石切剣箭命神社(下之宮)
いしきりつるぎやじんじゃ


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【参拝の栞】

ご祭神:饒速日尊、可美真手命の御ニ柱
本社には、わが大和民族が皇祖と仰ぎ奉る『天照大神』の御孫にあたられる『瓊々杵尊』の御兄『饒速日尊』と、その御子『可美真手命』の御ニ柱を御祭神としてお祀りしています。
御祭神は私たち日本の国の発祥にあたる大和建国に御功績がありました。
尊は神武天皇の御東遷に先立ち、天照大神から十種の神宝をさずかり、大和建国の任務を受けて天磐船に乗り、咾ケ峰(今の生駒山)に天降りになりました。
そのころ、大和地方にはすでに勢力を拡大している先住の人達がおりました。
命はその一族の家長である長髄彦の妹・登美夜毘売(三炊屋媛)と結婚され、御子可美真手命がお生まれになりました。
その後、年月を経て神武天皇の御東遷に際し、命と神武天皇は、御所持の天羽々矢を示し合い、お互いに天照大神の子孫であることがわかったので、命は長髄彦に帰服をおさとしになり、神武天皇の忠誠をつくされたので、大和建国はここに成功したのであります。
神武天皇も功績をお褒めになり『素より饒速日尊は天より降れる者なるを聞けり而に今果して殊功を樹てたり』と、劔をお授けになりました。
饒速日尊という御名は『徳が高く広く活発で勇猛であらせられた』ことの意義をもつ御尊名であります。
また、可美真手命は、大和地方の治政に尽力されたのはもちろん、神武天皇の親衛として、物部一族を率いてお護りになり、十種の神宝によるマジナイの神法で多くの人々をたすけられました。可美真手命は『ご立派な御徳を有されたお方』という意味です。
本社の尊称
本社の尊称は石切劔箭神社と申します。
これは、どんな強固の岩でも何の苦もなく切れ刺し貫くような、立派な剣と箭(矢)を御祭神の御神体として御祀りし、その御利益も非常に大きい神社であるという意味であります。
なお、この尊称のほかに地方では、木積宮、または穂積堂とも申しています。
本社の由緒
本社の御鎮座は、今から七百年前、足利時代の末に兵火にかかり、社殿及び宝庫が灰化されたため明瞭ではありませんが、『延喜式神名帳』(約千八十年前)の中にすでに記載されており、また『三代実録』という書物には貞観七年(約1140年前)9月に、本社の社格が正六位から従五位に昇格されたことが記されています。また、天文5年(約460年前)に記述されたもので、木積氏の祖先藤原行春大人の『遺書伝来記』には、神武天皇紀元2年(約2600有余年前)宮山に『上之社』が建てられ、崇神天皇の御代に『下之社(本社)』に可美真手命が祀られたとあります。
本社の祭祀は代々木積家が司ってきましたが、『木積』という姓は本来『穂積』といい、饒速日尊の第七代目に当る伊香色雄命がこの穂積姓を始めて名乗られ、それ以来物部氏の一統として一氏族をつくり、大和を中心として八方にその部族が増大して行きました。
その祖先である饒速日尊、可美真手命を御祭神と仰ぎ、ここ『石切』の地に御霊代を奉祀し、本社鎮座となったのであります。
木積家は代々神職として朝夕、皇室の安泰・国家の興隆・崇敬社の無事繁栄を御祈祷し、御加護をお願いして参りました。


