石切剣箭命神社(下之宮)
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   【延喜式神名帳】石切剣箭命神社 二座 河内国 高安郡鎮座
          (上之宮)石切剣箭命神社(上之宮)

   【現社名】石切剣箭命神社
   【住所】大阪府東大阪市東石切町 1-1-1
       北緯34度40分56秒,東経135度38分45秒
   【祭神】饒速日尊・可美真手命
   【例祭】10月21日 例祭
   【社格】旧村社
   【由緒】神武天皇紀元2年の創立
       崇神天皇の御世に現本社に可美真手命が奉祀されたと伝
       貞観7年(865)9月22日従五位下『三代実録』
       足利時代の末期に兵火に罹る
       明治5年(1872)村社
       同年6月、上ノ神社を合祀
       同年12月25日上之神社分離して村社に列した
       同40年1月神饌幣帛供進社に指定
       同年11月2日上ノ神社は再び本社に合祀
       昭和47年3月15日跡地に石切剣箭神社上之宮を再建

   【関係氏族】木積氏・保積氏
   【鎮座地】生駒山中の宮山に創祀
        崇神天皇の御世に現地に可美真手命が奉祀

   【祭祀対象】
   【祭祀】連綿として継承されている
   【公式HP】 石切剣箭命神社
   【社殿】本殿
       拝殿・神輿舎・祓殿・神樂殿・社務所・絵馬堂兼楼門・禊殿

   【境内社】五社神社・神武社・水神社・乾明神社・穗積神社
   【境内図】 境内図

今日も生き生きと活動している神社である。 参拝者も多く、門前町も発達しており、漢方薬の店、占いの店なども多く、一種独特の雰囲気を醸し出している。
関西屈指の民間信仰の社とも言われ、「デンボ(出来物)の神様」として有名で、オデキやニキビ果てはガンの腫瘍に悩む人々の熱い思いがお百度参りへと導いている。
社伝によれば創祀されたのは神武2年とされ宮山に天照大神の孫である饒速日命が祀られ、その後、崇神天皇の御代に饒速日尊の御子神あり物部氏の祖神とされる可美真手命を本社(下之宮)に祀ったとされる。
古来より社名の変化はなく、鎮座地の移動もない。宮司も創建以来木積氏であり、祭神の裔であり、100世以上連綿と継承している。
社前には、幹囲7.5m、高さ20mに及ぶ天然記念物の大樟樹の御神木がある
神社の公式な見解には無いが、「石切さんは長髄彦と深いかかわりがある。」「石切さんには長髄彦がお祀りしてある。」等の口伝があるという。


石切劔箭神社

当社は延喜式内の古社で、神名帳には「石切劔箭命神社二座」とある。祭神は古代の豪族物部氏の祖神・饒速日命と可美真手命で石をも切り通す劔と箭を神霊として「石切劔箭命神社」としたと考えられる。当社の世襲の祠官は物部氏の一族穂積氏で.のち訛って功積氏、さらに木積氏となった。今はその霊力が腫物をなおすと言うことから信仰を集め、参詣者は社前に後を断たない。
東大阪市
東大阪観光協会

