杜
明治40年12月5日合祀祭を執行する。
同41年10月16日会計指定神社となった。
大正4年1月神饌帛料供進神社となった
昭和21年2月勅令第七十号により国家の管理から離れ宗教法人となったので氏子各位の崇敬をもって維持している現状である。
社殿その他
本殿流造   鉄筋コンクリート内部木造12.8八u
祝詞殿    鉄筋コンクリート内部木造21.12u
拝殿     鉄筋コンクリート内部木造51.1u
神饒所    鉄筋コンクリート内部木造5.76u
祭具所    鉄筋コンクリート内部木造5.76u
向拝     鉄筋コンクリート10.25u
元の建物は享保五年の建築にて腐朽甚だしきため昭和50年6月御造営する。手水舎由緒掲示板等あり
参集所    木造瓦葺平屋建128.1u
    (洋間、一〇帖二間、六帖、湯沸、管理室等)
社務所入母家反家根造瓦葺39坪昭和9年10月改築する。
境内地  1146坪1合7勺玉垣を廻らし区画あり。
末社  稲荷社豊川稲荷大神を祀り昔より守護神として当境内に安置する。氏子以外の崇敬者多くあり。
賽神杜、八街彦、八街姫、久那斗神、稲荷神社に相殿として祀る。この大神は明治25年4月23日若江村(東大阪市若江)から遷し祀る。
主な祭日
一月一日   元旦祭
一月十五日  成人祭・お火焚祭
二月三日   節分祭
四月初午の日 豊川稲荷荷杜初午祭
七月十五日  夏大祭
十月十五日  秋例大祭
十一月中   七五三祝祭
十二月五日  合祀記念祭b 十二月三十一日大祓祭・除夜祭
毎月一日・十五日月並祭
神文橘
氏子区域 旧巽町全域(巽中・巽南・巽東・巽北・巽西)

由緒書



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