【公式HP】

当社は、我が大和民族が皇祖と仰ぎ奉る天照大神(あまてらすおおかみ)の御孫にあたられる瓊々杵尊(ににぎのみこと)の御兄、饒速日尊とその御子、可美真手命(うましまでのみこと)の二柱をお祀りしています。
御祭神は日本国の発祥にあたる大和建国に御功績がありました。尊は神武天皇の御東征に先立ち、天照大神から十種(とぐさ)の神宝(かんだから)をさずかり、大和建国の任務を受けて天磐船(あめのいわふね)に乗り、哮ヶ峰(たけるがみね)(現在の生駒山)に天降りになりました。そのころ、大和地方にはすでに勢力を拡大している先住の人々がおりました。尊はその一族の家長である長髄彦(ながすねひこ)の妹、登美夜毘売(とみやひめ)(三炊屋媛)(みかしやひめ)と結婚され、可美真手命がお生まれになりました。その後年月を経て神武天皇の東征に際し、尊と神武天皇はお互いに御所持の天羽々矢(あめのはばや)を示し合い、共に天照大神の子孫であることがわかり、尊は長髄彦に帰服をお諭しになり、ここに大和建国は成功しました。神武天皇はその功績を称え「素より饒速日尊は天より降れる者なるを聞けり而るに今果して殊功を樹てたり」と、劔をお授けになりました。饒速日尊という御神名は「徳が高く広く活発で勇猛であらせられた」という意義をもつ御尊名です。
また、可美真手命は、大和地方の治政に尽力されたのはもちろん、物部一族を率いて神武天皇の親衛を勤められ、十種の神宝によるまじないの神法で多くの人々を救いました。可美真手命とは「ご立派な御徳を有されたお方」という意味です。
本社の御鎮座につきましては、今からおよそ七百年前の足利時代の末に、社殿及び宝庫が兵火にかかり焼失したため明瞭ではありませんが、『延喜式神名帳』(えんぎしきじんみょうちょう)の中には、既に当社の社名が記載されており、また『三代実録』(さんだいじつろく)には貞観7年9月に、本社の社格が正六位から従五位に昇格されたことが記されております。
また、天文5年に当社社家である木積氏の祖先藤原行春大人(ふじわらのゆきはるうし)の記した『遺書伝来記』(いしょでんらいき)によると、神武天皇紀元2年、宮山に「上之社」(かみのしゃ)が建てられ、崇神天皇の御代に「下之社(しものしゃ)(本社)」に可美真手命が祀られたとあります。
本社の祭祀は代々木積氏が司ってきましたが、「木積」という姓は本来「穂積」といい、饒速日尊の第七代目に当たる伊香色雄命(いかがしこをのみこと)が、この穂積姓を初めて名のられ、それ以来物部氏の一統として一氏族をつくり、大和を中心として八方に部族を増大させてゆきました。その御祖先である饒速日尊、可美真手命を御祭神と仰ぎ、ここ「石切」の地に御霊代を奉祀申し上げ、本社の御鎮座となったのであります。木積家は代々神職として朝夕、御皇室の安泰、国家の興隆、崇敬者の無事繁栄を御祈祷し、御加護をお願いして参りました。
神話 『鳥見の里と饒速日尊の天降り』
この地方を治めていた豪族、鳥見一族は、稲作や製鉄の技術はないものの、狩や漁がうまく、生活用具や住居づくりに優れていました。また、長身の恵まれた体格は戦闘に秀で、「長髄の者」と恐れられていました。
さて、神々の住む高天原では、天照大神が、孫の饒速日尊に大和の建国を命じ、『十種の瑞宝(かんだから)』を授けていました。
『十種の瑞宝』は、人々を治め、身や心の病を癒す霊力をそなえた瑞宝です。
饒速日尊は『フツノミタマの劔』を持ち、日の御子の証である『天羽々矢』も携えて天磐船に乗り、船団を組んで高天原から船出しました。
船団が豊前(大分県)の宇佐につくと、尊は息子の天香山命に『フツノミタマの劔』を授け、船団の半分をあずけます。
そして自らは、瀬戸内海を通って大和に向かいました。こうして饒速日尊の乗る天磐船は、鳥見の里を見渡す哮ヶ峰(生駒山)に着きました。
切劔箭神社の祭祀は、代々、木積(こづみ)氏が務めてまいりました。この木積の姓は、古代に天皇の側近として仕えた物部氏の、最有力氏族のひとつ「穂積(ほづみ)」から転じたものです。そして物部氏は、石切劔箭神社の御祭神である饒速日尊(にぎはやひのみこと)の子孫にあたります。


歴史

本社の御鎮座につきましては、今からおよそ七百年前の足利時代の末に、社殿及び宝庫が兵火にかかり焼失したため明瞭ではありませんが、『延喜式神名帳』(えんぎしきじんみょうちょう)の中には、既に当社の社名が記載されており、また『三代実録』(さんだいじつろく)には貞観7年9月に、本社の社格が正六位から従五位に昇格されたことが記されております。
また、天文5年に当社社家である木積氏の祖先藤原行春大人(ふじわらのゆきはるうし)の記した『遺書伝来記』(いしょでんらいき)によると、神武天皇紀元2年、宮山に「上之社」(かみのしゃ)が建てられ、崇神天皇の御代に「下之社(しものしゃ)(本社)」に可美真手命が祀られたとあります。
本社の祭祀は代々木積氏が司ってきましたが、「木積」という姓は本来「穂積」といい、饒速日尊の第七代目に当たる伊香色雄命(いかがしこをのみこと)が、この穂積姓を初めて名のられ、それ以来物部氏の一統として一氏族をつくり、大和を中心として八方に部族を増大させてゆきました。その御祖先である饒速日尊、可美真手命を御祭神と仰ぎ、ここ「石切」の地に御霊代を奉祀申し上げ、本社の御鎮座となったのであります。木積家は代々神職として朝夕、御皇室の安泰、国家の興隆、崇敬者の無事繁栄を御祈祷し、御加護をお願いして参りました。

由緒書






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