社頭掲示板




由緒

いしきりのおしえ五訓
一、われら共々に神の御子としての正しい信仰に目覚めましょう
一、われら共々に行事を怠らず節度を守りましょう
一、われら共々に日々の平安に感謝し温かい心で接しましょう
一、われら共々に物資を尊び物の扱いに気をつけましょう
一、われら共々に心を平静にして本業にはげみましょう
御祭神
饒速日尊、可美真手命の御二柱
本社には、わが大和民族が皇祖と仰ぎ奉る「天照大神」の御孫にあたられる「瓊々杵尊」の御兄「饒速日尊」と、その御子「可美真手命」の御二柱を御祭神としてお祀りしています。
御祭神は私たち日本の国の発祥にあたる大和建国に御功績がありました。尊は神武天皇の御東遷に先立ち、天照大神から十種の神宝をさずかり、大和建国の任務を受けて天磐船に乗り、哮ヶ峰(今の生駒山)に天降りになりました。そのころ、大和地方にはすでに勢力を拡大している先住の人達がおりました。命はその一族の家長である長髄彦の妹登美夜毘売(三炊屋媛)と結婚され、御子可美真手命がお生まれになりました。その後、年月を経て神武天皇の御東遷に際し、命と神武天皇は、御所持の天羽々矢を示し合い、お互いに天照大神の子孫であることがわかったので、命は長髄彦に帰服をおさとしになり、神武天皇に忠誠をつくされたので、大和建国はここに成功したのであります。神武天皇も功績をお褒めになり「素より饒速日尊は天より降れる者なるを聞けり而るに今果して殊功を樹てたり」と、劔をお授けになりました。饒速日尊という御名は「徳が高く広く活発で勇猛であらせられた」ことの意義をもつ御尊名であります。
また、可美真手命は、大和地方の治政に尽力されたのはもちろん、神武天皇の親衛として、物部一族を率いてお護りになり、十種の神宝によるマジナイの神法で多くの人々をたすけられました。可美真手命は「ご立派な御徳を有されたお方」という意味です。
本社の尊称は石切劔箭神社と申します。これは、どんな強固な岩でも何の苦もなく切れ刺し貫くような、立派な剣と箭(矢)を御祭神の御神体として御祀りし、その御利益も非常に大きい御社であるという意味であります。なお、この尊称のほかに地方では木積宮、または穂積堂とも申しています。
本社の由緒
本社の御鎮座は、今から700年前、足利時代の末に兵火にかかり、社殿及び宝庫が灰と化したため明瞭ではありませんが、『延喜式神名帳』(約1070年前)の中にすでに記載されており、また『三代実録』という書物には貞観7年(約1130年前)9月に、本社の社格が正六位から従五位に昇格されたことが記されています。また、天文5年(約460年前)に記述されたもので、木積氏の祖先藤原行春大人の『遺書伝来記』には、神武天皇紀元2年(約2600有余年前)宮山に「上之社」が建てられ、崇神天皇の御代に「下之社(本社)」に可美真手命が祀られたとあります。
本社の祭祀は代々木積家が司ってきましたが、「木積」という姓は本来「穂積」といい、饒速日尊の第七代目に当る伊香色雄命がこの穂積姓を初めて名のられ、それ以来物部氏の一統として一氏族をつくり、大和を中心として八方にその部族が増大して行きました。その祖先である饒速日尊、可美真手命を御祭神と仰ぎ、ここ「石切」の地に御霊代を奉祀し、本社鎮座となったのであります。木積家は代々神職として朝夕、皇室の安泰.国家の興隆・崇敬者の無事繁栄を御祈祷し、御加護をお願いして参りました。
神事・祭事
摂末社
本社神苑に、五社明神社・神武社・水神社・乾明神社・穂積神霊社と穂積地蔵尊をお祀りしています。
宝物館
御神鏡…木積家の家宝で代々うけつがれている御神鏡十数点。
宝刀…太刀「石切丸」と小刀「小狐丸」。両刀とも鎌倉時代、京都三条小鍛治宗近の作。
環頭大刀把頭…鉄刀の把頭に付けた装飾部。物部族の証とされる。
古瓦(出土品)…白鳳時代の法通寺の瓦。法通寺は物部一族の宮寺であったが現在は廃寺。
このほかお札の版木…150年〜300年前に使用されていたものや、古文書類多数。
宝物館は、春と秋の大祭期間中一般公開いたします。

修練館
本社境内の石切修練館では、信仰と趣味をかねた石切文化教室を開催し、俳句・書道・伎芸面・水墨画・剣道を指導しています。

宮山めぐり
毎月第2と第4日曜日、本社崇敬会館前10時30分出発→上の宮→宮山→参道商店街を経て本社ヘハイキングの集いを催しています。会費不要・自由参加。

関係社
石切劔箭神社(上之社) 東大阪市岩切町2丁目0729(82)3341
御祭神は、本社と同じ饒速日尊と可美真手命の御二柱をお祀りし、奥の院ともいわれます。

神苑に、婦道神社と八代龍王社をお祀りしてあります。お滝の行場も近くです。
●毎月第2日曜…御湯神楽●毎月18日…御神火祭
登美霊社
東大阪市上石切町2丁目0729(86)0371
石切劔箭神社の御祭神饒速日尊の御妃であり、可美真手命の御母である「三炊屋媛」をお祀りし、合せて、私たち自らの魂を自我霊尊としてお祀りしている鎮魂道場であります。
●毎月27日…御火焚神事●10月27日…自我霊尊年次祭●11月中の寅の日…鎮魂祭

社頭掲示板



石切劒箭命神社二座

石切は伊波岐里、」劒箭は都留岐夜と訓べし〇祭神明か也○神並村に在す、今木積宮と称す、(河内志、同名所図会)、例祭6月14日、
河内志云、自社西至芝村、旧名木積神浦、
神位
三代実録、貞観7年9月22日庚子、河内國正六位上石劒神等、授從五位下、
連胤云、此神號の書様、石切ノ神と劒箭ノ神二座を略して、石劒と記されたるにや、例なき等の字を加へられたるなど、甚いぶかし、猶考ふべし、

神社覈録



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