かってこの地は手取川の氾濫地帯であった。度々の氾濫によって、集落の流失、離散が繰り返された。その結果楢本神社も遷座・分祀が頻繁に行われ、結果として3社が式社を称するようになった。 お互いに式社であると主張し、とくに下柏野村と宮丸村との式社争論は激しいものがあった。 宮丸地内に梅の木を植えてはならないという禁忌がある。祭神が梅の木枝によつて眼をつきさされたためと伝えられている。 |
由緒 旧県社楢本神社略記 由来 当社は、天武天皇4年の創立と傅えられ、始め大宮宝社と称して、楢本一村(宮丸荘宮丸村の古名)の産土神である。 後に延喜年間、楢本神社と改称されたが、旧社地境内に幹周り二丈余る楢の木があったため、楢本神社と改称されたと旧記にある。 延喜式の式内神名帳に、加賀国石川郡楢本神社一座が載せられているが、当社であると社記にあり、当時は許多の社領を有して本国中でも著名な神社といえる。 天暦年間、比楽川(現在の手取川)が大氾濫し、社殿流失の災厄に遭遇したため、御神体を仮に同村館社跡(現宮東地内の館薮という所はその遺跡)に仮鎮座し奉る。 旧社地(現宮丸新田地内)は、その後田畑となり、跡地にその遺跡を示す石碑がある。 長久4年頃に至り、村民相謀って同村小字宮田(現社地)に新たに社殿を造営して遷祀する。 この頃より、天台宗の宝誓寺吉本坊が当社の別当となって厳重に神勤したが、嘉祥2年越前国に移りしばらく同坊無住となる。 慶長手間に入り、同じく天台宗聖護院宮末派持宝院住僧(現宮司高畠正光先祖)が別当となって神勤した。 また養老2年には、村内にあった舘社、住吉社、春日社、金戸社、天神社の五社が当社に合祀された。 さらに、明治に入り神社制度が確立されると、当社は村社に格付されたが、明治29年3月には郷社、同34年10月には県社にまで昇格し(昭和21年2月1日同制度廃止され宗教法人へ移行)祭例など厳粛に執行された。 明治20年3月には、小字免田の宮丸菅原神社、小字刈谷の苅舎神社、小字大割の住吉神社、小字道村の古本八幡神社の四社が当社に合祀され、現在当社は集めて十社が鎮座されている。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
三社の争い 『特選神名牒』は「今按注進状、上柏野村・下柏野村一宮丸村三ケ村の社なりとて從來各村の民、瓦に社號を争ふにより精密に考へただすと雖も、各社共に衰頽し旧記類も傳はらず、唯土人の口碑のみにて決めがたしと云り、確証を得ざらんには何れ是しとも非しともさだむべきにあらず、」としてゐる。これが明治初期の実情であつた。三村のうち、とくに下柏野村と宮丸村との争論は激しいものがあり、石川縣も困惑したのであらうか、明治7年1月、縣令の内田政風は加賀國第四区(石川郡の松任町の二五町と石川郡の二八村)の区長に封して、下柏野・宮丸両村の申立は双方とも土俗の口碑のみで明徴がないので、今般、両社において「占問ノ仮式」を設けて神慮を窺つて確定し、一旦極められた上は、苦情を申立てても採用しないことを氏子一同に説諭すべきことを達した。しかるに同年2月、下柏野村は石川縣へ証拠の書類を提出して占問の取消方を願ひ出たので、石川縣は宮丸村ヘ封しても証拠書類があつたら由緒書を添ヘて至急差出すベきことを命じて占問の仮式を猶予した。さらに同年5月、石川縣令は、ふたたび第四区の区長に封し、楢本神社に關する宮丸村・下柏野村の争論一件は取調べても到底一定しがたいので、教部省へ伺ふことにするが、なほ証拠書類あらば差出すべしと命じてゐる。かやうに楢本神社は決定が困難なまま三村とも式内社を称してゆづらなかつた。このうち上柏野村の社は、近世以來、乙劔社とよばれてゐたにかかはらず、明治14年には楢本神社と社名の改称を許されたくらゐであつた。 その後、宮丸の楢本神社は同29年に郷社となり、さらに同34年には縣社に昇格した。式内社たることが認定されたものであるかどうかは明確でない。當時一般には宮丸の社をもつて「代議士の神社」と噂するものが少なくなかつたといふ。噂の通り、宮丸には田中喜太郎といふ有力な代議士がゐたので、その力によるところが多かつたと見られたのである。しかも下柏野の社の由緒が宮丸の社にとられたといふ風聞がしきりにあり、下柏野は大いに憤激・抗議し、ために下柏野の社の神職は警察に留置されるといつた騒動まで惹起したといふ。そもそもこの三社は、前記のごとく相去ること遠からざる地に鎭座し、『日本地理志料』は所在地を和名抄の笠間郷内とし、『大日本地名辞書』は拝師郷にありしにあらずやとする。伝承によれば、往古この地方は加賀の大河として知られる比樂川(手取川)の流域だつたが、しばしば氾濫をくりかへして集落の離散廃滅が甚しかつたといふ。おそらく楢本神社も社地の流失などの災害をうけ、いづれかの地に遷祀されたに相違ないであらう。 式内社調査報告 |
楢本神社 当社は、天武天皇四年の創立と傅えられ、始め大宮宝社と称して、楢本一村(宮丸荘宮丸村の古名)の産土神である。後に延喜年間、楢本神社と改称されたが、旧社地境内に幹周り二丈余る楢の木があったため、楢本神社と改称されたと旧記にある。延喜式の式内神名帳に、加賀国石川郡楢本神社一座が載せられているが、当社であると社記にあり、当時は許多の社領を有して本国中でも著名な神社といえる。天暦年間、比楽川(現在の手取川)が大氾濫し、社殿流失の災厄に遭遇したため、御神体を仮に同村館社跡(現宮東地内の館薮という所はその遺跡)に仮鎮座し奉る。旧社地(現宮丸新田地内)は、その後田畑となり、跡地にその遺跡を示す石碑がある。長久4年頃に至り、村民相謀って同村小字宮田(現社地)に新たに社殿を造営して遷祀する。この頃より、天台宗の宝誓寺吉本坊が当社の別当となって厳重に神勤したが、嘉祥2年越前国に移りしばらく同坊無住となる。慶長手間に入り、同じく天台宗聖護院宮末派持宝院住僧(現宮司高畠正光先祖)が別当となって神勤した。また養老2年には、村内にあった舘社、住吉社、春日社、金戸社、天神社の五社が当社に合祀された。さらに、明治に入り神社制度が確立されると、当社は村社に格付されたが、明治29年3月には郷社、同34年10月には県社にまで昇格し(昭和21年2月1日同制度廃止され宗教法人へ移行)祭例など厳粛に執行された。明治40年3月には、小字免田の宮丸菅原神社、小字刈谷の苅舎神社、小字大割の住吉神社、小字道村の古本八幡神社の四社が当社に合祀され、現在当社は集めて十社が鎮座されている。 石川県神社庁 |