玉諸神社
たまもろじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】玉諸神社 甲斐国 山梨郡鎮座
          (旧地)御室山
          (拝殿跡)拝殿跡

   【現社名】玉諸神社
   【住所】山梨県甲府市国玉町 1331
       北緯35度39分9秒,東経138度35分53秒
   【祭神】大己貴命
   【例祭】4月15日近い日曜日例祭
   【社格】甲斐国三宮、旧県社
   【由緒】景行天皇の40年創祀とする
       天正10年(1582)兵火に罹り灰燼帰した
       天正11年(1583)4月徳川家康造営

   【関係氏族】
   【鎮座地】旧は酒折の御室山頂にあり
        その後現地へ遷

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「国玉明神」と称していた
   【社殿】本殿権現造
       拝殿・舞殿

   【境内社】秋葉神社

本州の三ノ宮を称し、国玉(クダマ)明神ともいう。
景行天皇の40年、東夷の平定を終えた日本武尊は、酒折宮に滞在したおりに御室山を訪れ、甲斐国が乱れないように平和を祈願して、神を祀り境内に玉を埋めてその上に杉の木を植えた。この杉の木を玉室杉(たまむろすぎ)と言ったのが社名の起こりと云う。その後、現在地に遷座したという。
甲斐国の国魂社あるいは国主社として古くから信仰されたものであつて、水晶などの奇石を信仰の対象としたらしい式社とは別系統であるとされている。


玉諸神社

由来
旧国玉村は、国を造った神霊を国の御魂といい、国玉の地名の起こりは国の御魂がなまったものという。甲斐の国魂神社は、国玉明神と呼ばれる玉諸神社をいう。

社頭掲示板



玉諸神社

社記によると日本武尊東征の御帰路、酒折の宮に滞り国中の反乱を鎮められて、景勝の地に国玉神を祀られたに始まるといふ。又、一つの珠を埋め上に杉一株を植ゑられたが、後にこれを玉室杉と称し玉諸の名起るとも伝へてゐる。桓武天皇延暦16年神位従五位上を賜り、淳和天皇の天長3年従三位を賜り、清和天皇の貞観五年官幣を賜り勅願所ともなって、延喜式所載の式内社に列せられた。武田氏も代々祈願所として崇敬を深めたので、天正10年には滅亡の兵火にかかり焼失したが、慶長14年再建家康より神領六拾壱石三斗余を寄進され、代々の将軍も朱印状を賜り甲州三の宮と崇敬された。又、板垣村御室山にありいつの頃かこの地に御遷座ともいふ。天長の頃より一宮、二宮、三宮と共に竜王村三社明神まで水防祭に神幸されたが、いつしかそれも絶えて久しいが平成16年より関係者の協力により復興している。大正11年12月県社に列せられ、境内に秋葉神社、五条天神社を祀り、年と共に古社の風格を備へてきてゐる。

山梨県神社庁



玉緒神社

甲斐国三宮 玉緒神社由緒
神社名と鎮座由来
社記によると甲斐国の上代には酒折宮北方三室山山上に社が祀られていたが、約二千年前景行天皇の御世、日本武尊東征の御帰路の折、山々に囲まれた盆地は水路開けず大雨あればたちまちに氾濫、湖水となり洪水に苦しむ様を見て、酒折宮前方の国中央の佳き地を選び、水害防止の為一つの珠を土中に納め、上に一株の杉を植え、神籬木(神の魂の宿る木)とし土地の守神である国玉大神を一国鎮護の神として祀った。この後、洪水は静まり神徳顕著なるにより、社を祀り国魂神・国玉社と特に社号を賜ったこの杉は玉室杉とよばれそこから玉緒の名が起こったとも伝えられている。地域に凶変ある時は、この御室山が鳴動して里人に告げるという伝説がある。
甲斐国三之宮について
甲斐源氏の祖、清和天皇貞観5年(863年)神前に官弊(神前への天皇の特別な供え物)を賜り、勅願所(天皇の命に依り地域無事の為の祈願を行う)となり延喜式(当時の法律の施行細則)に所載(甲斐国中で二十社その内、盆地内の山梨筋は九社のみ)され、式内社に列せられた。この頃より中央から任命される国司の巡拝する順により一宮、二宮の称号が生じ当社は三番目、甲斐国三宮と称され篤く崇敬を受け、三社で竜王三社神社まで盆地全体の水防祈願のみゆき祭を斎行、その後、武田家も代々祈願所とし崇敬を深めたが、天正10年(1582年)武田家滅亡時に織田方の兵火にかかり社殿全て焼失の惨鍋に遭う。後、徳川家の朱印を受け、神領は保護され、慶長14年(1609年)徳川家康の命で現在の本殿と旧拝殿が造営されたので、旧拝殿東西の棟木下には、徳川家の家紋である葵の御紋を戴いていた。その後幾度かの修繕を経たが老朽化したため、多くの方々のご協力をいただき平成16年3月玉緒地域全体の総氏神様としての新拝殿が竣工した。大正11年県社に列格、その時までみゆき祭は代官所の命により三社揃って斎行されていたが維新後一時中断、平成15年4月、130年余ぶりに三社みゆき祭が復活した。
 平成16年11月吉日  

社頭掲示板



玉諸神社

たまもろじんじや 甲府市国玉町、旧県社。祭神は、大国魂大神、甲斐国の三の宮。国守が国魂を鎮祭した神社であろう。日本武尊東征の折に創祀したと伝え、古くは酒折の御室山に鎮座したが、のち現在地に遷祀されたという。

神社辞典



郷社 玉諸神社

祭神 大國玉大神
本社は当国三ノ宮と称す、創建年代詳ならざれども古社たること著し、「延喜式山梨郡玉諸神社は即ち当社なり(社記}国主建立の社にして、武田信玄の時、尤も崇敬を極めたり、往昔は酒折の御室山に鎭座ありしを、何れの頃か此処に遷し奉る、今御室山には小祠を置き、当社の旅所と爲せり、(名勝志社記甲斐国志)又「鎮座の義は年久敷義にて、篤と相知不申候、甲斐國惣鎭守一國の中央にて國の魂納め候処と申傳候、(甲斐国寺社由緒書抄)天正10年の乱に兵火に罹りて赤地となれり、翌年4月24日徳川家康、國玉、巨世、上阿原、塩部、酒依にて百三貰文を先規の如く社領として寄附ありて、旧に復する事を得たり、其後國主より数度造替へ修復等ありしと云ふ」(甲斐国志甲斐叢記)社領は「三宮神領、甲斐國山梨郡国玉村之内、六拾一石三斗余事、並社中竹木諸役等、任天正11年4月24四日、寛永19年7月17日両先判之旨永不可有相違者也、年月日(諸社朱印写)日本寺社領員数記には六十六石とも見ゆ、当時の社運の隆昌なりしを推して知る可し「年中祭渡七十五度、総て公祭にして社中夏冬両度の神幸、一ノ宮、二ノ宮同様なり、但し此神は古より馬に乗つて御幸する例なり、官兵杖を給ふと云ふ、(甲斐国志)是れ蓋し徳川氏の崇敬に依りてなり」相傅ふ、淳和天皇御宇天長2年、白根嶽崩壊、洪水国中を浸し、当国再び湖水に化す、依つて詔を奉じ、本社並に一ノ宮二ノ宮と倶に鎮水祭を行ふ、是れ此祭の起源なりと社記に見ゆ、神庫に蔵する所に貫文朱印状を始めとし、古文書宝物数十種あり、さて当社を式内社と認むるものは、巡旧神祠記に「玉諸神社同郡國玉村」とあり、又地名辞書に「旧趾は酒折の御室山に在りしを、中世此処に移したりと説く、或は然らん、玉諸とは玉村、若しくは玉森の義にて、国の御魂の社に因める地名なる事想ふ可し」とありて、当社に賛せるあり、然れども竹森なる玉明神の條に、萬葉玉主を引証しだる神明帳考証の説に近きは、竹森村の明神なるが如し、諸書疑を存すれば暫く後勘を侯って決すべきなり、而して三ノ宮の號を綬けられしは、一條天皇なりと云ふ、明治初年社領を上地し、尋いて郷社に列す。
社殿は本殿、拝殿、幣殿、参籠所、神樂殿(徳川家康造立の社殿なりと云ふ)等を有し、境内1446坪(官有地第一種)にして、古樹鬱蒼、假山あり、地邊に紫藤を植ゑ、風趣多く、四時の詣者絡繹たり。

明治神社誌料



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